フロイト「自我論集」より、欲動とその運命

最近心理学を勉強しようとおもって、フロイトを読み始めている。世間で言われているようなフロイト用語や概念は心理学や彼の構築した概念を極端に単純にしたものがあり、誤解も多い。フロイトの提唱した無意識の概念は「一大ブーム」へとその後の社会を巻き込んでいくが、ここで改めてフロイト自身の理論や論文にあたりたいとおもっている。

手始めに、ちくま学芸文庫より出版されている竹田青嗣編 中山元訳「S.フロイト 自我論集」より興味深かった箇所についてまとめてみよう。



フロイト曰く、心理学の分野においてめ科学の場合と同じように「必要不可欠でありながら<約束ごと>に基づき、暫定的で、かなり不明確な基礎概念がある」。

「欲動」という概念がそれだ。欲動は人間の心と身体の境界に存在する動力学的なプロセスであり、欲動によって人間は目標へと駆り立てられる。生理学の観点から欲動を検討すると、刺激と反射弓の図式の概念があてられる。神経物質に外部から加えられた刺激は、行動によって外部へと出されて行く。このように欲動を刺激の概念として、心的な刺激の一種であると考えることについては問題ない。だが、欲動そのものを心的な刺激と同一とみなすことは問題がある。心的な刺激には、生理的な刺激のようにふるまう刺激など、欲動以外のものもあるからだ。

刺激には二種類あるのだ。欲動刺激と、その他の生理的な刺激である。フロイトは両者の違いを以下のように述べている。



「第一に、欲動刺激は外界からではなく、有機体そのものの内部から生まれる。このために欲動刺激は心に対して異なった影響を及ぼし、これを除去するために異なる行為を必要とする。さらに、他のすべての刺激は、単一の衝動として作用することを本質的な特徴とする。このため刺激は、単一の合目的な行為によって除去することができる。…これに対して欲動は瞬間的な衝撃力のように機能することはなく、恒常的な力として機能するものである」



また欲動刺激は「欲求」と呼ぶこともできる。欲動は精神的なものと、身体的なものの境界概念である。フロイトは欲動を、「体内から発して精神に到達する刺激の心的代表であり、精神的なものが身体的なものと結びついているために、精神的なものに要求される仕事の大きさの尺度とみられる」としている。

欲動の一生とは、「対立物への逆転→自己自身への方向転換→抑圧→昇華」をたどる。フロイトは欲動のこうした発展と一生を「運命」と呼んでいる。本論文でフロイトは対立物への逆転と自己自身への方向転換について詳述している。


対立物への逆転は、二つの異なるプロセスが存在することが明らかになる。欲動の方向が能動性から受動性に転換されるプロセスと、欲動の内容が逆転するプロセスである。これは、たとえばサディズムとマゾヒズム、窃視症と露出症の対立が挙げられる。ここで転換されるのは欲動の目標である。苦痛を与えることと、覗くこと、苦痛を与えられることと、見られることが目標であり、それらが逆転するのである。


自己自身への方向転換については、マゾヒズムとは自己へ向けられたサディズムであり、露出症は自己の身体を覗くことが含まれていることを考慮する必要がある。こうした例から、自己自身への方向転換と、能動性から受動性への転換が合流したり同時に発生したりするものであることを押さえておく必要がある。

発展のそれぞれの段階において、欲動の動きにおいて対立物がこのように観察されることは強調する価値がある。スイスの精神医学者ブロイラーはこれを「アンビヴァレンツ」という用語で呼んだ。

アンビヴァレンツの大きさは、個人や集団、人種によって変動する。フロイトは現代人は欲動のアンビヴァレンツが大きいとしている。古代人の方が欲動生活において能動的な状態を保持していることが大きかったことがその理由である。


フロイトは、性欲動が自体愛的に満足される自我の早期の発展段階を、「ナルシシズム」と呼んでいる。これは窃視欲動の前段階が、窃視の欲望が自らの身体へ向けられ、対象とするものをナルシシズムに属するものとし、ナルシシズム的な形成との考えからきている。ここから能動的な窃視欲動が発生し、ナルシシズムからこの欲動は離れていく。受動的な窃視欲動は反対にナルシシズム的な対象を手放そうとしない。

ここから一般的な洞察をするなら、欲動の自己自身への方向転換、能動から受動への転換というような「欲動の運命」は、自我のナルシシズム的な体制に依存するものである。


欲動の内容が反対物へと転換されるのが観察されるのは愛が憎しみに転換される場合だけである。愛には三つの対立関係がある。愛⇔憎しみの対立関係の他にも、愛すること⇔愛されることの対立があり、愛と憎しみの関係そのものに対する無関心や冷淡さがある。

このような「三つの対極性」は次のようにまとめられる。


「主体(自我)⇔対象(外界)」

「快⇔不快」

「能動⇔受動」


こうした心の三つの対極性は、相互に関連しあって存在している。心には原状況というようなものが存在き、ここにおいては二つの対極性が重なり合っている。原初的な状況において自我は欲動によって備給され、欲動を部分的に満足されている。この状況がナルシシズムである。そして、このような欲動の満たし方を自体愛的という。そしてナルシシズム、自体愛とは外界に対して無関心であり、「愛」について最初の対立関係がここにある。

自我は自体愛的に存在している限りは外界を必要としない。だが自己保存欲動の経験により外界から対象を獲得するようになるのだ。この間に、内的な欲動の刺激を不快なものと感じざるを得なくなる。快楽元素の元で、自我は新たな発達を遂げていくのである。自我は提供された対象が快感である限りは、内部に取り込み不快なものであれば外部に追い出していく。このような自我の特徴…つまり快感という特性を基準とする純化した自我を「快感自我」と呼ぶ。


次に愛の第二の対立関係である憎しみが形成されるようになる。純粋なナルシシズム的な段階が解消され、対象段階に進むと快、不快は対象と自我の関係を意味するようになる。対象が快の感覚の元になると運動傾向が生じ、対象を自我に近づけて同化しようとする。これを快の魅力と呼び、その場合私たちは対象を「愛する」というが、逆の場合は反発を対象に感じ、「憎む」。この憎しみは、時として攻撃や抹殺しようとする意図まで高まることがある。


ここまで見てくると、欲動の動きが欲動の動きが心的な生を支配する三つの主要な対極性の影響を受けることにおいて、欲動の運命が発生することが分かる。能動性⇔受動性の対立は生物学的な対極性であり、自我⇔外界の対立は現実的な対極性であり、快⇔不快の対立は経済論的な対極性であるとフロイトは指摘している。

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