蟻のように書く

猫も杓子も異世界転生。揃いも揃って、長ったらしいタイトル。タイトルというよりも、出オチ満載の文章だと私は思っている。

正直詰まらないと思うし、そうでもしなければ誰も小説を読まないというのなら、ある意味文芸は終わった(よく言えば全く違う新しいものへと“転生”した)のかもしれない。

よくエッセイランキングでぶち上がる異世界転生小説を批判するものや、批判するものを批判するやつも、結局はみんな同じで何度も見ているともはや様式美すら感じてくる。

私は正直、異世界転生は好きでもないし詰まらないと思う。でも結構どうでもいい。自分は違うものを書けばいいだけだし、それで反応がないからといって異世界転生に染まりまくった投稿サイトに文句をいう気も別にない。無理に受けるために自分の書きたいものを曲げてまで、流行りを追う気もない。それが一番詰まらないことだと思うから。


他者というものから定義される個人というものを、最近考えている。何によって「私」という人格と外殻の個人は線引きされ現実に立ち昇るのか。

それは承認と肯定であると思う。これらは基本的に「引き出される」ものだ。自然発生的に「生まれる」ものであることは稀だ。無条件の承認と肯定をくれるのはせいぜい家庭内くらいなものだ。だが、この家族だって万能ではない。そこで、私たちは何によって自らの線引きを行うのだろうか。それは他者であり、その無数の他者を「引き出して」くれるインターネットという空間だ。

そして、承認と肯定を引き出すための行為をしなければならない。その中の一つに、今や「小説を書く」という行為……創作全般が含まれている。こうした延長線上に異世界転生があり、長ったらしいタイトルがあり、それに連なる批判がある。

全てを承認と肯定欲求に帰するのは乱暴で単純すぎるが、私は大まかにそう素描してみたい。そういう風に見てみると、内容の巧拙や不愉快さは置いといて「異世界転生小説」は産まれるべくして産まれたものだとも見ることができる。


私は率直に言って、どこかのゲームから引っ張ってきたかのような設定や、全てを説明しまくる文章、万能最強な主人公一色の小説は病んでいると思う。

古典にだってそんな文芸がないわけではない。「イリアス」「オデュッセイア」の主人公たちだって、世界最強で連戦連勝だ。神だって凌駕するし、えげつない復讐だってする。だが同じ遡上で語るものではないと思う。

私は小説の厚みを決めるのは、そこに「人間の顔」が描かれているのかと、メタ的には作者の教養の厚さであると思う。

「イリアス」「オデュッセイア」、日本だと元祖ハーレムの「源氏物語」だってそうだ。彼らは確かに優れているが、同時に「人間である」。

私が異世界転生小説に病んでいるものを感じるのは、作者の単なる「記号」、作者の単なる人格(欲求)の「延長」として主人公やあらゆる登場人物が存在しているところだ。そして、それが承認と肯定を基にしたものであるが故に余計そう感じる。

他者の視線(承認と肯定)から描かれる個人(私)に改めて立ち還ると、小説ですら創作活動というよりも、道具に近いものになっていると思うのだ。そこに私は「病み」を感じる。


ある人と話していて、「小説なんて遊びだから何でもいい。小説なんて贅沢だ。人生を豊かにはしない」という言葉が出てきた。

私は「ふうん」と思いながら聞いていたのだけれど、まぁそうだなと思う。

小説を書くことは確かに何も偉くない。特別なことでもない。読み書きが贅沢な時代ではいざ知らず、今は誰にだって「作者になる」権利はあるし、場所も機会もある。書き続けることで、何人かの読者がついて、どうかすると賞の一つでも取ってみるとそれは幸せかもしれない。だが、多くの人はそこまでいかないし、それを望まない人だっているだろう。

全ては自由で、目的は限られてはいない。承認を貰う糧として書くことも当然許される。

だが、なぜその手段に「小説を書く」ということを選んだのだろうかと考えてみる。ネット発の小説が成功してから夢見る人たちが増えたということだろうか。それとも、投稿サイトのシステム自体が、私たちの承認や欲求を引き出してくれるものだからだろうか。

私はそういう一切にあまり興味がない。くだらないとさえ思う。

まず他者からの承認や肯定を求めて文章を書くのか、書いた先に賛否があるのか。この2つは同じ文章を書く行為でも明確に違う。


私は書くこと自体が好きだ。苦労して書いている人にとっては、私のこうした感性も「薄っぺらい、産みの苦しみを知らない」となるかもしれない。私は最強でもなく、ファンタジーでもなく、もちろん異世界に転生することもなく普通の人々と日常を書きたいし、そういうものを書いている人を見つけて読んでみたいと思っている。

この世界には、当たり前だが「言葉にできない領域」がある。その領域に言葉を与え、名前をつけて歩かせ生かすものを「文学」と呼ぶのかもしれないと今は思う。

誰が愛や神や家族の顔や名前を知っているのか。誰も本当の事は知らないし、まだ見てすらもいないのだと思う。あらゆる学問はそういった「言葉にできない、目に見えない領域」への挑戦と模索と、失敗と僅かな成功の積み重ねに過ぎないのだと思う。

そして、文学を含めた芸術とその行為だって同じことなのだ。

そういう意味で、創作活動は特別なことであると初めて捉えることができると思う。


だがそう気負いすぎることもない。私はその時々で、興味を持ったことや現象について、ちまちまと摘んで書いてみるだけだ。

ピンセットで摘まみ上げるように。

言い方は悪いけれど、ネット投稿小説は美化せず見れば便所の落書き、チラシの裏に書かれた文句のようなものだと思う(私のものも含めてね)。

異世界だの、長ったらしいタイトルだの、それに染まって群がっていく作者だのは遠くに見えてくる。


他者からの承認や肯定を求めて文章を書くのか、書いた先に賛否があるのか。


他者から描かれる個人と、そのための周辺機器の中で生きている私たちは微細だ。さながら、蟻のようにあくせくとしている。そのさらに小さな行為が、「今の時代に」小説を書くことなのだと思う。

「昔より自由になった。敷居が低くなった、誰にでもできるようになった」とは言うものの、そこから頭抜けることができる人はそういない。そういう厳しさと運というのは、そう変わるものではないと思う。夢を持つのは「自由」であるけれど。


私は自分の気持ちが向くままに、ただ書こうと思う。本を読んで音楽を聞いて、偶に書くのだ。

ちっぽけな蟻が巣にちまちま砂糖の塊を運ぶように、そんな風にやるのが一番良い。

他者から描かれることがなくても、私は「私」を描くことができるのだ。別に不細工でも構わない。

「自由」というのは、そういうもので「書く」というものはそういうことであると思うから。


ただ淡々と、蟻のように書ければいい。

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