宗教と人間についての下書き

オウム真理教の死刑囚全員の死刑が執行された。そのことで考えたわけでもないのだけれど、「宗教」というものは何だろうかと考えることがある。宗教学や宗教社会学というものに関する本を、最近はつらつらと読んでいる。私は特に神も仏も信じてはいないけれど、「人は何故神なるものを求めるのか」という所には興味がある。私は人というのはどこかの時点で、死というものに強い畏怖の念を持ったのだと思う。有限な存在として、「死ぬべくして生きている」存在としての知覚が、「宗教」というものの最初の萌芽がそこにあるのではないかとぼんやり思っている。

最近読んだのは、グスタフ・メンシングの「宗教とは何か」であるが、そこでメンシングはこんな風に宗教を規定する。



「宗教は聖なるものとの体験的な出会いと聖なるものから規定された人間の応答する行為である」



またメンシングは、シュライエルマッハーについて「宗教の本質を行為の中にも思惟の中にも見ず『宇宙の直感と感情の中』に或いは別な、より周知の定義によれば『絶対憑依』の感情の中に見た時に、宗教の特殊な本質に著しく接近した」と指摘する。



私はこんな風に思う。宗教の本質とは結局の所「人間」であり、その特殊な本質とはそのまま「人間の特殊な」本質なのではないだろうか。その意味で宗教とは人間学でもあり、それが共同体や集団として存在するのであるならある意味では社会学でもある…とも思ってみる。

メンシングは宗教を民族宗教と普遍宗教とに分けてみせたが、この2つが何を主体として存在するかを見ると分かりやすい。



「普遍宗教の構造における決定的に新しいものは、民族宗教におけるように、普遍宗教においてはもはや一つの集団が宗教の主体ではなく、個人が宗教の主体であるということである。


普遍宗教においては、人間が救済の告知の対象である。それによって宗教的関心事の非民族化が遂行される。告知はまさに人間そのもののそれ故すべての人間の実存における深みの苦難なるものに向けられる」



「人間」が主体であり、主体となるのだ。ファン・デル・レーウは「エピレゴーメナ」において人間が生についてどのように捉えるのかを、こう書く。



「宗教を水平の面から理解すると、人間はみずからに与えられる生を単純に受け取るだけではないという意味が含まれている。人間は生の中に力を求める。それはみずからの生を持ち上げ、高め、生のためにさらに深く且つ広い意味を勝ち取ろうとすることである。


人間はみずから居合せる世界を単純には受け取らない。人間は世界に関心を抱く。宗教的に言えばこうである。世界は人間を不審がらせる。世界は人間を不安にする」



体験として生身の身体と精神から受ける様々な刺激を、そのまま受け取るのではない。偶然の重なりを運命であると私たちは感じるし、不吉なものとして予感することもある。私は前にこう書いた。

人というのはどこかの時点で、死というものに強い畏怖の念を持ったのだと思う。有限な存在として、「死ぬべくして生きている」存在としての知覚が、「宗教」というものの最初の萌芽がそこにあるのではないかとぼんやり思っている。宗教の本質とは結局の所「人間」であり、その特殊な本質とはそのまま「人間の特殊な」本質なのではないだろうか。その意味で宗教とは人間学でもあり、それが共同体や集団として存在するのであるならある意味では社会学でもある…とも思ってみる。

まず最初に、「畏怖の念」があった。それは神というものではなくて、「死」というものへの、より具体的にら「いつか必ず死ぬ存在」としての「私」、「我々」という知覚があった。それが最初の「体験」であったのではないか。そこには、ある種の「聖なる」ものがある。死ぬべくして、生まれついているとはどのようなものであるのかを、人はそこで初めて考え始めたといえる。

死ぬまでの間、あるいは死んでからのその先に私たちはどこへ行けるのか、また行きたいのか。その答えは、合理的な世界、あるがままに体験知覚される世界の刺激の中には見出されない(見出せない)ものである。

人間の特殊な本質とは、この体験と死の自覚というものであると私は思う。それはやがて神となり、宗教となっていくのではあるまいか……。

この不安、畏怖の念は私たちの存在の根本的なものであると私は思う。これは「癒やしようのないもの」、ある種の病理であり宿命的なものであると私は思う。だが、私たちは普段この根本的な不安や畏怖の念を自覚することはそうない。それはフロイトが言う「エス(超自我)」のようなもので、これは「宗教」という鏡を通して呼び覚まされるものなのではないか。この不安は確かに病的なものを含むが、同時に本質的なものでもある。これが私たちの不安定な生と、絶対的な運命として存在する死を決定づけているともいえる。そうであるから、私たちは不確かなものが溢れる世界の中で、皮肉にも確固たるものとして存在するこの不安感を手繰り寄せるために、「宗教(神)」を求めるのではないかとこの下書きを描いてみる。

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