私の本選び
本を探すことは、無数の人混みの中から目当ての人を探し当てることとよく似ているといつも思う。
私はウィンドウショッピングが好きではないが、本屋に限っては当てもなく目的もなく歩き回るのが好きだ。一生手元に置いておきたいと思える本に出会えることは本当に稀だ。それを当てもなくぶらぶらとしながら見つけようとすることは、その辺の往来の中から結婚相手を見つけようとするのと同じくらい難しいことだと思う。
だが、これが結構面白い。最初から調べて読みたい本、買いたい本だけを買いに行くのもいいけれど私はお気に入りの出版社の棚を眺めながら面白そうな本を手に取ってめくって、買うかどうか悩むのが好きだ。
私は決まった棚しかちゃんと目は通さない。あとはなんとなく背表紙の字面を眺めながら、面白そうなものをその都度手に取る。
私が巡るのは、ちくま文庫、ちくま学芸文庫、岩波文庫あたりだろうか。最近はちくま新書の棚も見るけれど、新書は値段の割に文章量が少ないのであまり好きではない。そう、私はびっちりと文字で埋まっている本が好きだ。すかすかのページは読む気がしない。ちくま文庫やちくま学芸文庫は、少し変わったタイトルが多いのが気に入っている。ちくま学芸文庫はたくさん置いている書店があまり多くないので、個人的にはもっと置いて欲しい。
この三連休で、2日間違う本屋に行って来た。
最初の本屋ではニューズウィークと、平凡社ライブラリーのフェルナンド・ペソアの詩集「不穏の書、断章」を買って来た。ペソアの詩集が思ったよりも良くて、買ってよかったと思っている。平凡社ライブラリーも私は結構好きだ。手元には、「レズビアン短編小説集」「クィア短編小説集」「病短編小説集」がある。海外小説の翻訳で、特にレズビアンとクィアの方はまだ検閲が残っていた時代の作品もあるから、隠語や言葉遊びで単語をごまかしている箇所もあり読みづらさや理解を妨げるようなところがあるものの面白く読めた。ちくま学芸文庫だと、最近買ったのは「柄谷行人講演集成1985-1988」だ。これもなかなか面白かった。「私たちは考えるから、言葉を話すのではない。ただ単に話しているだけだ」。こうした言葉の中にあって、いうならば私たちは悲劇の中におかれている……。このあたりはまた別のエッセイにしてみるつもりだ。
今日も本屋に行って来たが、またいい出会いがあった。平凡社ライブラリーの「ヨゼフ・チャペック エッセイ集」と、神谷恵美子の「生きがいについて」だ。2冊とも別に目当ての本ではなかったし、全く知らなかった本だがぺらぺらめくると面白そうで読んでみたいと思った。
チャペックのエッセイ集は、ナチスの強制収容書で死を前にして書かれた詩も併録されていて、気になる存在だ。
ここ最近は、エッセイ集にも興味が出て来たので図書館に行った時にも漁ってみようと思っている。
本との出会いは、人との出会いに似ている。前評判が良くても、実際に会ってみるとそうでもなかったり、たまたま付き合いで話してみた人が意外とウマが合って一生の友達になれたりする。本も同じだ。賞を獲ったものが面白いという確証はないし、売れていないからといってつまらないというわけでもない。私は埋もれた、ちょっと変わった本を探すのが好きだ。
探そうと思って探してみるのでもないのだけれど、ふと目をやったところにこれがいたりするから面白い。今日だと、ヨゼフ・チャペックのエッセイ集だ。たった一冊の平凡社ライブラリーがこれだった。
本を探して、読むこと。これも一つの財産であると思う。以前何かの記事で、読書に対し「コスパが低いのになぜ読書をするのか」という10代の学生の意見が載っていた。合理性からみると、今は書籍よりもインターネットの方が早い。今の10代の子の方が、ある意味では賢いのかもしれない。だが働き出して、「心のゆとり」というのが削られていくとこう思うのだ。
一見無駄に思えるもの、余分だと思えるものこそがめぐりめぐって、心の豊かさ、生きる豊かさを作っている。それはなんだっていいだろう。ゲームでも漫画でもアニメでも……私の場合はそれがたまたま本であっただけだ。
心のゆとりは、無駄なものから生まれる。だから、休みの日は寝溜めもするが「読み溜め」をしてあてもなく本屋へ行って、ふらつくのだ。
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