消費される文学、思想、批評

最近、東浩紀の「ゆるく考える」を読んでいた。これは平成時代の11年間に及ぶ評論やエッセイをまとめたもので、結構な分量がある。

東がなにを「ゆるく」考えてきたのかということだけれど、それは現代における公共性……集団という意識からは完全に免れてつつある私たちがどのようにしてそれをデザインしていくことができるのかということだと思う。でもそんなことを従来の批評家や思想家がしてきたように、まじめに偉そうにそして堅苦しくやっても時代が応えない。

「ゆるく」というのはそういうものを前提とした、多分東なりのアンチテーゼというか皮肉なのかもしれない。私はあんまり好きではないけれど。



さて、平成という時代が一応は幕を下ろして令和という新時代が始まった。そこで、出版界(だけではないけれど)ぞろ平成の総括が始まっている。私も東の著書はなんとなくそういう意味合いでも読んでみた。以前に読んだ宇野常寛著の「ゼロ年代の想像力」と比べながら考えていくと、東の言いたいことと微妙に重なる部分があるような気がして面白い。

平成がどのような時代であったのかをひと言でいうとそれは「大きな物語から小さな物語への過渡期」だったのではないか、ということだ。国家国民的な大きなイデオロギーが人々の中心的価値であった時代、より詳しく言えばそういう大きな物語が人々の不安や欲求やアイデンティティの確立に確かな意味を持っていた時代から、個人を最大単位とした小さな物語への移行は間違いなく平成の30年の間に起こったパラダイムシフトだ。個人のための個人による小さな物語は、その人の数だけあり得る天文学的な微細で膨大な物語群である。それは他者に認められることであったり、人よりもお金持ちになることだったり様々だ。

物語の内容や規模の大きさというのは、私は表面的なものに過ぎないと思う。問題とすべきなのは、これまで私たちの中心的な価値観であった既存の学問や組織、思想といったものたちがもはや「意味をなさなく」なった事実だ。その穴を埋めているのが一人一人が「個人である」という自意識とそこに連なる「小さな物語たち」だ。

既存のものの中には東がこれまで取り上げてきたような文学や思想や批評ももちろんある。だがそれは既に従来の意味を失っている。では、現代においてそれらはどのような存在として人々の間にあるのか?

私にはそれがなんとなく掴めないままでいた。東はこう書く。



「実際に日本でも、とりわけ若い世代においては、思想や文学や批評は、すでにそのような『ちょっと変わった趣味』としてしか受容されていないように思われます。……そのような思想の軽薄化・ライフスタイル化、いわば『サブカル化』は……最近のオタク論壇との接近に至るまで一貫して続いている。


思想が週末の趣味のひとつに堕ちてしまうこと、それは嘆かわしいことですが、現代人には、もはや思想のそれ以外の役割が想像できないはずだからです」



既存の学問体系の趣味化、いわば消費されるモノとしての認知はこの30年において大きな変化だろうと思う。東は趣味という言葉を使っているけれども、私はそういう綺麗な言葉で片付くような現象でもないような気がしている。それは抽象的なモノすらも物体化、計量化更にはカネに換算しなければ気が済まないというような観念の浸透であり、それらは小さな物語へと吸収されていく。

大きな物語というのは、今や脅威や嫌悪の対象でしかない。科学でさえもここでは糾弾の対象となる。

あるのは個人の快、不快といった極めて限られた主観的な物差しだ。そして、そうした現状を東は「動物化」といった造語で説明する。




「動物化とはなにか。改めて一般的な説明を繰り返せば、それはとりあえずは、社会が複雑化し、その全体を見渡すことが誰にもできなくなってしまい、結果として多くの人が短期的な視野と局所的な利害だけに基づいて行動するようになる、そのような社会の変化を意味する言葉です」



これは現代人、小さな物語の中に存在する個人の姿を端的に表現したものだと思う。

現代の私たちの底流にあるものは、消費と共感、そしてカタルシスであると思う。どのような物語を選ぶにせよ、私たちは結局この3つを基軸として各々が物語を作り選んでいるに過ぎないのではないか。そして、ネット空間における自己意識というものがそれらを数珠を繋ぐ糸のようにして媒介している。



物語と自己意識、そして他者に対する意識の変容は決定的である。だがこうした事実に対して、深刻なのは私たち自身の思考と思想が追いついていない事だ。

人というのは、ある時代、ある時期からの固着から免れることは果たしてできるのだろうかと私は色々な「平成批評」を読んでいて思った。

誰もが自分の中のある時代に固着をしている。そういう固着は、理知的な思考すらも越え出ることはできそうにない。

人は自分が最も輝いていた美しいある時代に固着する。それを、なんとなく東の文章を読んでいても感じた。それはとある文学賞を受賞した時かもしれないし、会社を立ち上げて起動に乗れている時かもしれないし、友人と毎夜飲み明かしている時かもしれないし、子どもが生まれている時かもしれない。人はそういった「小さな時代」から、離れることができない。だが、対になるこの「大きな時代」というのは待ってはくれない。

文明が進んでいくことは、そのままその中にいる私たちが進んでいくこととイコールではない。そして、文明の恩恵が等しく受けられると無邪気に信じ切ることができる時代は過ぎ去った。その時に、私たちは大きな物語から、小さな物語への移行を一応は成し遂げたのだ。

これはどんな意味を持っているのだろうか?

私は近代の芽生えは個人という意識の確立から始まったと思っている。そして、現代とはその個人を起点として存在している。だが、こうした個人というもの、個人主義というものは行き詰まっているのではないかと私は思う。

小さな物語は、私たちの抱える本質に果たして触れているのだろうか。私は掌に収まるこの物語は、幼稚で姑息な逃避のように思えてしまう時がある。かといって、かつてのような上から与えられる大きな物語に母胎回帰することもできない。

「私」という存在が、現代に産み落とされている運命は受け入れるしかないからだ。東その中での公共性というものを取り上げた。そして、それに対する姿勢を「ゆるく考える」と形容してみせた。私にはこれもある種の欺瞞、引きこもり的な欺瞞を感じる部分がある。

果たして、いつまで「ゆるく」いられるのか。時代は流れていく。そして、その中に生きる私たちもまた否応なく「流されていく」小さな存在である。

現代に神はいない。

それは哀しいが、消して悲劇的なことではないと私は平成の終わりに、令和の始まりにふと思う。



参考・引用 東浩紀「ゆるく考える」河出書房新社

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