エーリッヒ・フロム「悪について」上


エーリッヒ・フロムの「悪について」が非常に面白かった。

本書のテーマは、人間の破壊能力、ナルシシズム、近親相姦的固着である。それらをフロムは「衰退のシンドローム」と名付け、対して生への愛、独立心、ナルシシズムの克服を「成長のシンドローム」とし論を展開していく。



I.羊か狼か

悪についてを論じる前に、そもそも人間とは善なる存在なのであろうか。人間は羊 (善)であると信じている人は多い。その一方で狼 (悪)だと信じている人もまたいる。

私たちは羊であるのか、狼であるのか、はたまた羊でもあり狼でもあるのか、それとも羊でもなく、狼でもないのだろうか……。人間の性向の中で最も堕落し危険な形態の基本は以下の3点である。


1.死への愛

2.悪性のナルシシズム

3.共生・近親相姦的固着


これらの3つの性向が組み合わされると「衰退のシンドローム」が生じ、人を破壊のための破壊へ、憎悪のための憎悪へと駆り立てる。これとは対極にあるものとして「成長のシンドローム」もある。これは、1.生への愛、2.人間への愛、3.独立からなる。

これら2つのシンドロームのどちらかが、最大限に発達する人は僅かであるが、自分で選んだ方向…生か死か、善か悪かへと進むことは否定できないのである。



II.様々な暴力

次に暴力についてみていく。

最も一般的で病的でない形態の暴力は、「遊びの暴力」である。これはスキルを見せるために行使され、破壊を目的とせず憎悪や破壊が動機でもない。剣道や部族の戦争ゲームなど多くの例が挙げられる。

現実的に重要なのは「反動的暴力」である。これは自分あるいは他人の生命、自由、威厳、財産を守るために行使される暴力である。恐怖に根ざしたものであり、最もよく見られる暴力である。もう一つ別のタイプの暴力として、欲求不満から生じる暴力がある。これは何らかの希望や要求が満たされない時に起こるものだが、徒労に終わることが多い。ただ、生きるためのものであり、破壊が目的ではない。欲求不満に関連した攻撃性に、羨望と嫉妬から生じる敵意がある。羨望と嫉妬も欲求不満であり、望むものが手に入れられないばかりでなく、他人にそれが与えられていることで悪化するものである。カインとアベルなどは典型的な羨望と嫉妬の例である。

より病理的に進んだ暴力は「復讐の暴力」である。反動的暴力の目的は予想される害を避けることであり、生存という生物学的機能に役立つ。一方で復讐の暴力は既に害を受けているので身を守るという働きはない。しかし現実でなされた害を帳消しにするという非合理的な働きを復讐の暴力は持つ。復讐の動機は集団あるいは個人の強さと反比例するという特質を持つ。精神病理学的に深刻な症状において復讐が最大の目的となるのは、復讐がなければ自尊心や自己意識、アイデンティティが崩壊する恐れがあるからだ。

この暴力は個人の中にとどまらず、たとえば多くの原初的社会には強烈で習慣化された復讐の感情とパターンがある。仲間に危害を加えられたら、それに対して報復しなければならないと集団全体が感じるようになっている。

これらには2つの要因がある。第一に心理的欠乏状態と、復讐以外の手段はないと思わせる雰囲気である。第二に、ナルシシズムであるがこれは後述する。

復讐の暴力と密接な関連を持つのが、信頼の崩壊によって生じる破壊性である。人生において、小さな経験が重なって信頼は崩れていく。最も望ましい反応は、自立してもっと信じられる対象を見つけることであるが、生への失望が生への憎悪へと繋がることもある。これらの暴力は全て、現実的にあるいは不思議な形で生への打撃や失望の結果として生へと寄与している。

