内側のオウム
村上春樹の「アンダーグラウンド」を読んだ。図書館の「平成を振り返る」という企画展で展示されていた本だ。以前から気になっていたこともあり、借りて読んでみた。結構分厚い本なのだけれど、一気に読んでしまった。私は村上の小説ははっきり言って好きではない。けれど、彼のエッセイは割と面白かったし以前読んだ「雑文集」か何かに収録されていた「アンダーグラウンド」の文章も興味深かった。
ひと言でいえば「アンダーグラウンド」は地下鉄サリン事件の被害者たち、62名の証言集である。無名の、それこそ事件前は一般人であった彼ら彼女たちの生々しい証言が載っている。駅員からOL、会社員様々な立場の人から「オウム事件」と3月20日の「あの日」が語られる。その語り部の中には、重い後遺症を抱えた人々も含まれている。
初めは、このエッセイのタイトルは「それぞれのオウム」にしようと思っていた。それが読後感は全く違ったタイトルにしようと思った。その理由は後で書くが、まずは私にとってのオウムというところから振り返ってみたい。
言うまでもなく、私は一連のオウム事件をリアルタイムで知っているわけではない。どちらかといえば「オウム後」の世代であり、オウム事件を知らない世代ということになる。地下鉄サリン事件について、母に聞くと「ちょうど産休中で、あんたを抱っこしていた時テレビに映っていた事件」という答えが返ってきた。それが私の母にとってのオウム事件であり、地下鉄サリン事件だった。
では抱っこされていた私にとってはどうかというと、それは「教科書の中の1ページ」という存在だ。オウム真理教という宗教団体も、麻原彰晃も、地下鉄サリン事件も乾いた教科書の上の出来事だった。
それが私にとってのオウム事件であった。
「アンダーグラウンド」で証言をしている人たちは、間違いなく「人生の中の出来事」としてオウム事件が存在している。そうであるがゆえに、彼ら彼女らの言葉は重い。それには敵わないと思う。
私は、読んでいてふと思ったことがある。それは「オウムとは、すでに終わったものなのだろうか?」という疑問だ。
以前見たテレビ番組で、実際にサリンをばら撒いた実行犯の1人を取り調べた警察官が出ていた。実行犯がその理由を問われた時、開口一番言ったことは「閉塞感があったから」と語ったという。
私はゾッとした。オウムというのは、まだ終わってはいない。
その時、そう思った。「アンダーグラウンド」の証言者の中で「私は自分を純粋な被害者だと思えないでいる」と語る人がいた。その前段にはちゃんと説明があるのだが、それは簡単に言うと「誰だって弱っている時には頼りたくなる、甘えたくなる。そのタガが外れると、ああいう凶行に及ぶのだろうと思う。そうした性というのは、自分の中にもあると思う」というものだった。だから、自分を「完全な被害者」であるとは思えないでいる、というのだ。
私はこうした、私たちの内側にあるオウムというものについて少し考えていた。
ある駅員が語った箇所がある。
「オウムみたいな人間たちが出てこざるを得なかった社会風土というものを、私は既に知っていたんです。日々の勤務でお客様と接しているうちに、それくらいは自然にわかります。それはモラルの問題です。駅にいると、人間の負の面、マイナスの面が本当によく見えるんです。例えば私たちがちりとりとほうきを持って駅の掃除をしていると、今掃き終えたところにひょいとタバコやごみを捨てる人がいるんです。自分に与えられた責任を果たすことより、他人の悪いところを見て自己主張する人が多すぎます」
そして、ある会社員はこんな風に言う。
「こんな金儲けばっかりに走っているつまらない社会だから、宗教という精神的なものに惹かれるという気持ちは、それなりにわかります」
オウムというのは他人事ではない。それは私たちの内側に巣食うものと繋がっている。
……とは言うものの、多くの人はこれを鼻で笑うだろう。村上春樹は「乗合馬車的コンセンサス」と表現していたが、あるショッキングな事件やその実行犯たちを私たちは大抵「あちら側」に置く。そうすることで正義と狂気の境目ができ、「こちら側」の私たちはそれを裁く権利を持つようになる。
だがなぜ、オウムというのは存在したのか?
