批判・批評について

ふと、批判と批判とはなんだろうと思ってみた。きっかけは些細なもので作品や表現上の瑕疵とは離れた(と私自身は思っている)私の性格や人格に関する一方的な言葉を送られたからだ。前半部分は別にどうとも思わない「批判・批評」に類するものだったのに、後半になるといきなり「だからあなたは〇〇な方なのでしょうね」と結ばれて、なぜそう飛ぶのだろうかと不思議に思っている。もう少し相手の立場に立って気持ちを考えてみるなら、作られた作品や表現というのは、作者という人格やら性格というものが生み出すのであるから作品や表現が「批判・批評」の俎上に乗るのと同じように乗せられても構わない(?)ものなのかもしれない。

なんて書かれたかは面倒なのでここには書かないけれど、私は個人的に作品と作者は分けて考えるのが望ましいと思っている。例外は、例えば作者が殺人犯で出す書籍が事件のことについて書いたものである、というようなものでない限りは基本的に作品・作者は別であると考える。



私は、作品や表現上の瑕疵についてはいくらでも「批判・批評」してもらって構わないと思う。素人の書いたものだからそう批判といっても来るわけではないけれど、自分の見ていた景色が他の誰かの目を通して変わっていくのを感じるのはとても面白い。

だが、それを書いた「私」という部分について出された作品や文章から勝手に一方的にネガティヴに推測されて「〇〇なのでしょうね」とされるのは正直不愉快なところだ。

あなたも人間なら、こちらも同じ人間ですよと言いたくなる。文字の向こう側には同じように人間がいて、なんでも耐えるサンドバックがいるわけではないことをそういう言葉を見るたびに思う。

私事だけれど、ここ数日匿名でメッセージを送れる「マシュマロ」を使った要領を得ないメッセージが立て続けに送られてきてげんなりしている。そのことが、「批判・批評」について考えるきっかけになった。



ともあれ、今まで安易に「批判・批評」と一緒に書いてきたがその言葉の意味や範囲を私はちゃんと知っているのだろうか?

…ちょっと怪しいなぁ、というところで調べてみた。



批判:「デジタル大辞泉」より

1 物事に検討を加えて、判定・評価すること。


2 人の言動・仕事などの誤りや欠点を指摘し、正すべきであるとして論じること。


3 哲学で、認識・学説の基盤を原理的に研究し、その成立する条件などを明らかにすること。



「大辞林第3版」より

① 物事の可否に検討を加え、評価・判定すること。


② 誤っている点やよくない点を指摘し、あげつらうこと。


③ 〘哲〙 〔ドイツ Kritik〕 人間の知識や思想・行為などについて、その意味内容の成立する基礎を把握することにより、その起源・妥当性・限界などを明らかにすること。



大体同じような内容なのだけれど、「大辞林第3版」の②に出てくる「あげつらう」という箇所で、批判というのは多少なり主観や感情に拠る部分もある?と思った。私の個人的な語感だと、どちらかといえば批判の方が批評に比べて、幾分か感情の混ざる度合いが高いように思っていた。批判に対する「ニッポニカ」の解説が意外と面白い。



ニッポニカの解説

通常の用法においては、「批評」と同じく、人間の行為あるいは作品の価値を判定することをいう。西欧語では、「批判」も「批評」も、等しくギリシア語の「分割する」を意味する語クリネイン(krinein)に由来する語によって表されるが、日本語の場合には、「批判」は哲学ないし文献学上の、「批評」は主として文学・芸術上の用語として使い分けられるのが一般的である。



ちなみに「批判」を文献上、哲学上初めて大々的に使用したのはカントだそうだ。西欧では批判も批評も言葉の意味としては大差ないらしい。日本語で使い分けられるというのは初めて知った。この辺りはなんとなく、大衆文芸と純文学とかで文芸作品を分けたりするのを思い出す。日本人は何かとカテゴライズしたりするのが好きなのだろうか。

さて、次は批評について見ていきたい。



批評:「デジタル大辞泉」より

物事の是非・善悪・正邪などを指摘して、自分の評価を述べること。


「大辞林第3版」より

事物の善悪・優劣・是非などについて考え、評価すること。



意味としては批判とそう変わるところはない。共通することは、批判・批評ともに判断と評価を伴うものであり、その対象は人の作り出したもの、あらゆるものに及ぶだろうことである。「ニッポニカ」の解説が面白かったのでまた載せたい。



「ニッポニカ」の解説

事物の美点や欠点をあげて、その価値を検討、評価すること。狭義に芸術批評、ことに文芸批評をさすことも多いが、広義には政治、経済、科学、スポーツから日常生活に至るまで、人間営為のすべてを対象とする。その文章化されたものを評論という。

批評の基本は判断であり、判断は事実判断から価値判断へ、換言すれば真偽・黒白の判断から優劣・長短の判断へと向かう。前者に傾くと「客観批評」となり、後者に傾くと「主観批評」となるが、主観批評は傾きすぎれば独断となる。客観批評と似て非なるものに「裁断批評」があり、これは外的な基準を設け、それに照らして判断する批評方法である。



ふと思ったのだけれど、文芸批評の難しさとはどちらかといえば主観の方に傾くきらいがあるからではないか。実際に書かれたもの(事実)の是非は、対象が言語という受け手によって無限の感じ方があるものであるがゆえに、論じる上では価値の方に馴染みが深くなる。動かし難い事実よりも、個人の内面でどのように感じたのかというのに焦点が当たる。これはこれで悪いことではない。だが、行き過ぎれば「独断」になる。

この辺の「主観批評」と「独断」のさじ加減が難しいと思った。私は暫定的に、双方向可能であるのが、「主観批評」で、一方通行なのが「独断批評」としてみる。



私は頭が悪いので、批判や批評といった高度なことはできない。せいぜいが「感想」を送ることくらいである。批判や批評は、小説を書く人の間では割とセンシティブなテーマなようで、その辺も興味深かった。私は所詮素人の作品にそう反応なんてあるわけがないし、基本誰も見ないだろうことを前提にして書いているから、あまり意識したことはなかった。思わぬ好意というのは嬉しいけれど、思わぬ悪意というのは中々やっかいなものだなと思う。まぁでもこれまで興味のなかったテーマを考えることができたし、エッセイも一本あがったので良しとしよう。


匿名の誰かさん、ありがとう。

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