三木清 大学論集より

改めて、教育とはなんだろうかと考えるきっかけになった。本屋で見つけて面白そうだったので、三木清の大学論集を読んでみた。本書は教育論、特に大学教育について論じたものだ。

「教育とは、誰かが意図的に他者の学習を組織化しようとすること」。これはまた別の教育学者の言葉だが、改めて三木の論文を見ながら、教育について考えてみたい。



日本の教育、とりわけ大学教育の現在(といっても三木存命中のことであるから、戦前及び戦中のことである)について三木は面白いことを書いている。これが今現在の大学教育の実態と重なる部分があるのだ。

学閥や派閥の醜い争い、そもそも大学教育というものの前提となる抽象的な研究への社会の眼差し。


「アカデミズムを非難する前に、ひとは先ずこの国の大学は果たしてそれほどアカデミックであるかどうかを考えねばならぬ」


大学はアカデミズムの府である。アカデミズムの府と言われる。

だが本当にそうか?

そもそもアカデミズムに対する批判について三木は以下のように書く。


「アカデミズムは現実の社会に対する関心に乏しいと云って非難される。しかし短所は同時に長所となり得るものである。現実に対する関心が現在のジャーナリズムに見られる如くトリヴィアリザムに堕す危険を有すとき、アカデミズムが一層高い立場から純粋に理論的問題に関心するということは意義のあることであろう」


よって、大学教育の問題とは「しかるに今日の我が国の大学の学問の欠点は余りに抽象的理論的であるということにあるのではなく、反対に余りに抽象的理論的ではないということにある」のだ。大学教育では実利的な技術や知識が要求される。志願者は資格取得率や、就職内定率の高さを大学に期待する現実がある。時代は違うが、三木はこう書く。


「我が国の大学において非難されるべきものは実際的関心に乏しいアカデミズムであるよりも寧ろ学問に対する余りに功利的な考え方である」


三木は現代における大学の位置づけを「今日の大学はもはや理論を与えるものではなく、ただ技術を授けるものであり、そのことが大学の唯一の意義である」と言う。

そんな大学の抱える一番の問題はなんであろう。三木はそれを「パブリックの欠如」であると言う。

その問題点を三木は以下のように指摘する。


「然しそういうパブリックも日本の哲学並に文化科学の方面では極めて不十分にしか存在していないように思われる。あるのは寧ろ教団とジャーナリズムとである(従って教師とジャーナリストとである)。パブリックとしての学界は、『教師』によっては形作られることが出来ず、ただ「研究者」によってのみ本当に形作られることが出来るものであり、且つそれはまた良き研究者を作るに甚だ役立つのである」


学問の自由もまたこうした批評に拠るところがある。


「批評の自由はパブリックというものがなければ現実に存在し得ない。そうでなければ、批評は陰口となり、そうでなくとも個人的関係が力をもち、或いはまた批評を遠慮するように余儀なくされ、無い腹を探られはしないかと気兼ねをし、その他それほど多くの仕方で批評の自由というものが妨げられているか分からないであろう。然しまた批評の自由があるためには伝統、言い換えれば共通に関心されているところの中心問題が存在しなければならない。そうでないならば、一般に批評というものが存在しない。なぜならなんらの共通の基盤も存しないところでは批評は単に無駄であるばかりでなく、そもそも不可能であるからである。批評の自由が学問の発達のために如何に必要であるかはここに更めて論ずるまでもないことであろう」


三木のこうした論文を辿ると、現代の大学とはさながら「職業訓練校」か「就職予備校」のようだ。アカデミズムとは程遠い、実利的なものに堕している。これは本来の「大学」の姿なのだろうか?

社会の中に、「世間とは一見関わりの薄い、実利的でない抽象的理論及び学問を研究する教育機関」があることの意義について、私たちはしっかりと意識したことはあるだろうか?

現代は……これは三木の生きた戦前戦中の現代ではなくて、純粋に私たちの生きるこの現代であるが、馬鹿のひとつ覚えのように「コストパフォーマンス」が叫ばれる。学問も同じように「カネになる」「モノになる」ものが優先して尊ばれる。文低理高の姿勢はそれを如実に語る。

私は、教育というのは「どのような人間を育てるのか」翻って、「どのような人間に育つのが望ましいのか」というものが根幹であると思う。そうした芯なしに、ゆとり教育もアクティブラーニングもなんの意味もなさない。ゆとりだの脱ゆとりだの言葉だけが先行して「何かやった気になる」のが私は日本の悪いところだと思う。

肝要なのは、「どのような人間を育てるのか」という点であって、「そのために何をするか」というのはあくまで二次的なものであると思う。

そしてさらに、教育というのは社会的視点の中で同時に考えられなければならない。

個人が集まればそれは社会となり、国家となる。

「どのような人間を育てるのか」はそのまま「どのような人間が望ましいのか」となり、それはさらに「どのような社会が望ましいのか」に繋がっていく。私はこうした社会的視点が、現代日本ではまるで抜け落ちていると思う。これは高等教育の問題だけではなくて、あらゆる社会問題に通底する成人病のようなものだといつも思う。

歪んだ個人主義と、自己責任を前提とした問題の矮小化と単純化。

確かに、個人の問題に発するものもあろう。だが、そのような個人や問題を内包する社会の側というのは果たして健全なのだろうか?こうした視点抜きに、現代社会の問題は理解されないと私は思うのだ。



話を大学教育に戻すと、やはりアカデミズムの担う社会的意義について私はもう少し考えてみたい。

現代の在りようを批判する前に、少し理解も示しておきたい。

最近は「専門職大学」というのも聞く。福祉や医療などの分野で専門職を排出するための大学である。これをそもそも「大学教育」の中で行うべきなのかという議論はあるだろうが、大学全入時代の中それも仕方ないとは思う。現代の学生は、実利に結びつかない学問や技術や資格を大学には求めない。それの是非はともかくとして、大学に求められるのはあくまで資格取得率の高さであり、内定率の高さである。そうした中で、特定の分野それも職業に特化した大学というのはある意味では理想だ。

子どもの数が減っていく中で、大学教育も競争に晒されている。そこでは抽象的な学問研究よりも、数字に訴える実利的な技術や知識の授与に傾いていくのもやむを得ない。

だが、これでいいのか?という疑問ももちろん生まれる。


「我が国の大学において非難されるべきものは実際的関心に乏しいアカデミズムであるよりも寧ろ学問に対する余りに功利的な考え方である」


一般化された論理から一歩引いて、ひとつ高いところから問題を考察することの社会的意義。

私は、数多のフェイク特に感情に訴えるフェイクがはびこる現代にこそこれは必要なものであると思う。アカデミズムも、今やエスタブリッシュメントの烙印を押されている。だが、感情や極端な一般化、矮小化の網を超えて現代を考察すること、それを可能にする知性の創出と研究こそは必要だと思う。

そして、それが実際的なものに繋がれば理想なのではないか。

確かに、人は霞を食べて生きていけるわけではない。だが、パンのみで生きるのでもない。それではあまりにも貧相だ。私はそう思う。



大学教育、高等教育とは何を目指すべきか?

一つは、大所高所から物事を見つめる知性の創出だ。もう一つは、功利的な視点、一般化されたものが見落としたものを掬いあげて研究の俎上にのせることである。

そして、新たな体系的な学問の創出とそれらを可能にする高度な人材を社会に送り出すことではないか。



参考・引用:「三木清 大学論集」


  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る