柄谷行人 講演集成1985-1988

最近、ちくま学芸文庫で柄谷行人の「講演集成1985-1988」を読んだ。いくつか面白い箇所があったのでまとめたい。

簡単な目次を付す。



1.言葉と悲劇

2.「理」の批判ー日本思想におけるプレモダンとポストモダン

3.世界宗教について




1.言葉と悲劇

この項で、柄谷は「言語の悲劇性」について語る。ウィトゲンシュタインを例に、「人間は考えがあるから言葉を喋るのではなく、単に喋るのだということ」を指摘する。これを柄谷は「自然史的な問題」だという。自然史的ということは、言葉によって生きることは取り除くことも解決することもできないことを意味する。哲学とは、こうした曖昧な言語を超え、明確な思考に到達することを目指してきた。

このような自然史的人間の条件を、柄谷は「悲劇的」だとする。

さて、狭義の悲劇についてはエディプス王の「王殺し」に見られるような構造を持っている。共同体が停滞もしくは非活性化したりすると、王はスケープゴートとして殺されるか追放されたりする。ここから、王及び王権そのものに悲劇的なものがあるのだ。

だがギリシャ悲劇が悲劇として上演されたのは限られた時期だけであった。それはシェイクスピアの悲劇においても同じで、このように真の悲劇の構造とは、「繰り返すことのできない一回性」といえる。(歴史といってもいいかもしれない)。

悲劇とは悲惨さとは無関係であり、認識の問題であるともいわれる。だが、私たちが世界を一つの理念や法則性によって説明できると思えるようになったとき、悲劇的認識は終わる。悲劇的認識はその直前にあるのだ。これは構造の外にある意識、構造に回収し得ないものだ。この意識そのものが、構造からはみ出している。

柄谷はウィトゲンシュタインの言語についての見方を悲劇的だといった。言語は構造に回収されない。そうした言語の中に、私たちがいること。こうした言語は自然史的であり、主体も何もない。人間は根本的に言語の中にあるのだ。

私たちは正しく考え、正しく語れば誤解は生じないと考える。だが、ウィトゲンシュタインは問う。言語の中におかれた人間は構造に規定されているのではなく、構造に回収されないような多様性・出来事性の中にある。その中で、私たちは規定や法則性を持つことができるのか。コミュニケーションにおいて、私たちは不透過性の中にいる。だから私たちは規則に従うことも反することもできない。私たちをこのように捉える認識は「悲劇的」というほかないだろう。



2.「理」の批判ー日本思想におけるプレモダンとポストモダン

この項では、柄谷はまず三島由紀夫から話しを始める。三島の割腹事件。この事件で想起されるのは「天皇」という記号だ。柄谷は、割腹事件において三島が掴んでいたものが「何の根拠もない認識」であることを自覚していたとする。

三島は天皇制を日本文化の防衛の核心だと考えていた。だがそれは天皇が無力かつ空虚な記号であるからこそなのだ。そして、そうであるから政治的に最も有効に働く。よって、力を持たされることの方が天皇制の危機といえる。だが、この天皇という観念は中国から来たものであり、日本的なものではない。ここで日本人とは何か、日本の文化とは何かと問うても、積極的なものは見当たらない。歴史的に中国の影響下にあった日本において、独自なものを積極的に明らかにすることができない。柄谷は、「おそらく三島は守るべきものが実体的には何もない、ということに気づいていた」と指摘する。守るべきものは、「何もないこと」それ自体なのだ。

三島が事件を起こした1960年代は、「昭和元禄」と呼ばれた。元禄とは、江戸封建体制において商業経済が浸透し、支配階級の武士が危機感を抱いていた時代である。1960年代は高度経済成長の元、農業や伝統的な生活様式、生産関係が崩壊していった時代で、文学もそうした崩壊や空虚感をそのまま映し出しているようなものだった。三島はこうした精神的な空洞化に

批判的で、「何とかしなければならぬ」と考えていた。

さて、1700年頃の元禄時代は商業経済の浸透の他に、中国の直接的な影響力を離れて自律的な言説空間を形成した時期だ。1960年代においても、高度経済成長による農業人口の減少と、西洋を規範とする思考から自律的な言説空間を持ち始めた時期と重なる。

柄谷はまた、日本が西洋に対してとってきた姿勢は、江戸時代に日本が中国に対してとってきた姿勢と共通している、と指摘する。それは「理」の批判である。「理」とは、道理、原理、真理、論理、理念、理性……など、このような諸概念の全てを含む。

「理」の批判とは、朱子学の批判である。朱子学の合理主義は啓蒙主義的であり、宗教的呪術的な思考を排除するとともに、「世界に理がある」という前提をおき、のちに蘭学を動機づけた。

伊藤仁斎、荻生徂徠、本居宣長の「理」への批判は異質である。仁斎が注目したのは「論語」の言葉と対話性とイロニーだ。それに比べると「孟子」は孔子の言ったことを定義し解釈するものであり、それを哲学化することであった。朱子学はさらにこれを哲学化するものであった。仁斎の「理」への批判は、哲学の言葉が対話性と他者性を失いモノローグ化していることに向けられている。

