吉本隆明 未収録講演集<12>「芸術言語論」

図書館で借りてきた吉本隆明の未収録講演集が面白かった。私はあんまり現代小説を読まない。興味があんまりないから手に取らないだけなのだけど、吉本の言及が面白くて思わず「へえ」となった。個人的に面白かった講演の「文学論」「92.文芸のイメージ」について概観し、感想を書いていきたい。

3.「悲劇か喜劇、社会の中の文学」は私の雑多な感想である。



1.「文学論」

吉本は「最近出された」3冊の本から、文学のいまとこれからを考える。その3冊とは、村上龍「愛と幻想のファシズム」、山田詠美「ソウル・ミュージック ラバーズ・オンリー」、村田喜代子「鍋の中」である。それぞれ力作であり、問題が提起されており、今書かれている文学作品の一つの象徴として読むことができる、と吉本は言う。

まず村上龍の「愛と幻想のファシズム」だが、この作品の特徴を「毒を自己生産して発散しているところがある」と吉本は指摘する。この「毒」については、挙げた3冊の中では村田喜代子の「鍋の中」が「最も毒を生産していない作品だ」と吉本は付け加える。

吉本は続いて村上の文体について話を移していく。村上には2つの毒がある。モチーフの毒と、文体の毒である。文体の毒とは、吉本いわく読む人に考えさせない速度だという。「行動的な言葉で読む人に考えさせない」ものである。

もう一つは、現実に対しての毒である。アンチ・ヒューマニズムと吉本は言う。村上はおそらく、周辺域……別の世界の他の領域と接する境界領域、外角領域、こうした辺りで作品を生み出しているのではないか。

「文学の世界の空洞性をよく浮かび上がらせている」と吉本は表現する。

また山田詠美の作品は、常識が拒否するような性的関係から、漉されて残ってくる性意識、性欲がとても綿密に描かれていると吉本は評する。

対して村田喜代子の作品は良いものだがおとなしい。吉本はこうしたおとなしさや毒のなさに現代文学の「なんとなくさびれている感じ、隣接する他の世界になんとなく活性が吸収されていってしまう」ような雰囲気はこうした部分にあると指摘する。

ここに至って、「毒性」には2つの意味があると吉本は言う。一つは「目覚めていること」、もう一つは「否定性」である。村上龍も山田詠美も、刺激性のある毒を持っている。

当分の間は、真ん中に無刺激の活性のない沈んだ世界に対して、外側から毒性のある作品が出てきて文学の世界の触手みたいなものを広げていくようなイメージの図式が続いていくかもしれない。

先述した3冊はこれらを象徴的に表している。そして、この毒性を非毒性と毒性に集約して、周辺地区と真ん中との差異を浮かび上がらせていくと、文芸評論が出来上がっていくのではないかと、吉本は最後に指摘する。




2.「92.文芸のイメージ」

現代の文学はどこへ行くのか。吉本はこの講義で、社会の構造、特に産業構造の変化と消費への過重さについて語る。「ある境界が密かに超えられてしまった」という表現が出てくるが、この「境界を超える」というところが、これからの文学を見る上で重要になってくる。

そして純文学への言及が始まるのだが、現在書かれている純文学の主人公のほとんどが異常者であると吉本は言う。その異常な主人公の元で、物語は展開していくのだ。これが大きな特徴だ。ちょうど私たちの消費額が所得の半分を超えてしまっているという現実がある。文学においては、これは「正常か異常か」という境界になる。純文学においては、その境界線を超えていつの間にか異常になってしまっている。さらに境界線を元に戻って、ある場合には正常な判断をしたりするわけだが、またあるところまで行くと異常なことになっていく……。

純文学に描かれる病理的な主人公たち。それと、私たちの実社会のありよう。所得の半分は消費に消える、食うために生きているのではない社会。この両者はそれぞれ対応し合っているように思えてならない。まったく未知の社会の中で私たちは生きているからだ。何が正常で異常なのか、まるで分からない。そして、異常な人しか描けないということは、何か重要な承知を持っているのではないだろうか。

