作者と読者
私はこうして、曲がりなりにも何かを書いている。それは小説というような形を取るし、時にはこうしてエッセイという形も取る。
私は文章を書くことが好きだ。いつから好きになったのかは分からないけれど、文を書くことで学校でも職場でもあまり苦痛に思ったことはない。義務の伴う文章においてもそう思うのだから、趣味でやっているこうした文章についてはなおさら苦痛に思ったことはない。
こうした感覚は、もっと真面目に骨身を削って書いている人からすると「浅い」と言われるかもしれないが、正直なところなのでどうしようもない。
さて、私は書くのも好きだけれど、同時に読むことも同じくらい好きだ。最近つくづく思うことは、「読書は習慣」だということだ。朝起きて顔を洗ったり、歯を磨いたり、寝覚めのコーヒーを1杯飲むのと同じような感覚で本を読むことが習慣になっていなければ人はそう本を手に取らない。大人になってから「さぁ、何か読もう」と思ってもなかなか難しい。
私は学生時代特に友達と遊びまくったり、どこかへ出かけたりする質でもなかったので1人で何かしら読んでいた。それがいつの間にか「習慣」にまでなってしまったわけだけれど、これと同じことが書くことにも言えるのではないだろうか。ただ、読むこととの違いは書くことの方がより「自分」を突きつけられるということであると思う。自分の浅薄さも、未熟さも、そして才能のなさなんかも自分の書く文章によって露わにされる。これは結構苦痛なことでもあるけれど、同時に自分を省みるよすがにもなる。こうしたものをどう捉えられるかで、人というのは分かれ道になるのだと思う。
少し前置きが長くなってしまったけれど、今回書きたいのは読書についてでも、小説を書くことについてでもない。私はあまり創作論というのが得意でも好きでもないので、居丈高に書くつもりはない。ただ自分なりに普段目にしたり考えたりしたことを、のんびりと書いていきたい。
さて、そこで最近思っているのが「作者と読者」についてだ。より具体的には、「作者と読者の関係」である。
Web上で自分の作ったもの、人の作ったものを発表できるようになってからこの両者の関係というのは随分可視化されたように思う。元はプライベートな空間の中でやり取りされていたものが第三者が覗くことができる場所(感想欄とかね)でコミュニケーションが取られるようになって、こうした関係性はもはや「2人だけの」ものではなくなっている。
私が小説をこうして書くようになって、2年ほどだが驚くほど多くの人が文章を書いているのだなぁと思う。別に小説を書くことは特別なことではなくなっている。創作全般が、プロアマという区別を越えて身近なところに存在していることを感じるのだ。
さて、こうして「何かを作ること」が極めて一般的になった現代に私たちはいるのだけれど、「作る行為」が身近であればその主体も身近な存在になる。作者は顔の見えない匿名の無機質なペンネームだけの存在ではない。人格をまとった「生臭い」存在となっている。生臭いのだけれど、私はネガティヴな意味合いでこの言葉を使っているのではない。
これまで読者には見えなかった、書く側の抱える諸々の感情が、Twitterや感想欄のやり取りで見えるようになることによって、作者という記号に厚みが出てくるのだ。そうした厚みを、私は「生臭い」と思う。人間臭い、でも良い。
文章は人を表すとも言うけれど、例外もある。やたら難読漢字を使って割と耽美な世界観の話を書く人がいたのだが、私は勝手に「他人の評価なんて歯牙にもかけずに自分の世界観を追求する孤高な人なのかな」と思っていた。あまり一般受けする文章の書き方ではなかったから、余計にそう思った。Twitterでその人と繋がると、日常的な呟きも目にするのだけれどあまりにも他人の目を気にして、誰かに褒められるための手段として文章を書いているところが垣間見えてすごくがっかりした憶えがある。もちろんこれは私が勝手にがっかりしただけなのだけれど、これは「知らない方が良かったな」と正直に思った。
以前にも書いた憶えがあるが、「人からどう思われるか」ではなく、「自分が何を書けるか(書けないかも)」を私は大切にしたい。何かの目的のために文章があるのではなく、文章それ自体が一つの目的でありたい。
作者と読者の関係について書くなら、避けて通れないのが「感想」というものについてだ。この感想こそは、作者と読者の関係性を表す基本単位であるといってもいいだろう。
感想についてや評価の仕方、応援の仕方についてWeb上のエッセイやTwitterなんかで散々目にするが、率直に辟易としている。読む方も読まれる方も、正直面倒な人が多すぎると感じる。
評価や感想がなければ筆が折れると言い、だから好きな作者は気軽にフォローなり感想を残すなりすべきだと言う。そうかと思えば、こういう展開にしろ、こういうものを読ませろと同時に喧しい。
私はどちらかといえば書く方の側であるから、読者のあれこれよりも作者側の雑音の方が見ていてうんざりとさせられる。
あなたは誰のために、何のために書いているのだろう。
ざるで水を汲み続ける人を見るような、物哀しい心地がする。
基本的に作者と読者は対等であると思う。どちらが偉いも下もない。ただ、読んでくれるのは「ありがたい」と思う。それ以上でも、それ以下でもない。現実の顔の見える人間関係と同じだ。だからたまに目にする「作者様・読者様」という単語には「ゾワッ」とする。対等なのだから、作者・読者でいいと思う。この辺りの語感は個人の感じ方次第なので深くは追及しないけれど、私はこうした「卑屈さを感じる丁寧さ」をまとった言葉遣いは好きではない。
人との関係、この場合だと評価されるか、感想がもらえるかという問題について考えるときいつも思い出す言葉がある。
「世の中の6割の人は、あなたが何をするかであなたのことが好きか嫌いかに分かれるだろう。2割の人はあなたが何をしても、あなたのことを嫌いなままでいるだろう。でも残りの2割の人は、あなたが何をしてもあなたのことを好きなままでいてくれるだろう」
万人に好かれる人はいない。それと同じように万人に嫌われてしまう人もまた稀だ。
私は最後の2割の人を見つけて、大切にできればいいと思っている。素人の手遊びに目を通してくれる人、感想までくれる人はそういない。だからその稀少なものに血眼になるのだろうが、あれをこうしろ、こうするなと欲が深いと私は思う。
たった一言だって、別にいい。ありがたい。
謙虚に素直にそう思うこと。それだけのことが、様々なやり取りを見ていると随分遠くになっているなぁと感じる。
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