これに対し、荻生徂徠は仁斎が道徳や真理を個人の主観において見ていることを批判した。道とは、歴史的政治的な制度の問題であると徂徠はみたのだ。徂徠はこれらを個々人の意識を超えた社会的諸関係を客観的に見ようとした。

柄谷は本居宣長を最も興味深い思想家としてあげる。宣長は「真善美」のうち「美」を知の基底に置こうとした。美の領域を知に反するものではなく、その基底に置いたのだ。宣長は、真理や善意に固執する思考に対して批判をした。宣長は、「誠(真心)」に価値を置く批評家たちに対して、「源氏物語」や「新古今集」のような虚構性に、真の道を見ようとした。彼は、罪や不正、矛盾を直視して肯定する強さを「たおやめぶり」と呼び、真理に対して芸術を立てた。ここでは「理」が徹底的にディコンストラクトされる。

柄谷は「西洋におけるロゴス中心主義、近代的な制度・思考のディコンストラクションは、共有せざるを得ない問題であるが日本においては複雑な形をとる」ことを仁斎、徂徠、宣長の例をあげて言いたかったのだ。

現在の日本では、三島が批判したような「空洞感」が広がっている。その「空洞」の記号としての「三島」を柄谷は拒否するが、空洞感を共有していることは否定できない、とする。




3.世界宗教について

柄谷は、「世界宗教」を世界的に広がっている、と言う意味ではなく「世界という観念を提示した」宗教として言う。それに対し、「共同体の宗教」と呼ぶものは、人間が集団として共同体として生きていくために強制かれる構造のことである。宗教的であることは、文化的なことでもあるのだ。

共同体とは外部にある混沌としたものに対する秩序である。そして共同体とは外部の異質なものを導入することによって活性化を図る。これが祭式であり、またスケープゴートを作り排除することによって自らを活性化するのだ。こうした共同体のシステムは古来から変わっていない。柄谷によれば、「世界宗教」とはこうした「共同体の宗教」に対する批判であり、最初の宗教批判とは世界宗教として現れたのである。世界宗教とは、外部と内部という共同体の空間に対し、その外部がないような世界を開示したのである。よって、柄谷は世界宗教の始祖たちは単純なことしか語っていないのではないか、と指摘する。それは単純に二言で表すことができる。

「神を畏れよ・他者を愛せ」である。「神を畏れよ」とは、共同体の神々を斥けよ、あるいは共同体を出よという意味になる。世界宗教は共同体の外、共同体と共同体の間に出ていく。それが世界であり、そこに外部や内部というものはない。そこでの他者とは、異質なものではなく、世界宗教が開示する世界の中で見出されるような他人のことだ。交換し合うような他者、という言い方もできるだろう。世界宗教が都市や商人の間に生じてきたのは、そうした意味では当然であると柄谷は言う。また「神を畏れよ」とは「世界において在れ」というのとも同じである。

マルクスの宗教批判は有名だ。彼は「宗教は民衆のアヘンである」と言ったが、ここでマルクスが主張しているのは宗教を非合理的な思考として批判する啓蒙主義ではない。むしろ、そうした啓蒙主義を批判することであった。

また既成宗教に対する批判は「現実の批判」であったと言ってもいい。宗教の問題とは、非合理的な思考として片付けられるものではなく、現実的な構造に根ざしているからだ。

柄谷は根本的に異質なものとして、モーゼの神をあげる。モーゼの神は、生贄、祈願、祭祀といった共同体的な儀礼を否定する。そして、モーゼは外国人であるということだ。一神教か多神教かであることは重要なことではない。多神教も暗黙に一神教をはらんでおり、その逆もまた然りなのだ。それは共同体を否定してしまう、共同体的であることを許さない神であるからだ。そこには、他者性・外部性が入り込んでいる。

だが人間がどこかで共同体に従属している場合、暗黙に神々を持っているのだと考えるべきだと柄谷は言う。神々を否定したところで何も変わらないのだ。宗教を批判しようが、否定しようが問題は変わらない。現実としての共同体、国家がある。そうした条件が変わらなければその外部へ出よ(神を畏れよ、他者を愛せ)という命令、契約といったものは変わるはずがないだろう。

最後に柄谷はデカルトを取り上げる。「方法序説」において、デカルトな人間が他者としての神を共同体の外に実存するということと切り離せない問題として考えたことを指摘する。ここにも、モーゼ的な神が見えてくるのだ。ここでは、共同体というものが問題になる。東洋や西洋というのはこの文脈において、関係のないことであるのだ。



現在の問題となっていること。

言語そのものが持つ悲劇性と、コミュニケーション不透過、孤独性。理性への批判。共同体への批判。

ラディカルな問いかけは、古来から繰り返されてきたものであること。

そんな当たり前のことを、改めて感じた。



参考・引用:「柄谷行人講演集成 言葉と悲劇」ちくま学芸文庫

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