吉本は最後に、現代文学の課題としてやはり境界と社会について述べる。


「僕は現在の文学の境界線は、目に見えない異常と正常の間を行き来している状態、あるいは社会でいいますと、かつて都市とか工業社会とか、そういうふうなことで満たされていた世界から、いつの間にか越境して違う社会に移ってしまった。よくわからないけれども、目に見えないけど移ってしまったというそのところに対して何か満たされるものを目指す、そういうところに文学が行ってくれたらなという願望は読み手としては持つわけです。……そこのところは多分現在の社会、文学作品が共通に抱いている課題のありどころではないかと思われます」




3.「悲劇か喜劇、社会の中の文学」

現代という社会の中で、「ここではないどこか」「今の私ではない、何者か」に私たちはなれるのだろうか?

そして文学というものは、そこを超えていけるのだろうか。

私は現代の基礎単位は、「不安と無関心」であると思う。そして、それは「生きているという実感のなさ」に結実していく。吉本が書いていたように、こういう物憂さや気怠げさというのはそのまま文学の世界にも現れていると思う。

何事にも無関心で無感動な人物たち。熱のないセックスに耽る人物たち。いたずらに暴力に走る人物たち。生きているという実感のなさ。それを実感するために、何ができるだろう。

だが思うに、現代の文学と呼ばれるものにはそうしたものにまで潜る気力すらないのではないかと思う。雰囲気だけの心地よさ、お洒落さ、格好良ささえつけばあとはこれまでの焼き直し……というのは酷なのだろうけど男女の恋愛だとか会社の中での権力闘争だとかそういうもので「語った」気になっているものが多いように感じる。日本で純文学を載せている某文学誌を図書館で何となく眺めていた時の居心地の悪さと微かな不快感をここで思い出す。

何でもかんでもが小粒で、手軽に消費されていく……もっといえば消費されるためだけに書かれたような小説たちにがっかりとした覚えがある。日本の現代文学が云々というようなことではなくて、文学というものから透かして見るこの社会というものが抱える病魔のようなものを感じたのかもしれない。

肥大した自意識と、他者の存在。現代人にとって、新しい神は社会というものであった。だがその新たな神というものは必ずしも私たちを豊かな地平には連れて行ってはくれなかった。個人主義も他者からの承認も、私たちを完全には満たしてはくれなかった。「完全に」というのがそもそも間違いなのだろうけど、私たちはそれを求めてしまう。資本主義や高度工業社会はそれに拍車をかけただろう。


必ずしもパイは平等には配られない。

これまで信じてきた価値観は私たち全員を豊かにはしてくれなかった。


そのことに気がつくのに、私たちは随分とかかった。薄々気がついてはいても、認めたくはなかった。それがここにきて爆発している。

本当の危機というのは、トランプに代表されるような自己中心さと排外主義ではない。これまで私たちが信じてきた民主主義や自由や人権、平和という価値観が、私たちの抱える問題にたいしてなんら有効な社会的な解答を出すことができなかったということの方だと思う。

そうした中で、果たして文学の描ける地平とはなんだろうか。吉本が言うように、確かにこの世界の中には境界が存在する。

吉本は「いつの間にか越境して違う社会に移ってしまった。よくわからないけれども、目に見えないけど移ってしまったというそのところに対して何か満たされるものを目指す、そういうところに文学が行ってくれたらなという願望は読み手としては持つわけです」というが、「満たされる」というのはどういうことだろう。それは「確かに生きているという実感」だと私は思う。

ここではないどこかで、それを感じれること。文学は、現代の文学とはそこまで肉薄できるのだろうか。

そして、もっと深刻なのは私たちは果たしてそれを本当に求めているのだろうか?

多くの人が読みたがるものは、「そんなもの」ではない。それは悲劇だろうか、喜劇だろうか。

文学は高尚なものでも、下劣なものでもない。贅沢なものでも、安っぽいものでもない。

閉じられた世界の中で、何か別の開かれた新しい世界があると思うこと。そして、そこでこそ自分の抱える不幸が癒される満たされると夢想すること。そしてそれを、文学というものに託すこと。

これは信仰に近い。

新たな神のようなものが、すでにここにある。私はまだ幾分か信じられずにいる。

だが今はそれを悲劇と自惚れるのではなく、喜劇の始まりであると思いたい……。ふふふ。

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