雨の午後とフェルナンド・ペソア

なんとなく寄った本屋で、ふと平凡社ライブラリーの文庫が目に入った。私はちくま文庫とちくま学芸文庫が好きだが、平凡社ライブラリーもいい。そこで見つけたのが、ポルトガルの詩人であるフェルナンド・ペソアの詩集だ。ペソアの名前すら私は知らなかったのだが、ぱらぱらためくっていると惹かれるものがあったので買うことを決めた。


「自然であるためには

ときどき不幸である必要がある」


たまたまめくったページの断章だ。端的であるのに、深いところを突くような言葉遣いだった。

その日は雨も降っていたし、余計なことはせずゆっくり詩集でも読んでいた方がいいかもしれない。私はそこでペソアを見つけて読むことにした。フェルナンド・ペソア「不穏の書、断章」。ペソアは生前ほとんど知られた存在ではなかったらしい。死後に「トランクいっぱい」に詰め込まれた膨大な遺稿が発見され、知られるようになった。

どこか鬱々としつつ、矛盾しているのだがその言葉はあくまで平明で端的だ。錐で突くような鋭さはないが、無垢な子供が思わぬことを言って大人を驚かせる時のような、鋭さがある。私は「不穏の書」よりも「断章」の方が好きだ。特に詩について、自己について、芸術について書いた箇所がいい。



「詩人はふりをするものだ

そのふりは完璧すぎて

ほんとうに感じている

苦痛のふりまでしてしまう」


「ふりをすることは自分を知ることだ」


「よい散文を書くためには、詩人でなければならない。というのも、よく書くためにはいずれにしろ詩人である必要があるからだ」



まずは詩について、あるいは詩人についての箇所だ。この「ふり」というのが、ペソアの詩の中言葉の中にはよく出てくる。ふりをすること、演じること。そして、ついには生身の感覚まで「ふり」をすること。

「肉をまとった仮面のみが真実を語ることができる」。なんとなく、三島由紀夫を思い起こさせる。



「深淵が私の囲いだ。

『わたし』という存在は測ることができない」


「他人を理解することは誰にもできない。詩人が言ったように、私たちは人生という大海に浮かぶ島なのだ。私たちのあいだには海が流れ、互いを限定し、隔てている。たとえ、ある魂が他の魂を知ろうと試みても、理解できるものは、ひとつだけだ、つまり、彼の精神の地面に映った歪んだ影」


「すべてを軽蔑せよ。だがこの軽蔑によって窮屈にならないように。軽蔑によって他人に優るなどと信じるな。軽蔑の高貴な術のすべてはそこにある」



自分について。

ペソアの言葉は、どこかで諦めている。拒絶している。他者への理解、他者からの理解、承認。

一人一人の人間の膜は、深淵で捉えがたい。「わたし」もまた捉えがたいが、「あなた」も捉えがたい存在であるのだ。「他人を理解すること…」は一番好きだ。「精神の地面に映った歪んだ影」で、私たちは交流をしている。それでも私たちは歪んだ影を、当人の真実の姿だと信じて交流を続けようとする。

「すべてを軽蔑…」も、読んでいてスッとする。そして、その後のピリッとする戒め。軽蔑すること、距離を置くこと。雑音から離れること、それで何も他人に優るわけではない。だが卑しい私たちは、小さな私たちは勘違いする。

ペソアの瞳にはどのように見えていたのだろうか。



「なぜ芸術は美しいのか。それが無用だからだ。なぜ人生は醜いのか。それが目的や目標や利害を持つからだ」


「文学は、他の芸術と同様、人生がそれだけでは十分ではないことの告白である」


「あらゆる芸術がいわば文学の一形式なのだ。というのも芸術は必ずなにかを言おうとするのだから。その形式には二つの方法がある。話すことと沈黙することだ。文学以外の芸術は表現的沈黙の噴出なのだ」



芸術とは、炉辺で楽しむもの。

ある作家がそのようなことを言った。無駄なもの過剰なものほど、美しくなる。対して目標や目的があるものは醜悪になる。人の生には、無駄なもの過剰なものが必要な時がある。それによって、人は初めて癒されるからだ。

文学は、沈黙しない。その「表現的対話」によって人もまた何かを言おうとする。

ペソアの文章は、決して何かを積極的に語りかけるようなものではない。それどころか、どこかでこちらを拒むような気配さえする。そうした矛盾の中に、微かな呼び声がする。

ペソアには、不思議な魅力があるのだ。

美しい一文というのは、不思議なことにその部分だけ浮かび上がってくる。ペソアの文章だと、私にとっては以下の一文であった。



「……空と痣の色に染められた、饒舌ではっきりしない一瞬のこと」





引用・参考:フェルナンド・ペソア「不穏の書、断章」平凡社ライブラリー




詩人たちは伝記をもたない。彼らの作品こそが伝記なのだ。

オクタビオ・パス

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