Kyoto雑感

先日、京都へ行ってきた。

まだ紅葉の季節でもないし、中途半端な平日に行ったので街中や観光地にいるのは外国人と修学旅行生ばかりだった。なかでも外国人の多さにはびっくりとして、もう「京都」っていうよりは完全に「Kyoto」だなぁと思った。

そんな京都で、色々なところを見てきたのだけれど、印象に残っているのは観光地でも食べ物でもない。いや、印象に残らないというのではないけど改めて思い出すことは、とある喫茶店で聞いた「おばちゃんたちの会話」なのだ。

店内は静かだったし、対しておばちゃんたちの声は大きかったので聞くとはなしに会話の内容が漏れてくる。ほとんどが病気のことについてで、「どこどこの病院の何々先生が良い」ということを話していた。その中に、「でもやっぱり、若い男の先生に診てもらいたいわよね」なんてやり取りがあって、「男も女も、老いも若きもやっぱり若い異性が好きなのか」と思ったりした。

店を出てから、一緒に旅行に行ったパートナーと、「人間歳食えば病気か健康のことしか会話がなくなるんだね」と言い合って笑った。

そこでふと、こうして病気のことを笑える私はまだ若いのだなぁと思った。本気で笑えなくなって、あのおばちゃんたちの会話に真剣に聞き耳をたてるようになったら、それこそ私も老いたのだと感じた。

そういう若さや老いという目には見えない、普段はありありとは感じられないものを思わぬところで突きつけられた経験を京都でしたのだ。



京都での思い出で、もう一つ。思ったよりも面白かったのは「京都国際マンガミュージアム」だ。京都国立博物館に最初は行きたかったけれど、あまり興味を惹かれる展示ではなかったので「博物館枠」として行ってみた。正直それほど期待はしていなかったけれど、なかなか良かった。元は校舎であった建物を再利用したもので、なんと卒業制作までそのまま壁に残されている。木造校舎特有の軋みが歩くたびにして、不思議な心地になる。そんな場所に戦後の「のらくろ」なんて漫画から「ワンピース」とかもあるから面白い。この場所も外国人が多くて、「漫画」よりも「Manga」だなぁと思った。

私も中学生の頃とかに読んでいた漫画を見つけてつい読み込んでしまった。偏食の多い人は子ども時代の味覚を引きずっている、なんていう。

人は思ったよりも過去の嗜好を引きずるものだと思わされた。新しく読んでみた漫画は夢枕獏原作の「陰陽師」くらいで、あとは全部過去に一読したものだった。天井まで漫画がたくさん収まっているのに、過去に一度手に取ったものばかり抜き出して読んだのだから、面白い。



どこかへ出かけること、遠くへ出かけることは普段とは違った自分がいることに気がつく。まず人が働いている時に遊んでいるのだからとても機嫌が良い。それから、仕事をしている時の、何かに追われているような焦燥感がない。そうすると、普段はそう行ったものに「迫害」されている感性みたいなものが伸びやかに出てくる。普段なら目もくれずに通り過ぎていくものや聞き流す言葉なんかが、面白いように吸い込まれていく。

おばちゃんたちの会話、過去に読んだオチまでちゃんと覚えていた漫画たち。

こういったものは、合理性から見れば取るに足らないものだ。それでも生き続けるためには、何がしかの「余剰」が必要であると私は思う。

一見ガラクタに見えるものが、愛おしく思えるのは、それらが過去の自分と繋がっているからだ。もっと言えばい、そういう雑多なものたちから「私」が見えてくるからだ。おばちゃんたちの会話から、私が自分の若さ(青さ)を感じたように。



生きていることを実感できるのは、多分そういうものを意識できた時ではないだろうか。

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