「原典訳 原始仏典」雑多な感想 下

下巻の言葉も、詩句から引く。



「生まれにくい人間によくぞ私はうまれてきた

人間だから

こよない法のよろこびをうけることができるのだ」



私はもしも生まれ変わりというものがあるなら、この次は人間には生まれたくないと思っている。「生まれにくい人間」とは、生きにくい人間にも通じる。そう、私は生きにくさを感じている。どうしてここまで社会を複雑にする必要があったのか分からないし、進化することをそのまま「進歩」であるとも思えない。だがそんな私はちっぽけで、ここにこんなことを書いても大した意味はない。別に死にたいとも強く思わないが、今の状態を心地よいとも思えないでいるのが率直なところだった。次生まれるなら、アンデス山脈かあの辺りの鳥になりたいと思っている。単純な摂理の中で生まれて、喰われるか撃たれるかして死んでいきたい。

だが、詩句は続くのだ。「人間だから

こよない法のよろこびをうけることができるのだ」。こよない法は、ブッダの教えであり悟りであり、優しさであろう。「こよない法」は、単なる宗教的な歓びを超えたものであるかもしれないと私は思っている。それを「うける」ことと引き換えの「生まれにくさ (生きにくさ)」なら、幾分か慰められるのだ。


また以下の詩句もとても気に入っている。



「私の言葉はむなしくても

業の深いせいかあやふやでも

言葉を実のあるものにしてみたい」



人が生きたいと思う源は、このような「実のあるものにしてみたい」というところかもしれないとふと思う。私は奇遇にも文章を書くとが好きだから特に刺さる。私の言葉は虚しく、曖昧で未熟なものだ。それでも何か打つものを生んでみたい。


二項対立や二元論に、ちょっと疲れた時期があり東洋思想を勉強しようと思っている。「ウパニシャッド」も好きだが、なぜ好きかと言えばやはりその広大さだ。

原始仏典においても、その広さを垣間見ることができてとても嬉しかった。



「『われは現に存在しない、未来にも存在しないであろう。何ものにも現にわれに属しない、未来にも属しないであろう』と説かれて、愚者は恐怖を生ずるが、賢者は恐れに打ち勝つ。


『われは存在する、またこれはわれのものである』ということは究極の真理からすれば誤りである。如実の智慧から見れば、両者はともに存在しないから」



まだこの語の持つ意味や、広がりについて正確には分からないが今見えている「私」の世界の狭さや取るに足らなさ、というものの片鱗をここから感じることができる。

私の存在や、私のものである、というものが現在にも未来にも、どこにもありはしないということは、怖いことでもあるが、一方では清々しい気持ちにもなれる。

この清々しさの正体を言語化、意識化できるとまた違ったものが見えてくるかもしれない。



引用:「原典訳 原始仏典」中村元訳 ちくま学芸文庫

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