小論:現代筆忠実人論
よく、現代人は活字離れを起こしていると言われる。そうだろうか。
私の皮膚感覚だと、「離れられ」たのは活字を載せる「紙」の方であって、むしろほとんどの現代人は未だに活字の海のただ中にいると思う。ただ、活字といっても連なる相当量の文章のことではなくて、SNSに代表される「短文」というのがミソだ。
起きたのは「紙離れ」であって、活字の方ではない。むしろ、活字(短文)依存ではないのかとさえ思ったりもする。
かつての紙はそのまま掌に収まるiPhoneに変わり、さらに今は文章さえいらない写真が私たちの生活や欲求を誰かに伝えている。そういうところでは、確かに活字は静かに絶えようとしているのかもしれない。私は特に発信することもないのでInstagramはやっていない。せいぜいがtwitterくらいなのだけれど、この140字が私の「メモ帳」つまりは「紙代わり」となっている。
そして、原稿用紙の代わりはiPhoneの「メモ機能」だ。ペンは「フリック入力」となるだろうか。
私の「書く環境」はこうして活字に起こしてみると、とてもチープなものだと思う。電子上でももっと拘っている人はいるし、一度紙に書いてからパソコンに打ち直すという人だっているだろう。
捉えがたい人格や、個々人の思想、そして物語というものは活字によって初めて形を取り、生かされる。そして、文章というまとまりでそれは動き出す。
それはある意味では残酷なことで、その人の地金も徹底的に浮かび上がらせる。だから私は文章を晒すことは、ある種のストリップ的な要素があるなぁと思う時がある。そして、それは短文であればあるほど如実になると思う。言葉が特に鋭くなくても、本音に近いのではないかと思うのは大抵簡潔な文章に対してだ。
だから、この短文全盛期の時代は人々が内側の顔を隠すことなく往来に向けて晒しているのだと思う。自己顕示も承認欲求も、誰かを見下すことも、倫理や社会常識とは関係なしに行われる。別に規範など必要ないし野暮なだけなのだ。
1日に何回もツイートなり、発信をする人は現代の筆忠実人だと思う。かつての意味とイメージとは微妙に違うかもしれないけれど、私はそんな風に思う。
彼らはマメで細やかだ。その特徴は、それが他者に向けられることよりも自分自身に向けられていることにある。
「他者」よりも優先される「私」への気遣いと守り。
これが現代の筆忠実人の基本的な素描だと思う。
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