変なエッセイ求む! 後編

ここまで見てくると、ある芸術 (または表現物)がエロスであるのかそれとも単なる「猥褻物」であるのかは、ろくでなし子氏が言ったように「文脈と雰囲気」に拠るところが大きいと私自身は感じる。その文脈とは、「誰がどのように作り、捉えるのか」この点が、先述もしたように個人の内面に強く依拠するため問題を複雑にする。雰囲気もまた同じである。

春画に関しては、私は猥褻だのなんだのと騒ぎ立てるのは風流を解さない、無粋なことであると思う。当時の資料や実際に春画に書き込まれている文言を眺めると、必ずしも欲情を煽るためだけの「猥褻」なものではなかったことが分かる。むしろ「笑い飛ばす」ものであったことが分かる。いいじゃないか、と私は思う。江戸時代のああいうカラッとした性意識や「笑い」について、現代の倫理観で裁断することは、好ましくないと私は思う。画題がセックスである以上、「棲み分け」は必要かもしれない。だが春画についてこれほど過敏になるにも関わらず、もっと過激な成人漫画が子供たちにとって身近なコンビニや、それ以上に欠かせないものとなっているインターネット上の性表現に関してノータッチなのは論理的ではないし、おかしなことだと感じる。

ここにエロスと猥褻の難しさ、曖昧さがあると思う。またエロスという言葉の裏には芸術があり、猥褻という言葉の裏には低俗な消費物という暗黙裡の言が隠されているように感じてならない。

春画のセンセーショナル (あくまで現代人から見て)な見た目や表現手法のみに焦点を当てて猥褻なもの=低俗な消費物 (であったもの)というように貶めるようなことはすべきでないと私は思う。それは芸術のみならず、文化や歴史を軽んじる危うさもはらんでいると感じる。


一方で、ろくでなし子氏が主張するように「ある特定のメッセージを発信するための媒介として使われるもの」を同じように「芸術」というように扱うのにも私は疑問と違和感を感じる。さて、ここで「芸術」とはなにかを定義する必要があるだろう。なにしろ「変なエッセイ」を書くのが本筋であるから、ここで高尚な定義や広辞苑その他のお堅い定義を引っ張ってくるつもりは毛頭ない。エロスか猥褻か、が性質上個人の内面にある感情に起因するものであるから、それを芸術か否かもまた同じ道程を辿る。よって、私も私なりに思う「芸術」とやらを定義し言葉にしてみよう。


「芸術」とは人や自然の営みを、「なんらか」の形で自己表現したものである。その営みとは多様なものである。よって、必ずしも「美しく」あることは芸術の絶対条件ではない。


私はここで「自己表現」「なんらかの形」「営み」という、あえて抽象的で誤解を招きかねない言葉を用いた。この3つに集約されるような曖昧さ、賛否を含むものも含めて私は「芸術」であると定義してみたい (今のところは!)。


さてこれを踏まえた上で、ろくでなし子氏の主張する「芸術・アート」について考えてみる。私個人としては、ろくでなし子氏の発表する諸々の作品については「芸術」だとは思えないでいる。別に発表するものが女性器であるからというわけではなくて、特定のメッセージを媒介することに重きを置いたものを芸術と同じカテゴリーに入れることに違和感を感じる。

まずこのようにメッセージ性に重きを置き、ある概念を変換させるために発表される行為を私は「自己表現の社会化」と呼んでみることにする。その延長で作られ発表されたものをここでは「社会化された自己作品」としてみようか。ろくでなし子氏の作品はここに私の中では属する。もちろん性差別や偏見も含めて「営み」に属するが、芸術の目的がその「営み」そのものを「自己表現」するのに対して、「社会化された自己作品」は、それに対するメッセージなり二次的なものが優先しているように思える。それは「芸術」とはまた違うものなのではないか。

どちらに優劣があるわけでもない。だが微妙にこの両者は異なっているのではないだろうか。




参考、引用文献:「エロスと『わいせつ』のあいだ」園田寿 臺宏士 著

朝日新書

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