孤独について
少し前にハフィントンポストでちょっと面白い取り組みを目にした。
Twitter等でも賛否両論あったようだが、某高校とNPOが協働で週に一度、「図書室カフェ」を開いて「居場所つくり」をしているそうだ。
主催者側の意図としては「教室に居場所がない子たち」に居場所を作ろう、というものらしい。
率直な感想としては「図書室でやることかなぁ」というものだった。新しい居場所を作る、という観点自体は悪いものではないと思う。だがそれをいうのであれば「安心して一人で居られる場所」も同じように守って欲しいと思った。
そもそも、孤立や孤独というのは単に「友達の数/人と繋がっている数」のみで表すことができるものなのだろうか。そしてさらに原初的な問いとして、「一人でいること、孤独でいること」とは本当に「悪い」ことなのだろうか。
そういった問いかけ無しに推し進められるものは、本当に彼ら彼女たちの「居場所」を作ることになるのだろうか。
非常に大きな疑問を持ったので、この点を地域福祉を研究されている先生にメールで質問をしてみた。
すると結局、福祉や社会政策と呼ばれるものの効用とは如何なるものなのかという点がとてもクリアになった。
同種の取り組みとしては最近「こども食堂」が挙げられる。
こども食堂の持っている社会的な役割というのは単に「欠食児や貧困世帯への食支援」ではない。
社会の網の目=人や地域の繋がり、が粗くなっていき、また自信や肯定感が子供たちの中で失われていく中にあって気付かされるからだ。
「色んなことをやってる大人がいる」「失敗したっていくらでもやり直しができる」…こうした「気づき」があればこそ「こども食堂」というのは社会の中で生きてくる。
以上のようなことを、分かりやすく教えて頂いた。
また原点に立ち返って、「孤独」というものについて考えていきたい。
先述したが、私は孤独は単に友達の数で表すほど単純なものではないと思う。個人的には友達もいるし、孤立しているわけではないのに、どこかで疎外感や満たされない思いを抱いてしまう…そういったものが「孤独」ではないのかなと思う。
一人でいる=孤独というのは、表面的な捉え方に過ぎないと思う。
それに私は孤独というものについて、そこまでネガティヴには捉えていない。孤独な時間というのは、自分自身と向き合う時間でもあるし、雑音のない瞬間だ。現代は簡単に「繋がることができる」が故に、「この静かな瞬間」というのは貴重なものだと思っている。
最近三島由紀夫の未公開インタビュー録を読んでみたが、そこから浮かび上がってくるのは彼もまた「孤独な人」であったという点だった。だがそうであったから、平岡公威という男性は作家「三島由紀夫」になれたともいえるのではないかと思った。
絶え間ない雑音の中だけで、私たちは生き続けることはできないし、何者かになろうとすることも、多分できない。
もちろん、これも私の一面的な私見に過ぎない。
「一人でいたっていいじゃない」というような、子どもの側にはない価値観や勇気ある選択肢を、大人の側が提示することができるか。
それが最も問われているのではないかなと感じる。
大人の側が、子どもの価値観を内面化しているうちは結局何も変わらないのではないだろうか。
自戒も込めて。
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