クソ仕事なるもの

ニューズウィーク8月14・21夏季合併号を読んだ。個人的に面白かったのが、サミュエル・アールの「あなたの仕事には意味がない」という小論だ。タイトルにもあるのだが、仕事には「おバカ仕事」と「クソ仕事」がある。これは、人類学者のデービッド・グレイバーが「おバカ仕事の理論」の中で主張しているものだ。

一般に、経済が成長し技術が進歩していけば人はあまり働かなくてもよくなるはず……であった。だが「経済活動が無意味な仕事を生み出す巨大エンジン」となって、やるべき仕事が減るほどに人はより長く働くようになっていくとグレイバーは書く。そして、この「無駄な仕事」こそが「おバカ仕事(bullshit jobs)」である。だがこの「おバカ仕事」は「クソ仕事(shit job s)」とは違う。おバカ仕事は基本的に社会に貢献していない仕事を指すが、クソ仕事とは社会にとって必要なのに報われない仕事を指している。



「誰かにとって必要な仕事ほど、低賃金」。

現代の日本では、介護職に代表されるような社会福祉職が真っ先に思い浮かぶ。社会や人々にとってなくてはならないものなのに、その仕事をしている人たちのインセンティブは低い。

このような現実は大いに問題だ。だが、より深刻なのは多くの人々が「自分の仕事には社会的有用性や価値がないと確信しながら働き続けていること」ではないか。グレイバーはこれを「共有される魂の傷」とも表現する。



仕事とは、なんだろうか。

プライベートと仕事どちらを優先するか、との問いに「プライベート」の割合が「仕事」の割合を初めて上回ったのはもう20年以上も前だったように記憶している。かつての「企業戦士・モーレツ社員」は、現代では「社畜」と揶揄される。人は仕事のために生きるのではない、ということだ。

古くはイギリスの産業革命から、社会は巨大な工場となり人々の労働は奪われると言われてきた。だが、社会が高度に、そして技術が進歩するにつれて新しい仕事、無駄な仕事は増え続けてきたということだろう。

私たちは、人間と機械の境界の曖昧な世界を生きている。人間にしかできないことや能力とはなにか、そして労働の意味とは……という部分へと矛盾がこの「おバカ仕事・クソ仕事」という一見軽く粗野で単純な造語に含まれているような気がした。



私にとって仕事は、人生の中においてそれほど大切なものではない。心や命を蝕んでまで続けるほどのものではないし、そうなる前に「逃げる」ものだと思っている。やはり最も重視するものはプライベートであり、仕事以外の自分の時間とそこでやることである。貧しさの定義は、一概に金銭の多寡のみで測ることはできない。

「貨幣がなければ生活することができない社会の中において、十分な貨幣を持たないこと」を「貧困」としているにすぎない。貨幣がなければ生活できないのだから、その多寡が問題になるのは当たり前だ。だが見方を変えれば、貨幣の存在しない社会やコミュニティの中においてはその貧困の定義だって異なる。

私が働くのは、この社会が「働くことによって得られた金銭を元にして生活することができる」ような社会であるからだ。それ以上でもそれ以下でもない。

今している仕事は嫌いではない。だが、間違いなく「クソ仕事」である。

「誰かにとってなくてはならない仕事ほど報われない、低賃金」な仕事だ。

一方で、高賃金だが社会になんの貢献もしていない仕事が存在するのも皮肉な事実である(政治家のわけのわからない活動なんか良い例かもしれない)。



人は行動や事象に価値や価値観を付与する生き物だ。労働においても、「やりがい」や「搾取」など様々な価値を付与する。

現代は人がどのような存在かを改めて問われている時代ともいえる。人と機械の境界は次第に曖昧になっていく。そして、人による労働と機械による労働も同じように問われていくのだ。

そうした最中にあって、「仕事」の現在、そして私たちにとっての「仕事」とはなんなのかを少しだけ考えてみたのだ。

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