マジョリティは生きているか

例えばマイノリティの「顔」というのは、それが記号的なものでしか表現できない場合であっても、容易に立ち昇ってくる。


「障害者」「在日外国人」「性的少数者」「DV被害者」「被虐待児」……


実際に障害者が身近でなくても、在日外国人と関係がなくても、「なんとなく」のイメージを掴むことはできる。車椅子に乗ってる人だとか、肌の色が違うだとか、レインボーフラッグを振る人たちとか……。

そういうイメージというものが、マイノリティの存在感の一つであり、非匿名性の一つなのではないかと思う。

では、マジョリティは?

こちらは途端にぼやけてしまう。その他大勢の人たち。なんの特徴も「顔」も持ち得ない彼らはどこまで突き詰めていっても容易に姿は見えてこない。だから、単純な二項対立、被害者と加害者という関係に陥っていくのも、またそういう風に持っていきたがるのもある意味ではやむを得ない。

人は自らの頭で管理のできない、名前のつけることのできない関係や事象を嫌う。それは社会の構造的な恐怖心を刺激するからだ。

「現代思想」の1月号に、「マジョリティとはだれか」という対談があってそこで述べられていることが、マジョリティの匿名性と大衆性について割と的をついているんじゃないかと思った。




「マジョリティは基本的には存在しません。というか、マイノリティが存在するのと同じ意味では存在しない。無色透明な個人として、そのことについては何も考えずに生きていられるのがマジョリティです。しかしマジョリティが現れる瞬間がある。それは常に引きずり出される瞬間です。……実際に加害行為をしていないとしても、加害者のあるカテゴリーの中の一員として、急に引きずり出される感覚がある。……要するに、自分がやったことのないことで責任を取らされる、しかも無限に取らされるのではないかという根拠のない恐怖心が、非対称的な構造の中でのマジョリティの1つの暴力を駆動している原動力なのではないかと」



マジョリティの持つ恐怖心というのは、大抵「自らの権利が犯されるのではないか」というものに根ざす。

金やモノ、機会、社会的地位や制度といったより目に見える形になればなるほど、彼らの恐怖と怒りは大きくなっていく。


私は個人的にはマジョリティ、マイノリティというカテゴリー分けそのものが意味を喪いつつあると思う。

ライフステージのあらゆる場面で、この2つの立場は容易にリンクするからだ。ある人々が、ある場面ではマジョリティだが、別のある場面ではマイノリティであることは現実になっている。個人や集団を、容易に色分けすることはもはや現代には馴染まない。

集団やカテゴリーは緩やかに解体され、あるのはより定義と「顔」を喪った多様な個人である。

そして、その個人を色分けしているのは彼ら彼女らの一生(ライフステージ)の中のできごとである。

こうした文脈の中で、改めてマジョリティ、マイノリティというものを眺めていくと果たしてそういう存在は「生きているのだろうか」と問いたくなる。

弱い立場の人間、つまり社会集団の中で可視化されにくい属性や、ある集団で多数を占めている暗黙の価値観や意識、構造が全て霧散したと言いたいのではない。

個人の顔はいまだ見えない。匿名性という単語だけで終わらせるには物足りないほど、私たちは「顔」を喪っていると思う。そして、喪われた集団と新たに立ち昇った個人は、まだ私たちの隙間を埋めるに耐える存在とはなり得ていない。

集団が解体、もっと言えばこの時代が解体されようとしている中にあってマジョリティやマイノリティもまた同じように分解されていっていると感じる。



そういう意味で、マジョリティはマイノリティは、本当にまだ生きているのだろうか?

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