「新潮45」再炎上

少し前にも話題(悪い意味で)になった「新潮45」が、また炎上している。「新潮45」といえば、杉田水脈議員のLGBTに関する文章が記憶に新しい。その雑誌が、今度は「そんなにおかしいか『杉田水脈』論文」という特別企画を組んだのだから面白い。まぁそんなわけで880円も出して買ってきた。

企画の概要としては、杉田氏の文章に浴びせられたバッシングに対する「反論・擁護」を様々な肩書き(YouTuberもいる、時代だなぁ…)の人たちが行うというものだ。全て読んでみて思ったことは、7人いる寄稿者のうち松浦大悟氏以外の文章はどれも感情的で見ていられないものだった。特に小川榮太郎氏の「政治は『生きづらさ』という主観を救えない」という文章が最も稚拙で下品だと感じた。

だが初めにひと言付け加えておくと、題名にもある「政治は生きづらさという主観を救えない」ということは、間違っているとは思わない。生きづらさ、というのはある面では個人の内面の問題でありそれを社会の中から、人々の中から消し去ることは難しい。だがその生きづらさが、社会の構造的な問題(例えば差別など)によって生まれている場合は、どうなるのだろうか。こうした視座を持つことは、何もLGBTの問題に関わらず必要なことであると私は感じる。

小川氏は恐らく自身の考えとして「人間ならパンツを穿いておけよ」と、「性的嗜好」をカミングアウトする行為自体を良しとしない。まぁ、分からなくもない。私も誰それが異性愛者だとか同性愛者だとかは日常生活の中で全て知りたいとはあまり思わない。ここで一つ訂正すると、そもそも「性的嗜好」とは「どのような性行為に興奮・関心があるか」であって、ゲイやレズビアンといった「性の関心がどの性別や対象に向かうのか」を表す「性的指向」とは全く異なる単語である。のっけから、小川氏の文章は事実の誤認を含んでいる。

そもそも当人がLGBTという風に性的嗜好をまとめることに根拠を見出さず、このような概念に乗って議論すること自体を「拒絶」しているので、そこらへんもいい加減なのかな、とは思う。小川氏が最も怒るのは、「『弱者』を盾にして人を黙らせる風潮」に対してである。よって、杉田氏に対する評価も、「……弱者の名のもとにおけるマスコミの異常な同調圧力、それらと連動しながら強化されてきた様々な弱者利権、それらがしばしば外国による日本侵食工作と繋がっていることの深刻な害毒と戦ってきた人」となる。そのような人が書く文章が「辛口になる」のは当然であると小川氏は擁護する。前半はこのようなLGBTや弱者を盾にするマスメディアなどに矛先が向かうのだが、中盤からいきなり「共産党宣言」を引用し、LGBTという概念について「詳細を知らないし、馬鹿らしくて詳細など知るつもりもないが、性の平等化を盾にとったポストマルクス主義の変種に違いあるまい」と書く。全体的に、小川氏の文章は感情的で主観により過ぎる。少し読めば文章の孕む矛盾に気づきそうなのに、このまま掲載されるのはどういうことだろうか。

なぜ、詳細を知らないし知るつもりもない概念が「ポストマルクス主義」の変種に違いないなどと断言できるのか。小川氏の文章はこうした突っ込みのオンパレードで、読んでいて辛い。

小川氏が気に入らないのは、LGBTという問題が、「人間の問題」言い換えるならごく個人的な内面上の問題を「社会化・強制化」したものだからだろう。ここでもマルクスを引き合いに出すが、私にはLGBTとマルクスがどう繋がるのかはよく理解できない。左翼系メディアや知識人がLGBTを盾にして社会をおかしくしている、と言いたいのかもしれない。最も憎い左翼系メディアや知識人の言説を飛び越えて、駒として扱われるLGBTも憎しというのはまさに「坊主憎けりゃ袈裟まで憎い」だなぁと思った。一応、小川氏は「同性愛は知的にも美的にも優れた持ち主に多い」などと、箸休め的な文章を挟みはするものの、「性に関する自意識など所詮全て後ろめたいもの」であって、「何を今更騒ぎ立てるのか」と主張する。

