約束と意志

図書館で、講談社の月刊誌「RATIO」2月号を借りて読んだ。その中の「ホッブズとアレントの社会契約論ー約束をめぐる『義務』と『愛』について」という論文を発表が面白かったのでまとめたい。



まず、アレントはその主著である「全体主義の起源」、「人間の条件」などで西洋思想史の根源的な問題を取り上げ、近代批判を展開している。アレントによれば、近代が生み出し、現代を拘束し続けている大きな問題とは、「生命こそ最高善である」という考えである。この観念は、今日では基本的人権の根本理念となっている。基本的人権は、人間が人間であるという事実に基づいて当然持つとされる権利である。それは19世紀までは自由権と参政権が中心であったのだが、20世紀に入ると生存権が主要な位置を占めるようになっていく。人権とは、「人間は生まれならに自由で平等である」という自然権思想に由来する。この自然権思想を近代において確立したのが、ホッブズであった。

ホッブズは、自然状態において人間はみな自由で平等であり生命の維持のために、あらゆるものに対する権利(自然権)を有しているとした。これは基本的人権の先駆的な理念として近代性のシンボルであると捉えられた。

だがアレントは自身のユダヤ人としての過去から、国民国家の埒外に置かれた人々が、まさに「人間である」という事実に基づく人権に頼ろうとしてもそれがなんらの機能も果たさなかったことを知った。それ故、彼女は基本的人権がいかに無意味かつ抽象的な観念であるかを厳しく糾弾したのだ。

普遍的な権利であるはずの基本的人権は、「国民の権利」として国民国家の中に組み込まれなければ、機能し得ない抽象概念でしかなかったのである。国家に先んじる自然権としての人権は幻想であり、「人間である」というだけでは権利は生じ得なかったのだ。

アレントの視点では、人権とは「生命は最高善である」という近代的観念が生み出した効力のない抽象概念でしかない。そして、ホッブズはアレントにとってその問題性を批判する対象となるのだ。だが、両者は人間論と社会契約論に至っては一種の応用が行われている。本論では人間論と社会契約論の解釈という点に絞って論を展開していく。近代と現代の思想が私たちに突きつけて来る根本的な問題とは何かを整理していきたい。



アレントの人間像の特徴は、人間は条件づけられた存在である、という考えだ。「生命それ自体、生まれそして死ぬものであること、世界性、複数性、地球」、人間が作り出したあらゆるものによって条件づけられるという考え方だ。そうした人間の活動の中で基本的なものは、労働、仕事、活動である。

そさこの三者を分類すると、まず労働とは人間の肉体の生物的過程に対応する活動力をいう。労働の人間の条件とは生命それ自体である。

仕事とは、人間存在の非自然性に対応する活動力のことをいう。仕事とは、自然環境とは異なった人工的な世界を作り出すことができる。仕事の人間の条件は、世界性である。

活動とは、物や物質の介入なしに直接人と人との間で行われる活動力をいう。複数性という人間の条件である。活動は、複数の人間であるという事実に対応している。

アレントはこれらを踏まえて、「私的でも公的でもない社会的領域」に目を向ける。アレントによれば、社会的領域は近代になって初めて現れたものであり、その政治形態が国民国家と呼ばれる。

近代になると、古代において家という私的領域に属していた経済的なものが公的領域に侵入し、私的領域と公的領域の境界は曖昧になった。つまり、「国民大に拡大された家」としての社会が現れるのである。アレントは真の公的領域が失われ、ただ労働という私的な活動力が示されているにすぎないという。「国民大に拡大された家」は、「常に、その成員がたった1つの意見の利害しか持たないような、単一の巨大家族の成員であるかのように振る舞うことを要求する」。これは画一主義を招き、他者から抜きん出るような自発的な活動を排除する。

アレントは、「社会とは、ただ生命を維持するためだけに相互依存するという事実が公的な重要性を帯び、ただ生存にのみ関わる活動力が公的領域に現れるのを許されている形態に他ならない」と述べる。アレントの視点では、近代社会とは、生命の必然によって支配された領域であり、自由の領域ではない。そこでは、労働という活動力が中心を占め、そこでの政治は画一的なものとなっていく。国民を構成するものは、「労働する動物」としての人間だ。

視点をアレントからホッブズに移すと、近代国家の基礎理論を築いたホッブズは、まさにアレントの言うような人間像を準備したのではないか?