だが「補償的暴力」はもっと病的な形態の暴力である。これは無力者にとっての生産的行為の代用である。補償的暴力は無力であることに根ざし、それを埋め合わせるための暴力である。補償的暴力は、不完全な生の結果…必然的な結果である。束の間抑圧し、気をそらしたとしても、強い力のまま潜在的に残り続け、抑圧の力が弱まると必ず表れてくるものである。補償的暴力を解決するための唯一の方法は、人間の創造的可能性、人間的な力を生産的に活用する能力を高めることである。欠損が埋められて初めて人間は破壊者でなくなり、生に関心を持つことができる状態でのみ、この衝動を排除できる。これは病理的な生の代用であり、生の不自由さと空虚さを暗に示しているものでもある。

最後の暴力タイプに、原初的な残虐性がある。これは何かが欠落した者の暴力ではなく、野生との繋がりが守られている人間の残虐性である。殺しへの欲求は生を越えるための方法であり、一人前の人間になることを恐れるために起こる。血を流すことで自分は生きており、唯一無二の存在であり、他の誰よりも高い所にいると感じるのだ。殺しは陶酔となり、原初的なレベルでの自己確認となる。反対に殺されることは、殺しに代わる唯一の選択肢となり、原初的な生の均衡を意味する。この段階を越えると、自らの人間性から生を確認できるようになる。殺す物は一人前の人間として生まれ、ナルシシズムを克服すれば愛する者となれる。それができなければ、近すぎる生死と原初的なナルシシズムの固着にはまることになる。



III.ネクロフィリア/バイオフィリア

ここではネクロフィリア (バイオフィリア)について扱う。

人と人との間には心理的にも道徳的にも根本的な違いはない。ネクロフィリア的な者と、バイオフィリア的な者との違いはないのである。

ほとんどの人間には、バイオフィリアな面とネクロフィリアな面が共存している。ここで重要なのはどちらの面が強いかによってその人の行動が決まることであって、どちらか一方の性向があるかないか、ということではない。ネクロフィリアは「死者を愛する」という意味である。対してバイオフィリアは「生を愛する」という意味だ。この用語は性的倒錯を指し、死体をセックスするために所有きたい、死体のそばに居たいという病的な願望を意味する。ネクロフィリア的な人間は、過去に住んでいる。ネクロフィリア的な人間の特徴は力に対する態度にある。死を愛するものは力を愛す。最大の目的は生を生み出すことではなく、それを破壊することになる。

バイオフィリアはこれと反対のものである。生命を守り死と闘う性質はバイオフィリア的な性向の基本的な形態である。バイオフィリアの全容が表れるのは生産的な性向においてである。あらゆる領域での生のプロセスと成長に惹きつけられる。新しいことを組み立てることを好み、驚異を感じる力を持ち、新しいことを発見することを好む。またバイオフィリアは独特の倫理も持つ。すなわち善は生に寄与するすべてのものであり、悪は死に寄与するものすべてなのだ。

だがネクロフィリアとバイオフィリアのこうした「純粋な形」は滅多に表れない。純粋なネクロフィリアは「狂気」であり、純粋なバイオフィリアは「聖人」である。

バイオフィリアを発達させる要因は、経済的心理的な充溢と欠乏であり、その為の社会条件は、安全、公正、自由であることだ。人間のエネルギーが攻撃に対する防御に費やされる限り、生への愛は麻痺してネクロフィリアが育まれるからである。

ネクロフィリアは生への無関心を含むが、ここに人が全面的な破壊を恐れないことに対する一つの証左がある。「生を愛していないから、あるいは生に無関心だから、さらには多くの人は死に惹かれているから」ではないのか。近代産業社会の合理化、抽象化、官僚化、物象化は機械の原理となり、そこに生きる人々は生に無関心となり、死に惹かれさえする。これらはネクロフィリア的な傾向であり、産業社会の中には個々の政治的な構造に関わらず存在するものである。問題は生の原理が機械化の原理に従属するか、生の原理の方が優位になるか、ということであり、その答えはまだ見つかってはいない。

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