私にはそこが疑問であり、オウムの存在根拠というのは私たちの内側にこそあるのではないかと思った。もちろん、オウムという形は最も極端なものであると思う。だがこれらを「あちら側」のものとして片付けるにはあまりに粗いと思う。
オウムの狂気……そこに絡めとられた人々は決して異常者ではない。それはどこにでもいるはずの人々であった。だが、彼らはどこか不安であり、空虚であり、孤独であった。表向きの学歴や職業は関係なく、人間としてのそれは本能の一部分であったのだと私は思う。「なぜあんなエリートが……」という表層的な部分で理解してはならないと思う。
オウムを産んだ時代と、のめり込んだ人々の性というのは現代でも変わることはない。村上は1995年を「巨大な暴力のあった時代」と表現した。それは地下鉄サリン事件と、阪神淡路大震災という「暴力」である。
そこに至るまでに、私たちはどういう存在だったのだろう。そして、「その後」私たちはいかなる存在であったのだろうか。
人生とは非情なもので、あれほどの事件後であっても生き残った人たちの生活と人生は続いていくのだ。それを、誰が何が「救う」のだろうか。あの時代を生きた彼らにとって、オウムはそういう存在であったのかもしれない。それは極端であっただろうが、より深刻なのは既存の社会制度や規範、そこに準じていた人々の思想や意識というものが「オウム的なもの」にまるで意味をなさなかったということなのではないか。
それは「今」に視点を移せば、トランプに代表されるような「ポピュリズム」に、既存の自由民主主義、グローバリズムがまるで塵のようだったのと、既視感を覚える。
そういう文脈でオウムを捉えると、「あちら側」ではなく「こちら側」に侵食してくるのが分かる。
私はこんな風に思う。
本質は、生きること……正しくは生き続けることを「何で」、「何が」、「何を」私たちが癒していくのかということなのではないか。
それは私たちの宿命といっていいものかもしれない。オウム的なものは、そうした宿命的不安、孤独、空虚といったものをこれまでの「時代」に代わって「埋めた(癒した)」のかもしれない。
オウムのやったことは正当化されることでもないし、庇われるべきものでもない。亡くなった人たちは帰ってこないし、後遺症を負った人たちの元の生活が戻ってくるわけでもない。
そして、傷を負った社会は残された人々を抱き込むほど余裕はないまま進んでいる。オウム事件の被害者たちの心理的ケアを行ってきた中村幹三という精神科医はこんな風に言う。
「単なる偏見というのではなくて、隔離はするこれど、その隔離された人をちゃんと共同体の中でケアもします。仕事もさせないで、ある意味では保護を与えるわけです。そしてそのケガレを祓う儀礼をやる中で、「ケガレた人」を徐々に癒していくのです。だから昔の「ケガレ概念」は、とても有効に機能していたんじゃないか。ところが近代になって共同体のシステムは実質として消えてしまったのに、そのケガレの意識だけが潜在的に残っていて、それが心理的な隔離のようなものを生み出しているのではないでしょうか。つまり『あたらず触らず』という感じですね。それは被害者にとってはずいぶん辛いことです」
不安と無知、そして無関心が現代の単位だ。道路を一つ挟んで地獄のような光景に身を置いた被害者たちと、変わらない日常を歩んでいた大勢の人々。証言者の1人が描写した「あの日」の一場面だ。オウムと現代、そして私たち。
オウムは、そしてオウム的なるものは許されるべきものではないだろう。村上の「乗合馬車的コンセンサス」を引くまでもなく、彼らの引き起こしたことは重大だ。
誰であっても、無辜の他の誰かを殺す権利はない。それが例え「救済」のためであっても……。
数字の向こう、事象の向こう側には生身の人間がいる。そこには生活があり、人生がある。それは重い。
「自分の置かれている立場は、好むと好まざるとに関わらず、発生的にある種の傲慢さを含んでいるものなのだ」
村上は「めじるしのない悪夢」という文章の中で、証言集をまとめた後でこんなことを書いている。そして、そうした傲慢さをもっと私たちは意識するべきだとも書いている。
私の傲慢と、あなたの傲慢、そしてこの社会あるいは時代の傲慢ということを考えている。
オウム的なタネは一体どこにあるのか?それは私たちの内側であり、こちら側にある。
私は地下鉄サリン事件やオウム真理教の何たるかは、教科書かテレビ番組、あとはせいぜい書籍でくらいしか知らない。
私は別のところから、私を眺めてみる。
私はどうかすると、オウムを「あちら側」に置く。「こちら側」に置くことは、生理的に許さないことだからだ。そうして、私は私とこの生きている時代をあの狂気から「隔絶」させるのだ。それで初めて、私は正義となり正常となれるのだ。不定形な曖昧模糊とした時代と、アイデンティティの中で……。
だが、オウムは、オウムの見えないタネは「今ここに、今ここにも」あるのだと思い当たる。
だからこそ、オウム事件は忘れてはならないし過去のものでもない。
人間というものは、本質的には悲劇的で喜劇的な存在である。人生と時代の枷からは逃れられない、小さな存在でもある。そして、現代という時代の最小単位は不安と無知であると私は思っている。そこでさまよう人々を、オウムは間違いなく、正しいかはともかくとして「照らした」、「照らしてしまった」のだろう。
オウムは「こちら側」にある、そのこちら側とは、私たちの「内側」である。
私にとってのオウムとは、「そうあるべき」ものなのかもしれない。
それが「アンダーグラウンド」を読み終わった上での、率直な感想だ。
これは現実で、現代なのだ。
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