私はここに至って、「あぁ、全員ではないにしろ所詮マジョリティとして社会の中に存在してきた人たちには本当のところは理解できないのだな」と深い諦観にも似た感情を持った。怒るとか、不快だとかいうレベルではなく、諦観だ。異性愛とその生殖も、性に関する自意識のひとつに過ぎないのだろうが、こちらは「社会を維持させるため」と強力に擁護される。「全て後ろめたいもの」と言いながら、一方の性的指向はこのように扱われることを小川氏はどう捉えるのだろうか。

そして、小川氏はLGBTの「生き難さ」が後ろめたさ以上のものであるというのなら「SMAG」の人たちも同じように生きづらいだろうと指摘する。今回最も炎上している箇所はここである。これは小川氏の造語で「サド、マゾ、お尻フェチ、痴漢」を指すものだ。


「満員電車に乗った時に女の匂いを嗅いだら手が自動的に動いてしまう、そういう痴漢症候群の男の困苦こそ極めて根深かろう。再犯を重ねるのはそれが制御不可能な脳由来の症状だということを意味する。彼らの触る権利を社会は保障すべきではないのか」


なんというか、これについてはまともにこれ以上頭を使いたくはない。痴漢は犯罪であり、病的な痴漢症候群の人も中にはいるかもしれない。だが、彼らに必要なのはそうした権利の保障ではなく治療なのではないか。

また小川氏は、これまでの主張からも推測できるように同性婚に関しても「全く論外であり、頭ごなしに否定」する。その理由は、言い古されたことだが結婚とは古来から男女間のものであるからだ。小川氏はどうも同性婚を自然災害と同等とみなしているようで、「社会慣習の叡智性を顧慮しないかかる激甚な破壊は人類にしっぺ返し」をくらわすと続ける。

全体として、小川氏は性のあり方(それに付随する生きづらさ)とは個人的なものであり、人生的なものであるとし、それを社会化したりしてはならないと繰り返し主張する。なぜなら性に関するものは秘匿し、その辛さはあくまで個人として引き受けなければならないからだ。政治はそのような個人の生きづらさを救えないし、「救ってはならない」のだ。こうした私的領域を救えるのは個人の努力と集団の道徳であり、政治に救いを求めるのは、このような私的領域を権力に売り渡すことに他ならない。最後に小川氏は、「少しは『人生』そのものの味わいに戻ったらいかがですか」と結ぶ。



正直、このような文章が掲載されること自体にびっくりだが読んでいてある種の世代間での思想の分断を見たような気もした。世の中には小川氏に共感する人もいるだろうし、これも一つの意見なのだろうかとは思う。

人は、自分が痛まないところからではなんとでも言える。実際に顔を踏まれなければ、その痛さや理不尽さ、屈辱を感じることはない。誰かが痛い痛いと泣いても、そんなの知ったことか自分で解決せいというのが小川氏の見る社会なのだろう。小川氏のどこまでいっても感情的で憎悪にも似た言葉は、私を諦めさせた。

好きにやってください、ということだ。差別するもよし、だが同時に差別されても結局はその怒りや哀しみや生きづらさは「個人の人生的な問題」であるから、小川氏自身で折り合いをつけていかれればよいだろう。

私は、生きづらさというのは全て個人の内面だけの問題であるかと言われればそうは思わない。社会の中で生きている以上は、やはり幾分かはそれは社会的な問題でもあると思う。そうであるから、「生きづらさ」というのは確かに個人的な問題の一つではあるけれど、自己責任の名の下に矮小化してはならないと思う。


