エーリッヒ・フロム「悪について」下


ⅳ.ナルシシズム

フロイトはナルシシズムについて、「外的世界に向けられないリビドーはエゴに向かい、そこからナルシシズムという性質が生まれる」としている。人は成長するに従い、ナルシシズムは消滅していく。だが「リビドーの外的な対象を見つけたあとでも、人間にはある程度のナルシシズムが残っている」。フロイト曰く、個人の発達とは、絶対的なナルシシズムから、客観的な論理的思考と、対象を愛する能力への進展と定義できる。正常な、成熟した人は、完全にはナルシシズムは消滅しないものの、社会的に容認される所まで減少した人である。

ナルシシズムは激しい情動であり、多くの人にとってそれに匹敵するのは性欲か生存欲くらいである。そのため性や生存と同じように、ナルシスティックな情熱も、生物学的機能だと思われるのだ。目的論的に言えば、ナルシシズムが与えられたおかげで、人は生存のために必要なことをできるようになった。そうなると、ナルシシズムは生存に必要であるが脅威にもなるというパラドクスに陥る。ナルシシズムの病理は、合理的判断が歪められることである。この病理を論じるには良性のナルシシズムと悪性のナルシシズムとを区別する必要がある。

良性のナルシシズムは、対象をその人の努力の結果とする。自分の仕事と、自分が作り上げたものへと関心が向かうのだ。良性のナルシシズムはセルフ・チェックによって作動する。

悪性のナルシシズムの場合、対象はその人が持つものになる。自分が成し遂げたものではなく、自分が所有しているものに由来する。誰とも関わる必要がなく、努力も必要ないことから、現実を自分から分離していくことが加速する。結果として、ナルシスティックな中に閉じ込もらざるを得なくなる。

また集団的ナルシシズムにも良性と悪性のものとがある。先述した個人のナルシシズムと同じような現象が見られる。ただ、集団的ナルシシズムのもう一つの社会学的機能は、成員の多くが満足できるだけのものを供給する手段を持たない社会においては、不満を取り除くためには、成員に悪性のナルシスティックな満足を与えるしかなくなることである。経済的、文化的に貧しい人々にとっては、その集団に属しているというプライドだけがまんぞくの源となるからだ。歴史上、構造も大きさも様々違う集団の中で、ナルシスティックな傾向がひろがった。そこでは個人はまだ個ではなく、切り離せない。原初的な絆で血縁集団と繋がっている。

人々の集団は徐々に大きくなっていったが、集団的ナルシシズムはコミュニティの大きさで減退していくとは限らない。またナルシシズムの対象は移行していく。

そして科学は新しいナルシシズムの対象を生み出した。国家や人種、政治的信念、テクノロジーである。

集団的ナルシシズムの病理もまた、客観性と合理的判断の欠如である。集団的ナルシシズムは個人の場合と同じように満足が必要であると。しかし、ナルシスティックに自己肥大化した集団にとって満足の対象となり得るような無力な弱者がいなければ、ナルシシズムは軍事的な征服を望むようになる。

人間の方目的は、このような自己のナルシシズムを克服することである。



ⅴ.近親相姦的共生

母親への固着において、最も深いレベルのものは近親相姦的共生である。過度に退行した形態の共生では、無意識の願望は子宮に戻ることとなる。個としての自分を完全に失い一体となることである。結果としてそれは、生きたいという願望と対立する。

こうした傾向は理性を捻じ曲げ、他人を完全な人間として経験できなくなる。最も原初的な近親相姦的共生とナルシシズムは、ネクロフィリアによって結びつけられる。子宮や過去に帰りたいという願望は、同時に死と破壊の願望である。極端なネクロフィリア、ナルシシズム、近親相姦的共生が混ざり合うと「衰退のシンドローム」となる。このシンドロームは真に悪なものであり、生も成長に背を向け、死と不能を愛好している。だが、ネクロフィリアの反対のバイオフィリア、ナルシシズムの反対の愛、近親相姦的共生の反対の独立と自由の性質は、「成長のシンドローム」に至る。



まとめ

悪とはヒューマニズムの重荷から逃れようとする悲劇的な試みの中で、自分を失うことである。善は私たちの存在を本質へと近づけるが、悪は存在と本質を引き離していくものである。だが人間は善でもあり悪でもある存在である。

悪は人間的であり、退行と人間性の喪失を起こす可能性があるからこそ、私たちの誰の内部にも存在する。それを自覚するほど他人を裁く立場に立てなくなる。人は、非人間的にはなれても人間以外のものになることは決してない。

悪は人間的であり、退行と人間性の喪失を起こす可能性があるからこそ、私たちの誰の内部にも存在する。それを自覚するほど他人を裁く立場に立てなくなる。人は、非人間的にはなれても人間以外のものになることは決してない。

人を規定するのは、私たちが人間として生まれたという事実、そしてそのために選択しなければならないという終わることのない作業である。

生に興味を持てなくなれば、その人が善を選ぶ希望はない。


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