障がいと社会

先日、NHKの「クローズアップ現代+」の「息子を檻に監禁父の独白」を見た。

これは重度の知的障がいの息子を持つ父親が、25年に渡って息子を監禁した事件だ。父親は逮捕され、息子は現在福祉施設で生活しているそうだ。監禁に至った経緯は、息子の家庭内暴力で他の子どもたちを噛むというところから始まって、手がつけられなくなったという。重度の知的障がいであるから、「やるな!」といったところで通じない。当初はデイサービスや福祉施設への通所や入所も考え役所にも相談に行ったが、結局受け入れてもらえず父親が仕事へ出かける日中に犬用の檻の中に監禁するところから、始まった。そのうち監禁する時間は増え、最終的には床にペット用の尿パットを敷いた檻の上に1日のほとんどを息子は過ごすようになる。25年に渡る監禁で息子は両眼を失明した。行政の人間も監禁の実態を認識していたが、専門の窓口や機関に繋ぐことはされず結果として監禁は続いた……というものだ。



父親のやったことは、確かに字面だけを眺めれば「人権侵害」であり「犯罪」となるだろう。

私は複雑な思いでこの番組を見た。私も重度の身体障がい者の入所施設で働いている。日常的に様々な障がい者と接していると、世間で言うような「障がい者の人権」や「虐待」、「人権侵害」というものの「綺麗事さ、他人事さ」がよく分かる。語弊を恐れずに言えば「手のつけられない」障がい者はいる。力の加減ができない、知らない障がい者は存在している。最近も18歳の知的障がい者が、男性職員に暴行して死なせた事件があるが、「あぁ、あるだろうな」とまず思った。今でさえ、障がい者やその人権、家族の置かれた環境に目は向いているものの20年以上前だと、全くその概念さえなかっただろうと思う。

家庭のことは家庭内で済ませるべき、親は子の養育を最後まですべきといった考えが当たり前の中にあって、言っても分からない知的障がいの息子を檻に閉じ込める以外には選択のしようがなかったのではないかと感じる。

高齢の女性の障がい者でも、爪をたててつねられればこちらの腕に爪痕や痣がつくほどの力は出る。それが10代そこそこの男の子なら……と思えば父親の葛藤は想像できる。今回の番組で、最も私がぞっとしたのは25年も息子を監禁した父親でも、実の父親に監禁を選ばせるほど暴力を振るっていた息子でもなく、当時家庭訪問をしていた役所の人間だ。裁判のために証言した録音テープがあるのだが、そこで「はっきり言って覚えてませんね。当時同じようなことをしている家庭はたくさんありましたから」と半笑いで言っているのだ。あまりの「他人事さ、余所事さ」に私はぞっとした。

いわゆる座敷牢という形で障がいを持った親族を家庭内で監禁していた事例は、明るみになっていないだけでたくさんあっただろうと私も思う。最近は、車椅子につけられた保護ベルトでさえも「身体拘束」にあたるのではないかと喧しい世の中であるから、こうした事例は事件化されるだけのことだ。

番組の中で、ある活動家の人が「こうした事件があると安易に父親の方に同情的な意見が出てくる。だがそれで終わらせてはいけない」という趣旨の発言をしていた。個人的には違和感を覚える。確かに父親のしたことは人権侵害だろうし、犯罪だろう。だが、監禁という選択をする前に、行政や福祉は何かできなかったのか。実態を知っていながらもどこにも繋ぐこともされなかった家庭がどのような選択を取ることになるのかは知っていたはずなのに、何もされなかった行政…広くは社会は不問にされるべき存在なのだろうか。

私は実際に福祉の現場にいるけれども、この父親に「同情する」。やったことの選択は間違っていたかもしれないし、罪を償うべきかもしれない。だが、苦しかっただろうと思う。せめて、自分が家を空けている時だけでも、息子を預かってくれるところはないだろうか。父親はそんな思いで、行政や福祉施設を回ったという。

結局は家庭内で檻の中に監禁するしかなかった現実は、個人だけの選択のみでなされたわけではないと思う。息子を監禁し始めた頃は週に2回は外に連れ出したりもしていたそうだ。

「たった1人の子どものために、他の5人(だったと思う)の子どもの人生を狂わせるわけにはいかないでしょ」

父親はこんな風に独白していた。賛否両論あるだろうが、家庭内の問題、一個人の「親としての選択のまずさ」のみに問題を纏めるのはあまりにも酷だと私は思う。

父親は加害者であるが、同時に被害者でもあると思う。もちろん最も弱い立場にいた息子が1番の被害者であることには変わりない。



「障がい者」をどのように受容するか。障がい者も、1人の尊厳ある人間だ。人間であるのだから、様々な人がいる。人懐っこい人、認知症の進んだ人、依存心の強い人、障がいそのものに甘えている人……本当に色々なひとがいる。それは健常者の側だって同じことだ。

障がいの持つ様々な特性…例えば今回のような暴力性という「暗部」も含めて行政や福祉だけでなく社会全体がもう少し「自己責任論」から脱して向き合う必要があると思う。

現代は誰だって、障がい者になり得る。海外旅行に何度も行くような人が、まだ若いうちにくも膜下出血で倒れ、寝たきりで胃ろうになった人もいる。そういう人たちを日常的に見ていると、障がい者健常者という括りもそれほど強固なものでないことが分かる。

自己責任を自分の口から言えるうちはいい。確かに、自分のことは自分で責任を持ってできることは理想だし幸せなことだと思う。だがそれは当たり前ではない。高齢化社会を迎えてなお、いつまでそれが叶うのか。障がいを負わなくても、いつか必ず誰かの手を必要とした時に、どうにもならなくなってしまったら私たちは社会の中でどのような選択を取るだろうか。

あの父親の選んだ「監禁」というのは、特殊なことではない。他人事、余所事、自己責任の意識の元で生み出された結果であり、私はそういう土壌は今の社会の中にも十分すぎるほど存在していると思う。

障がいとは、社会的な視点から捉えれば知能の低さや四肢の欠損のみを指すのではない。知的遅れや四肢の欠損などを「障がい」と見なす側にこそ、弱さがあり、「障がい」があるのだ(イギリスではこれを「障がいの社会モデル」とよぶ)。そう思えば、社会の中にこそ根深い「障がい」が存在していると私は思った。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る