続・三木清 大学論集より

「大学は『労働力商品の再生産工場』でさえなく、ジャンク化する人間の排出孔と化しつつあった」

絓秀実 「革命的な、あまりに革命的な」


前回に続き三木清の大学論集である。読んでいて、特に「大学改革の理念」の項が面白かったので続編としてまとめてみたい。



アドルフ・ラインによれば大学には各々の時代によってタイプが存在する。14世紀〜17世紀には「神学的大学」、18世紀〜19世紀には「哲学的・人文主義的大学」、そして20世紀においては「政治的大学」だ。

大学とは「全体・綜合」を意味する。しかし、三木は現状を「自由主義の行き詰まりと共に大学の統一的な理念は失われて、大学は現在専門化された諸科学の百貨店」のようなものになっていると嘆く。

そして、日本における政治教育一般についていえば、思想を問わず政治教育の不足を感じると指摘する。そしてこうした思想性の欠如、政治的教養の欠如こそ改革せねばならないという。

また今日の大学については「職業教育の機関」になっていると非難されている。三木は「大学は単なる諸科学の的知識以上に教養を与えねばならぬというのは正しい」としつつも、「教養とは職業人として必要な知識でなく、あらゆる職業人が人間として有せねばならぬ普遍的な知識である」とする。

そして、こうした「普遍的な知識」の学校であることによって大学は意味を持つのだ。

そして従来の人文主義的教育思想は、職業教育を軽蔑する傾向にあったが、そもそも職業とは全ての人間にとって本質的な意味を持つものである。よって、職業教育は大学においても教育の重要な部分でなければならない、と三木は言う。「必要なことは一般的教育と職業的教育との関係を正しく把握することである」のだ。



そもそも、学校というのは人間を教育する場である。そして、人間の教育には職業的知識以上に一般的教養が必要である。

三木は「大学改革の理念」の終盤において、この「人間」というものの素描を描いてみせる。


「人間は常に歴史的社会的に規定された人間であり、一定の民族に属し、一定の国家の国民であるを従って人間の教育は更に特に国民としての教育でなければならぬ。……人間は国民であると共に端的に人間である。教育は『善い国民』を作ることであると共に端的に『善い人間』を作ることでなければならぬ」


ここに至って、「人間」の素描はより哲学的な色彩を帯びていく。そして、そうした「人間」を根底としたあるべき教育の理想について、三木は以下のようにいう。


「人間は民族的であると同時に人類的である。……教育の理想は『世界的日本人』を作ることであると共に『日本的世界人』を作ることである。しかもそれらのことは凡て歴史的に把握されることが必要である。大学における教育は世界史的使命の自覚のもとに立たねばならぬ」



教育の問題とは、社会の問題である。それぞれの教育問題は独立した個別の問題なのではなくて、相互に深く関わったものなのだ。それは私たちという存在が、社会的な存在であるからだ。

「世界的日本人」「日本的世界人」はどのように作られるべきか。

世界の中にある普遍的な原理を見つめること。そして、それを可能にする教育の姿は大学にという組織の中に存在できるのか。

この問いは高次で抽象的すぎる。現代社会の中でどこまで顧みられるだろうか。



参考・引用:「三木清 大学論集」

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