Identity Shake -揺らめき-
最近、私は「人間」というのは矛盾して不合理な「揺らめき」のある存在なのではないかと考えている。
そうした「揺らめき」はテクノロジーの様々な刺激の中でどう現れ、変化していくのかが私の一番の関心事だ。
私は技術そのものにはあまり興味がない。Aという技術が社会の中に存在することによって、人々の意識がどのように変化していくのか、また変化させたいのか、という点に最も関心がある。
自意識とテクノロジー、そして社会との関係についてまだ私なりの答えは見つけられていない。だが偶然に手に取った「WIRED」の記事に興味深いことが書いてあったので、それを参考に少し考えをまとめてみる。
以下が記事のざっくり要約である。
まずアイデンティティというのは相手あってのものであり、それ故状況や文脈としての社会環境に依存する。21世紀に入り、イノベーションが賞賛され社会環境が変動することは当たり前になった。ITとグローバリゼーションが人間の内面と外面から、「アイデンティティのよって立つ地平」を揺るがせ、分裂させている。
だがアイデンティティとは免疫系のようなものであり、自己の一部として認識できないものを区別して排除する動きをもつ。その都度改めて内部の自己を確立していく。その境界は常に振動し続けている。
つまり、ITやグローバリゼーション、イノベーションという要素はその振動を起こす「新たな装い」といえる。
またこうした情報環境を説明する概念のひとつに「拡張された心」という議論がある。心=マインドは脳だけでなく自らの身体や環境にまで広がっているという考えだ。
人間の存在はマイクロバイオーム (身体に含まれる微生物群) という概念の登場以降、曖昧なものになりつつある。自分の身体であるのに、自分の意思に沿わない部分がある。だがそうした部分なしでは「私」という存在の基本的な機能すら実現できない。
このような「ままならない」部分ばかりから構成されるのが人間、「私」である。こうした理解の結果、自分の内外の境界は線で隔てられるのではなく、グラデーションを描く「緩衝帯」となる。
こうした現実の中で行われるアイデンティティの境界はその人自身の意志と社会環境の慣習による。その源泉の一つがiPhoneに代表されるようなテクノロジーの働き等である。
「私」を構成するものは物理的な身体だけでなく、マイクロバイオームや拡張された心など様々な人工物を含むものとなっているのだ。
以上が大体の要約である。
ふと考えてみると、アイデンティティ…「私」という存在は細胞が分裂するように動いたり、増えたり減ったり複雑な働きをしていると感じる。
それはあるときはパッチワークのようにバラバラな要素の寄せ集めにもなるし、サラダボウルのようにそれぞれの要素がバランスよく主張するときもある。それを分ける刺激というのは現代ではあり過ぎるほど、ある。
私はインターネット上、最近はTwitterをよく見ているが、そこでの自己主張の仕方というのが興味深い。ああいった「自分」の現れというのは、人間の本質からいくと何も特別なものではないと思う。だが、インターネットという「フィルター」、そして世界に開かれているという「認識」がそういう普遍的な「現れ」にどう変化を与えるのか面白く見ている。
現代の中で「自己」というのはある意味では巨大化していると言える。だが一方では掌に収まるほど、矮小な存在にもなっている。
インターネットやSNSは私的自己が現れ易いが故に、そうした「閉じこもったミニマムな自己」を垣間見ることができる。
もう少し俯瞰して見ると、結局私たちの周りに溢れる様々な技術というのはどこに向かい、私たちはどこに「向かいたい」と思っているのだろうかと感じる。
そして、こうした問いの先にあるのはどこに「向かうことができる」のかというものである。そして、最終的にはどこに「向かうべき」なのかという視点が浮かんでくる。
こうした社会や文明の動きと、技術の進捗そして「私」という要素の関係について明確な答えというのを今の私は持っていない。
ただぼんやりと、何かが変わりつつありそれは物理的なものを飛び越え、「私」という存在そのものも変えつつあるという意識だけである。
ここでは様々なものが崩れてくる。これまで強固に存在してきた神話や成功のロールモデル、そして「理性ある一貫したアイデンティティ」というものはほとんど意味を持たなくなる。
「意味」そのものを、「私」の中で再構築することが喉元に突きつけられている。そして、現実のSNSやiPhone、GoogleやAmazonに代表される社会環境や刺激というのはそういったものを常に「揺さぶる」し、一方では「忘れさせて」くれる。
私は常々、「思想なき技術革新」というのは私たちを幸せにはしないと思っている。技術の進歩と私たちの倫理や文明は比例しないと思っている。
「〜することができる」と「〜すべきかどうか」というのは実は全く異なる視点と現実を与える。
こうした点と、曖昧で揺らめきのあるアイデンティティを絡めてみると、やはりまだまだ私の中ではまとまらない。
そうした点もまた「私」であり、アイデンティティの一つの側面なのである。
だが社会そのものが「揺らいでいる」からこそ、こうしたことを考える意義があり、その中に新たな「意味」があることを今は信じてみたいと思う。
答えというのは恐らくとてもシンプルであるが故に、分かりにくく感じてしまうのではないだろうか。
人間の内側にある多くのものは、牡蠣に似ている。吐き気を催させ、ぬるぬるして掴みにくい。
ニーチェ「ツァラトゥストラ」より
内容のない思考は空虚であり、概念を欠いた直感は盲目である。
カント「純粋理性批判」より
人間は精神である。しかし、精神とは何であるか?精神とは自己である。しかし、自己とはなんであるか?自己とは一つの関係、その関係それ自身に関係する関係である。
意識が増せばそれだけ意志が増し、意志が増せばそれだけ自己が増す。意志を少しも持たないような人間は自己ではない。しかし、人間は意志を持つことが多ければ多いほど、それだけまた多くの自己意識を持つのである。
キルケゴール「死に至る病」より
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