ホッブズ自身は労働という視点から見ると、ほとんど関わってこない。だが、ホッブズの人間像は本質的な意味において「労働する動物」と関わっている。ホッブズの社会契約論は、「人間各人が生命の保存のために、自然法に従って自らの自然権を放棄し国家を樹立する」というものだ。ホッブズは、「人間はみな、自然に必然的に自分にとって善なるもの、自己保存に繋がるものを目指す」と考えていた。アレントの言葉を借りれば、ホッブズの言う人間とは「自然によって強いられる生命の維持に従属した存在」だと言える。これは「労働する動物」への一歩ではないだろうか。

アレントにとって、「自由」とは、「生命の必然に従わない」かのとであり、「支配することも、支配されることもない」ということである。近代における公的領域と自由平等の喪失は、ホッブズと近代が人間を種として位置付け、「生命こそ、人間の最高善である」と仮定したことに起因するとアレントは結論づける。

アレントの「労働する動物」および、近代への批判はホッブズ的人間像への批判でもあったのだ。



次にアレントと、ホッブズの社会契約論について見ていきたい。ホッブズは、社会契約には2種類あるとした。1つは各人の相互契約によって作られるタイプの国家だ。もう1つは主権が実力によって獲得される「獲得による国家共同体」と呼ばれるものだ。

ホッブズは社会契約を「設立による国家共同体」と「獲得による国家共同体」とに区別した。

「設立による国家共同体」とは、一人の人あるいは1つの合議体」に主権を与えるという各人の同意(相互契約、相互信頼の信約)によって形成される国家だ。

一方で「獲得による国家共同体」とは、征服者に対し敗者が服従することに同意し、信約を結ぶことによって形成される国家である。この両者はともに、同意と信約によって成立する。

次にアレントの社会契約論を見ていきたい。

アレントは社会契約を、平等な個人間の「相互契約」によって新しい共同体を作るという「第一の社会契約」と人民と支配者との間の「契約」によって政府を形成するという「第二の社会契約」とに区別した。「第一の社会契約」の特徴は、相互契約と約束とにあり、「第二の社会契約」は同意にあるとアレントはいう。

ホッブズとアレントの社会契約論の二類型はとてもよく似ているといえるだろう。

アレントにとって、「第一の社会契約」があるべき社会契約であった。一方的な同意によって、信約が成立することを認めるホッブズの社会契約論は、アレントにとって退けられるべきものであった。アレントは一貫して、社会契約における相互性を重視している。

ホッブズとアレントの社会契約論における違いとは、義務の起源である「他者」ではないか。ホッブズにおける信約とは、究極的には神に原因とする必然的な意志を持った人間と人間の間の「約束」だ。ホッブズの理論においては、約束を守る義務は他者を経由せず、直接神から来るものだ。これに対してアレントは、人間には約束を守る能力があるとして、他者に対する約束を守る「義務」というよりは「愛」という言葉で「約束」が遵守されると説明する。

アレントの場合は、意志を神という存在に依拠することなく、自由意志を承認する新たな意志論によって社会契約論が構築される。アレントの言う「愛」とは、人間の様々な精神的諸能力を相互に結合する精神の力だが、愛は意志の一種の変容態である。愛は統一力において意志よりも強力で、持続性、永続性を持つ。愛とは、持続し葛藤のない意志なのだ。社会契約が、そうした意志の元で結ばれるなら、その約束は永続的に守られることになる。

対してホッブズは、神に依拠した意志によって、社会契約(約束)を守ろうとした。アレントは神に依拠することなく、自由な意志(愛)と他者との相互性を確保しつつ、社会契約(約束)の永続性を導き出そうとしたのである。



社会契約は、約束を守る根拠と約束を守る意志の問題に行き着く。この約束の意志の問題に対して、ホッブズからは「義務」が、アレントからは「愛」の理論が提起された。このような両者の理論は、国家の構成原理をどこに見出すのかについて私たちに重要な示唆を与えているのでないか。



参考・引用:月刊誌「RATIO」2月号 より「ホッブズとアレントの社会契約論ー約束をめぐる『義務』と『愛』について」梅田百合香

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