思想としての現代芸術

以前、「2ヶ月目に思うこと」というエッセイを書いたと思う。これは就職してから2ヶ月目に感じたことをつらつらと書いてみたものだ。それが早くも1年が終わりを迎えようとしていることにびっくりする。

慣れてきたところで連休を取って、香川県に行ってきた。初めて行った四国はとても良かった。香川ではうどんばっかり食べて8軒も回ってしまった。晩酌は骨付鳥を食べてとても満足できた。

その帰りに岡山の倉敷に寄って、美観地区の大原美術館を訪れてきた。この美術館には私の大好きなエル・グレコの「受胎告知」が収蔵されている。目の前で見てきたけれど、やはり素晴らしかった。神の子を聖母マリアが処女懐胎する。キリスト教史上でも重要なこのテーマは古来から多くの画家たちが取り上げてきた。通常は屋内を思わせる背景と、調度品に囲まれた日常的な風景の中で描かれる受胎告知だが、エル・グレコのそれはかなり特殊だ。

聖書こそきちんと描かれているものの、その他の調度品及び背景などは配されている。神の子を身ごもったことを告げに来る大天使ガブリエルとマリアが対峙する構図の間には精霊を意味する白い鳩と稲妻を思わせる強烈な光が縦一直線に配置されている。処女のまま神の子を身ごもるという奇跡と神の存在が、ここでは強烈に示されている。無駄な背景を削ぐことで、「受胎告知」のテーマがより鮮明になるのだ。

エル・グレコの特徴は、こうした強烈な光の描き方と引き伸ばされたように見える人体だろう。解剖学的に見れば不自然な人体や、強烈な光は彼が「乱視だった」という伝説めいた逸話を残すことになるのだが、そうした不自然さこそが、神の存在をより際立たせるのだから不思議だ。

しばらく見ていたけれど、「素晴らしい」という感想しか出なかった。

「神の奇跡」という宗教的な体験を、エル・グレコは見事に表現していた。



さて、大原美術館にはこうした古典的な絵画の他に20世紀美術も多く収蔵されている。私はあまり現代芸術に理解がなくて、これを機に少し勉強してみようという気になった。そのままアート・ショップで高階秀爾の「20世紀美術」を買ってみた。

絵画とは、これまで「何かを説明する」ものであったのかもしれないが、それはあくまで現実のものと関係がある場合である。それが、現実のものとの関係を拒絶した芸術家の場合はその説明は困難になる。ここから、絵画を説明解釈するのは無意味で、絵画(芸術)とは感覚的に感じるかどうかなのではないか?という性急な結論が導き出される。

抽象絵画の登場で、こうした言説は一般的なものとなった。ピカソの有名な言葉がある。


「人はみな絵画を理解しようとする。ではなぜ人は小鳥の歌を理解しようとしないのだろうか。美しい夜、一輪の花、そして人間を取り巻くあらゆるものを、人はなぜ理解しようとはせず、ただひたすらそれらを愛するのだろうか」


ここでピカソは、人々が絵画を理解しようとしていることに批判的なのではない。小鳥の歌を愛するように、絵画を愛さないことに不満があるのだ。

20世紀の美術は写実主義の破産を基にして登場してきたと高階は書く。そしてこの芸術とは、日常的感覚に否定的姿勢を基本としている。芸術そのものが、現実に対する否定的媒介として創作活動を行うものであるが……。

だが、日常的な世界の否定が20世紀における造形方法としてこれほど鮮明に現れたことはなかったのではないか。20世紀芸術には日常的感覚世界を否定しようとする方法意識が見て取れるのだ。こうした「否定」はそうした日常の上にある生活や慣習といったものにまで打つかっていくことになる。そして、方本論そのものが決定的意味を持つようになったのである。

今日ほど芸術が反逆的であった時代はないだろう。このような事実への理解なくして、現代芸術の特質をつかむことはできない。

だが、現代芸術の方法意識は反逆的(否定)であることを本質とするために、一般の人たちには受け入れがたい。受け入れがたい、という事実が既に反逆的であるのだ。

芸術家と一般の人たちとの間に断絶があることの表れでもあろう。

高階は現代芸術を著しく「実験的」という。それは現代芸術の在り方であり、本質でもある。

実験とは、現実の複雑な諸条件から、その他の条件は作用しないという前提の上で特定のものを抽出し、変化意味を探るものである。そして、実験は「分析的・強調的」である。こうした実験の特質はそのまま現代芸術の特質でもあるのだ。よって、一般の人たちにとって、現代芸術とは不必要な誇張、過剰、行き過ぎに見えるのも当然かもしれない。

ゴーガンは、ラファエロの「小椅子の聖母子」を見て、「なんと見事な絵具の塊だろう」と言った。20世紀美術は「小椅子の聖母子」を「見事な絵具の塊」と見ることから始まった。傑作である所以が、「聖母子」というテーマにあるのではなく「絵具の塊」という部分にあるのなら、同様の「絵具の塊」の効果を持っている作品だって傑作となるだろう。もっと言えば、主題のない物理的な「絵具の塊」であってもラファエロの「小椅子の聖母子」のように感動的な作品となるだろう。さらには、主題そのものが邪魔になってしまうかもしれない。

主題と表現手段の分離。描かれたもの(聖母子)と絵具の塊との分離。重要なことは、この分離が絵画の美しさの必要条件となっていることである。

つまり、「否定・分離・強調」が現代芸術の特質となるのだ。



以上の文章は「20世紀美術」の序章部分をまとめたものだ。

「現代芸術はその本質が方法論と密接に繋がるが故に一般人には理解の難しい存在となる」という箇所に、今までの言葉にできない現代芸術への拒絶感を剥かれたような気分になる。否定からの芸術とは、その延長にいる私自身のことも等しく拒むことである。否定と、あらゆる主題と表現方法との分離、そして強調。その実験場で露わにされるのは現代という時代そのものであり、日常であるのだろう。そしてそれは芸術家の目を通して否定される。芸術とはここに至って、限りなく一つの方法論と表現を超えて「思想」になったのだと思う。

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