松岡正剛「本から本へ」

先日本屋でなんとなく棚を眺めていて、面白そうな本を見つけた。松岡正剛著の「本から本へ」というものだ。これは元は著者のブログであったものに加筆修正して文庫化した書籍や読書、読み方についてをまとめたものである。

なるほど、と思った箇所や面白い箇所があったので個人的に興味深かったところをまとめてみたい。



1.「小さな敏感」と「おおきな鈍感」を言葉をもって入れ替える

ブーレーズ・パスカル「パンセ」


まず最初はパスカルについて。松岡はパスカルの読み方について7点ほどあげていくのだが、私はその中の7点目「弱く読む」という箇所が面白かった。パスカルは「弱さ」について言及し続けている。有名な「考える葦」という言葉が出てくる箇所を引用しよう。ここに、人間の持つ本来的な弱さがある。


「人間は、自然のうちで最も弱い一本の葦にすぎない。しかしそれは考える葦である。これを押しつぶすのに宇宙全体が武装する必要はない。一つの蒸気、一つの水滴もこれをコロスのに十分である。しかし宇宙がこれを押しつぶすとしても、そのとき人間は、人間を殺すこのものよりも、崇高であろう。なぜなら人間は、自分の死ぬことを、それから宇宙が自分よりも早くずっとまさっていることを知っているからである。宇宙は何も知らない」


パスカルは「弱さ」「小ささ」を宇宙に匹敵するものであると知っていたというわけだ。人間が思考する限りにおいて、その強弱は逆転する。


「人間の小さなことがらに対する敏感さと、大きなことがらに対する無感覚とは、奇妙な入れ替わりを示している」


小さな敏感を、松岡は「シャープペンシルの芯や、惚れた女の唇」とし、大きなことがらに対する無感覚を、「イラク戦争、仏教の全貌など」という。これらは時々入れ替わる。パスカルはそこを見たわけだ。

これまでパスカルは「一貫した思考をしない思想者」とされてきた。本質が掴めないままに、評価されてきたのではないか。だが、先述したような「入れ替わる」ということが、パスカル思想の構造なのだ。それは精神幾何学とでもいえようか。



2.選書と目録の大いなる原点 アレクサンドリア図書館

デレク・フラワー「知識の灯台」

2002年10月16日にエジプト、アレクサンドリアに新アレクサンドリア図書館がオープンした。このプロジェクトは、1974年にアレクサンドリア大学の学長ロフティ・ドウィダールが古代アレクサンドリア図書館の再建を提案したことから始まる。

だが松岡はこの新図書館に対し、「21世紀の知の殿堂」がこんなものでいいのかと問う。蔵書数は20万冊ほどで、何より書棚が地下のフロアに分かれて分割分断されてしまっている。松岡は3つの問題をあげる。


1.もし21世紀のヘレニズム文化があるのだとしたら、それをアラブ世界が抱きこもうとして何を検討したのかということ。


2.アレクサンドロス大王及びプトレマイオス朝が創建した古代都市アレクサンドリアの役割から何を再生しようとしたのかということ。


3.一体21世紀の「知の殿堂」としての図書館はどうあるべきなのかということ。


ここから松岡はアレクサンドリア図書館の歴史を述べていく。次第に図書館は拡張を重ねていくが、カエサルの攻撃にあって灰塵に帰してしまう。失意にくれるクレオパトラに、アントニウスが同情してペルガモンにあった図書館から蔵書20万冊を無償で贈ったのは有名な話である。だが、こうした助力も虚しく、知の殿堂が蘇ることはなかったのだ。


ここから、図書館の蔵書そして書棚、蔵書検索目録へと松岡は論を展開させていく。

作者選び、そしてその名を登録することをギリシア語では「enkrinein」という。この語は後に、リストアップという意味になる。このリストアップこそが最終的な価値判断であると、知の賢人たちはみた。

