肉体と美術

私の最も好きな出版社、それはちくま学芸文庫である。美術、文化、文学、思想と幅広い分野のちょっとニッチな良書が揃っているからだ。通常だとハードカバーサイズの書籍が文庫サイズで読めるのも気に入っている。

だが、ちくま学芸文庫を多く扱っている書店はそうない。結構大きな書店に行っても、真っ白な背表紙がずらっと並ぶ様はそう見ることができないのだ。小説は読むけれど学術書の類は読まないという人は結構多い。学術書こそ面白いとも思うのだけれど、堅いイメージがあるのか某番組の「読書好き芸人」でも紹介されるのは専ら小説か自己啓発本ばかりで哀しかったのを覚えている。

そこで、かなり偏ったものになるが私が気に入っているちくま学芸文庫の書籍を簡単に紹介したい。

ちくま学芸文庫の面白さ…ひいては学術書の持つ魅力に気づいてもらうきっかけになれれば良い。



さて、今回は谷川渥著の「肉体の迷宮」を取り上げたい。

これは簡単に言うと「美術論」である。では何についての論かと言うと、ずばり「肉体」についてである。なぜ肉体なのかと言うと、西洋美術の歴史と肉体は切っても切れない関係にあるからだ。

よく「芸術は自然の模倣」と言われる。この、「自然」という語はしばしば誤解される。私たち日本人は「自然」というと花鳥風月などに代表されるような自然美を想像してしまう。だが、西洋美術上においては自然とは人間のことを指す。そして必然的に西洋美術の中には肉体というものが満ちている。逆に日本美術の中においては、この肉体というものが希薄である。

このような差異を私たちはどのように受け止めるべきなのだろうか?

本書はこうした問題意識を出発点として論考を展開していくものである。ここでは私が個人的に面白いと思った第1章「日本人離れの美学」、第10章「肉体の美術史」を見ていきたい。



第1章:「日本人離れの美学」

「日本人離れ」という言葉には、ある種のプラスの価値が与えられている。日本人らしくないことが積極的に評価されるのだ。日本人離れした顔立ち、日本人離れしたプロポーション……そこには賛嘆の念すら込められている。谷川はこうした屈折した言葉の中に近代日本人の美意識が集約されていると見る。日本人離れ、とは西洋人という他者そしてその他者との差異を意識しながら内在化しようとして成立した言葉・概念なのではないか。

ここで谷川は高村光太郎を取り上げる。高村光太郎は、23歳の時にニューヨクへ渡り、次いで憧れであったロダンの住まいを訪ねイタリアを見物した後にロンドンから帰国する。遊学は3年にものぼった。彼は帰国後、「根付の国」という詩を書いた。


……小さく固まって、納まり返った

猿のような、狐のような、ももんがあのような、

だぼはぜのような、めだかのような、鬼瓦のような、茶碗のかけらのような日本人


ここには、顔に対するネガティヴな日本人像がある。日本人による日本人批判の原型のような詩だ。日本人とは、この詩の中では他者となっている。

さて、西洋には比例(プロポーション)と量塊(マッス)という2つの表現思想がある。だがこうした思想のない日本に、高村光太郎は西洋近代の彫刻理念を移植しようとした。だが、そんな彼はのちに木彫りの彫刻を製作するようになる。その中で彼は蝉こそが最も彫刻に適していると書く。光太郎は蝉を全体のまとまりとして捉え、「虚ろなものがそこにある」というような日本的連想を拒む。だが蝉を主題として選ぶこと自体は極めて日本的なのだ。ここに、日本人離れと日本人そのままの微妙な関係がある。日本の芸術において生物は北斎漫画を例として頻繁に登場する。蝉を彫ったことは日本的なことなのである。さらに日本的なのは木彫りを選んだことだ。おそらく光太郎の中で、日本的なものと妥協(あるいは馴染んだ)したのではないか。日本を離れようとするベクトルと、日本へ帰ろうとするベクトルがせめぎ合っているりその中で日本的な作品が成立したといえる。

「日本人離れ」という言葉のうちにある意識やダイナミクス、屈折への考慮なしに近代日本の芸術、美意識の問題を論じることはできないのではないか。



第10章「肉体の美術史」

肉体と芸術の関係は、東洋と西洋で大きな違いがある。日本人は裸体をどう捉え、また捉えてこなかったのか。「自然模倣」という西洋の芸術理念がある。ここでいう自然とは人間のことである。西洋芸術の根本的な主題は人間をどのように表象するか、彫刻で肉体をいかに造形するかであった。

西洋文明は「ヘレニズム=ギリシア・ローマの思想と芸術」と「ヘブライズム=ユダヤ・キリスト教」という2大原理がある。ヘレニズムとは裸体の文化で、ヘブライズムとは布の文化である。裸の文化とは、身体を鍛えて肉体美を作ることを良しとし、芸術として享受するものである。布の文化は逆にこうした裸体を恥ずかしいものとして覆い隠すものである。2つの相反する文明原理があったわけである。ヨーロッパでは、キリスト教の公認以来、1000年に渡る中世を経てヘブライズムに抑圧されたヘレニズムが再生しルネサンスとして結実していく。



ヴィンケルマンは「ギリシア美術模倣論」において、近代に比べて古代の芸術は素晴らしいというようなことを書いている。また彼は美しい人間の輪郭を見せる工夫はギリシア人が発明した「濡れ衣」だとも言っている。

谷川は芸術を皮膚概念との関係で考察することを「芸術の皮膚論」と呼ぶ。第一の視点は、肉体と皮膚と着衣の関係に着目するものである。第二の視点は皮剥ぎの問題である。この皮剥ぎモティーフは解剖学の発達の影響でヨーロッパ中に広がっていく。

第三の視点は絵画術は化粧術であるということだ。線と色という二元論にこの視点は帰着する。

第四の視点は皮膚病理学的美学である。これは人間の皮膚の病変などを絵画の表面と重ね合わせて論じるものである。

第五は版の問題である。これはキリスト教の伝統の中で聖顔布と聖骸布はなんなのかということと関係がある。

いずれにせよ皮膚という概念が様々な形で芸術の中に入り込んでいるのだ。谷川は肉体の美術史において、皮膚を切り口として新たな考察の入口を示すことを試みたわけなのである。



余談であるが、私の最も好きな画家はウィリアム・ブグローだ。サロンの大御所にして、印象派の天敵であった人物である。「玉ねぎの皮のような」滑らかな皮膚を描いた。画題は古典的で王道であった。私は現代芸術や抽象的な画題が好きではないのでどうしても古典主義に傾くところがある。

西洋美術において人体表現は、中世の平面的なキリスト教美術を経て、解剖学の発展したルネサンスにようやく3次元的立体表現へと至る。その後のマニエリスムでは、さらにそうした立体手法を進め、引き伸ばされて歪んだ人体が描かれるようになる。冷静に見るとおかしな人体なのだけれど、私は結構好きだ。マニエリスムの画家といえばパルミジャニーノの「首の長い聖母」が有名である。私は同時代の画家ではエル・グレコが好きだ。

その後の王道回帰である新古典主義を越えてさらに芸術は近代、現代へと向かって発展していくのであった。



参考・引用:谷川渥「肉体の迷宮」

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