個人的なことは、政治的なこと。


1970年代のゲイ解放運動の時だったか、アメリカではこんな標語が繰り返し使われたと思うが、マイノリティの問題からマジョリティの問題が見えてくることもある。それは私たちにとって、社会全体にとってとても大切なことを示唆してくれる。

私たちの性のあり方。その性から規定される社会制度のあり方。もっと深層のそのような社会環境の中で生きている人たちの意識のあり方。その一つ一つから、これからの未来の視座は得られていく。私はそうした考えと目線の元で得られるものを大切にしたい。男だ女だ、ゲイだレズだではなく人間の集まる集団の中で今何が起こって、何を人々は考えているのか。

確かに理解できない人たちもいる、共感できない人もいる。だが私たちはどうなりたいのだろう。

今日よりも明日は幸せでありたい。

願うことはシンプルだ。そのためには私たち自身を理解する必要がある。鏡がなければ自分の顔は見れない。それと同じように隣人の顔だって、自分から見に行かなければ見ることはできない。

この社会には、本当に色々な人がいる。私の常識が通じない人もいるし、私の常識が非常識に感じる人だっている。そんな「当たり前」を、私たちはどこかで忘れてしまったようだと小川氏の文章を読んでいて思った。



ちなみに「新潮45」を擁護するわけでもないが、松浦大悟氏の「特権ではなく『フェアな社会』を求む」は唯一「読める」良い文章だった。松浦氏自身ゲイをカミングアウトした元参議院議員である。「命の線引き、人権の線引きは、常に恣意的であり政治的です」との一文は、当事者の感じる素直なところだろう。松浦氏は世代間の心理的分断を取り上げる。「日本は多様性に開かれるべきであり、理解できない他者と共存していく努力をしなければならない」が、スピードの速さに人間の感情がついていけていない現実を指摘する。そして、杉田論文の背後に「これまで気持ち悪いとされてきたものが輝かしい存在へと祭り上げられることへの認知的不協和音。高齢者の不安に寄り添う漸進的改革が求められているにも関わらず、意に反して世の中が急進的に変わっていくことへの苛立ち」を松浦氏は見る。

新しい権利が主張され始めると、既得権層は自分たちの権利が脅かされるのではないか、あるいはこれまでの価値観を否定されているのではないかと感じる。そうではなくて、LGBTはあくまで「フェアな社会」を望んでいる。特権が欲しいわけではない。松浦氏の主張は明快で、私も同性愛者であるわけだが全く同じ思いだ。「長年連れ添った相方の遺産相続や事業継承の問題、雇用の問題、結婚における平等など、個別具体な法整備を希望」している。

社会制度を整えることで、生きづらさが解消されるわけではない。だが、この社会の中で、確かに一員であるのだという承認は「次世代へのせめてもの贈与」なのではないかと松浦氏は結ぶ。

当事者の感じる率直な思いがよく書かれていると思う。LGBT=リベラルというのも迷惑なラベリングだが、こういうことについてあまり触れているものはない。

松浦氏の文章は一読する価値があると思う。



「新潮45」は今回の企画以外の特集も読んだが、なんというかレベルの低い雑誌なのだなと改めて感じた。執筆した当人たちは自らの文章を「論文」と言う人もいるが、論文というよりは「作文」に近い。稚拙で下品な日本語の多い執筆者の寄稿している雑誌だと感じた。だが面白い箇所もあって、それが松浦氏の文章と、もうひとつ、里中高志氏の「『死にたい』願望、救います」という文章だ。自殺志願者たちを支援する僧侶を追ったものだが、これがなかなか考えさせられる。30分に1人が自殺する国だ。この社会には様々な辛さ、生きづらさが溢れていると改めて感じた。そして、その中で交錯していく人と人の人生の不思議さと強かさ、脆さみたいなものを読後に考えさせられる。

玉石混淆……なのだろう。



それにしても880円かぁ……もっと他の面白くて質の高い本に費やしたかったなぁ。



引用・参考 「新潮45」2018年10月号

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