「リストこそが知の回廊なのである」。ギリシア語の「enkrinein」はラテン語では「classis」という。これは「enkrinein」と同じく元は選出という意味であった。キケロが重視した言葉でもあり、「第一級の選出」という意味が特徴にもなっていた。そこから「classici」となり、「最良のもの」「一級品」という指定を持つようになり、さらにルネサンスに至ると「古典」という意味になった。

こうした個展を然るべき組み立てで選ぶことを古代ローマでも、ルネサンスにおいても「ordo(オルドー=オーダー)」といった。

リストアップは第一級の古典を然るべきオーダーに改編することではないのか。松岡はそこから、書籍収集と図書配列に視点を転じ、21世紀の知の殿堂における目録が「どうしてあんなものでいいものか」と訴える。



3.本棚そのものが本である 書架はそのまま世界なのである

小川道明「棚の思想」

ここで松岡は本の選び方や読み方について書いている。


「本というものは知的なファッションなのではなく、ファッションそのものである」


本というものは一様に同じようなものではない。それを知るためには「本屋をよく知ること」であると松岡は言う。

まず本屋に入ってすぐ本を手に取らないこと。例えばブティックや靴屋に入ってもやたらめったら手に取ったりしないのと同じだ。本を見比べるには、「棚の思想を見よ」と松岡は言う。棚組みを楽しみ自分なりの見方を確立するのだ。

「棚の思想」を書いた小川道明も、こうした「棚の思想」を嗅ぎ分けたい、と書く。それを嗅ぎ分けるためのヒントは5点ある。


1.文庫本の棚は勉強にならない。単なる電話帳である。だから、ここは捨てる。


2.本の並べ方には平積みと棚差しがあり、平積みの本は大抵売れ線ばかりなので、棚差しの方を見る。


3.棚の本を見るときはできるだけ3冊ずつ目をずらして見ていく。


4.本はできるだけ複数買いする。本を一冊ずつ読むということは、小説を除いてしないこと。色々取り替え読み替えしているうちにほんの値打ちも見えてくる。


5.あえて本を買わずに出てきたとしても、その本屋の棚に並んでいた本を思い出すこと。


つまり、「本を一冊から多冊に」した付き合うべしということなのである。一冊の本は多冊とリンクされている。一冊は常に多冊を対応させるべきだ。

だが実は、元の著書にはこのようなことは書かれていないを1970年代から80年代にかけての本屋の周りの出来事が報告されているだけだ。松岡は「しかもその中身は今日では古くなりすぎて到底使えない」としつつも、「棚の思想」というタイトルとデザインで買ったとして、取り上げるのだ。

洋服などを「デザインがいい」という理由で買って手元に置くのと同じように、松岡は小川の著書を眺めて、棚に置くのである。



「本は交際である」と、松岡は書く。私は「本との出会いは、人との出会いと同じだ」と思う。


「本には何でも入る。オリエント文化もバッハの楽譜も信長の生涯も入るし、ピーターパンの冒険もハイデガーの哲学もシダ植物の生態もはいる。物語も日記も政策も犯罪も、必ずや本によってかたちをなし、本として世の中にデリバリーされてきた。本は何でも運べる舟であり、たいていのコンテンツを盛り付けられる器です、かつまた知識と情報の相場であって、だれもが好きに着たり脱いだりできる着脱自在な方形の衣裳なのである」


本は過去にも現在にも未来へも飛んでいける。私と本との最初の出会いは、病気で療養していた15歳の春のことだった。そのとき手に取ってみた本はシェイクスピアの悲劇、ゲーテの「若きウェルテルの悩み」「ファウスト」、三島由紀夫の「金閣寺」だったように思う。

それから23歳になった今でも、何がしか本を読んでいる。本は世界への扉を開いてくれる。私の賢さを示してくれるのではない。この私の矮小さと、無知さを本は改めて教えてくれるのだ。こんなに良い先生はいない。

そしてやはり、生の手触りが味わえる紙が一番である。





参考・引用:松岡正剛「本から本へ」

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