フロイト「自我論集」より、自我とエス

心的なものを意識的なものと、無意識的なものに区別することは精神分析において大前提のことである。こうした区別に基づくことにより心的な生において見られる様々な病理学的プロセスを理解し、科学においてもこれを分析することができる。

「意識されている」とは、最も直接的て確実な知覚に依拠する。だが心的な要素、表象などは一般的に意識されない。これを私たちは、「表象が潜在的なものであった、いつでも意識できる状態にあった」とも言えるが、同時に「表象が無意識的であった」とも言える。無意識とは、「潜在的に、意識できる」状態と一致しているのである。


私たちは、経験の処理を通して無意識という概念に到達したがこれは経験において心的な動力学がある役割を果たしていることを示している。非常に強力な心的プロセス及び表象が意識されない領域において存在しているのだ。これは心的な生にあらゆる効果を及ぼすことができる。このような表象が意識的なものになり得ないのは、一定の力が意識的なものにすることを妨げるからである。こうした力が働かなければ、表象は意識的なものとなる。

表象が意識的なものとなる以前の状態は抑圧と呼ばれる。精神分析において、抑圧の理論から無意識という概念を得ることができる。「抑圧されたもの」は無意識の典型である。

だがこの無意識的なものには二種類ある。「潜在的ではあるが、意識化することが可能なもの」と「抑圧され、それ自体においては意識化することができないもの」とである。


また潜在的に無意識的なものを「前意識的なもの」と言い、本来の「無意識的なもの」という名称は、無意識的に抑圧されたものに限定をしている。こうして、三つの用語が確定した。


意識的なもの

前意識的なもの

無意識的なもの


以上である。

意識的なものと無意識的なものの区別は、最終的には知覚の区別である。だが、精神分析の作業を進めていくとこうした区別が不適切であり、不十分であることがわかる。フロイトは、心的なプロセスの一貫性ある組織を「自我」と呼んでいる。自我に意識が結びつき、これが外界に興奮を排出する経路を支配している。抑圧も自我から生まれる。

無意識的なものは抑圧されたもの、と先述したがすべての抑圧されたものが無意識のものでないこともここで認める必要がある。自我の一部が、自我にとって重要な部分が無意識的なものであり、それは確実に無意識的なものである。ここで触れる無意識は、前意識のようなものではない。そうでなければ無意識が意識的なものとならずに活動できる理由が説明できないのである。ここで第三の無意識、つまり「抑圧されない無意識」について想定する必要も出てくる。このように、無意識とは多義的な性質を備えているものなのである。


意識とは、心的装置の「表面」である。そして、エスとは未知で無意識的なものである。また自我はその表面にのっている。自我からその核として知覚システムが形成されていく。自我はエスの全体を覆うようなものではなく、知覚システムが自我の上にのっている範囲に限って、自我はエスを覆っているのである。自我とエスに明確な境界はなく、自我は下の方でエスと合流している。抑圧されたものは、抑圧抵抗によって自我と明確に区別され、抑圧されたものはエスを通じて自我と連絡することがある。自我はエスの一部である。情熱を代表するエスに対し、自我は理性や分別を代表している。


自我が知覚システムの影響によって修正されるエスの一部であり、心的なものにおいて外界を代表するに過ぎないものであれば、単純である。だが、自我の中において差別化が行われ、「自我理想」または「超自我」と呼ばれる部分が存在する。

また超自我はエスの最初の対象選択の残滓に過ぎないものではなく、これに対する強力な反動形成という意味も持つ。自我と超自我の関係は、「お前は〜であらねばならない」という勧告のみならず「お前は〜のようにあってはならない」という禁止も含む。自我には多くのことが禁止されたままなのである。超自我のこうした二面性は、超自我がエディプス・コンプレックスの抑圧を行うという事実から生まれる。超自我は父の性格を得ることにより、そしてエディプス・コンプレックスが強いほど抑圧が急速に行われるほど、後に超自我は良心として無意識的な罪責感として強力に自我を支配することになる。


ここまで見てきて、超自我を改めて再検討してみると、超自我には二つの重要な生物学的な要因によって生まれることがわかる。


1.人間の子供時代における「よるべなさ」と依存性。


2.エディプス・コンプレックス。


このようなエディプス・コンプレックスは、潜在期のためにリビドーの発展が中断され、人間の性的生活が「二度始まる」ことによって生まれる。精神分析の仮説では氷河期を通じて強制された文化的な発展の遺産であるともされている。超自我が自我から分化するのは偶然ではなく、個人と人間という種の発展のために重要な特徴を持つのである。超自我は、エディプス・コンプレックスの遺産であり、エスの強力な興奮とリビドーの運命を表現するものなのだ。自我はエディプス・コンプレックスを制御すると同時に、自らエスに服してもいる。自我は外界を代表するものであるが、超自我は内界、エスを代弁するものとして自我と対立している。


個人の成長が進むにつれて、教師と権威を持つ人々が父の役割を引き受けるようになる。こうした人々による命令と禁止が超自我の中に強く残り、「良心」として道徳的な検閲を行うようになる。良心の要求と自我の実際の行為の緊張を、罪責感として感じられる。社会的な感情は、共通の自我理想に基づく他者との同一化によって生まれる。

またエスは外界を代表する自我なしには、外部の運命を経験することはできない。繰り返しフロイトが述べているように、自我とエスは固定して考えてはならない。自我とは、エスが特別に差異化された部分に過ぎない。


さて、エスと同じように自我も欲動の作用を受ける。欲動には、「性欲動」と「エロス」という二種類のものが存在する。この欲動には妨げられない性欲動と、目標への到達を妨げられない、昇華された欲動興奮が含まれるがそれのみならず自己保存欲動も含まれている。これらは自我による欲動である。

自我の大部分は同一化によって形成され、この同一化はエスが放棄した備給を引き継ぐものである。この同一化の最初のものは、常に自我に対し特別な審級として振る舞い超自我として自我と対立する。だが強化された自我は同一化の影響に対して抵抗を強める傾向がある。

ここから、以下の二点が指摘できる。


1.超自我は、自我がまだ弱かった時期に起こる最初の同一化であること。


2.超自我はエディプス・コンプレックスを引き継いだものであり、自我の中に強力な対象を導入したこと。


超自我と自我の関係は、幼児期の初期の性段階と思春期以降の性生活の関係に匹敵するものだ。また超自我が父親コンプレックスを起源とすることによって得た性格は一生を通じて失われることはなく、自我に対立し支配する能力を保つことになる。

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