「原典訳 原始仏典」雑多な感想 上
相変わらずちくま学芸文庫は私のツボを押さえるようなことをする。ちょうど仏典について勉強してみたいと思っていた折に、本屋で見つけた。普通の文庫に比べると値は張るが、まぁ買ってみた。
まとまりはないが、気に入った本文を引用しながら感想を述べていく。
原始仏典はブッダの教えを最も忠実に伝える経典とも言われ、その生涯や人柄、説法や長老による詩句など単なる仏典にとどまらない様相を呈している。文学の趣も感じるのだ。
ブッダは元々王族の王子で、何不自由なく暮らしていた。だが有名な四門出遊で人間の抱える根源的な「苦」を目の当たりにし、そこから解脱するための悟りを求めて家族も王子としての地位も捨て、出家をする。
そして、苦行の末ようやく悟りに至るわけだが、その時にブッダの心情を記述している箇所が私は好きだ。こういう率直な吐露に、開放的なアジア思想の欠片を見るような気がしてしまう。
「わたくしの悟ったこの真理は深遠で、見難く、難解であり、しずまり、絶妙であり、思考の域を超え、微妙であり、賢者のみよく知るところである。ところがこの世の人々は執着のこだわりを楽しみ、執着のこだわりに耽り、執着のこだわりを嬉しがっている人には、すなわち縁起という道理は見難い。また一切の形成作用のしずまること、一切の執着を捨て去ること、妄執の消滅、貪欲を離れること、止滅、安らぎというこの道理もまた見難い。だから、わたくしが理法を説いたとしても、もし他の人々がわたくしを理解してくれなければ、わたくしには疲労があるだけだ。わたくしには憂慮があるだけだ」
つまり、世俗の欲に塗れた人々に「悟り」は理解できないだろうし、「どうして私が苦労して得たものを、みすみす説いてやらねばならんのだ」と言っているのだ。ここがとても好きだ。
その後に、以下の詩句が作られる。
「困苦してわたしが悟り得たことを、
今またどうして説くことができようか。
貪りと怒りに悩まされた人々が、
この真理を悟ることは容易でらない。
これは世の流れに逆らい、微妙であり、
深遠で見難く、微細であるから」
ブッダの得た悟りというのは、確かに分かりづらい。私なんかも、「微妙であり、深遠で微細である」と言われる悟りについて、よく分からない。せいぜい、知覚できない領域が確かにあることをここから知ってみるだけしかできない。だが、ブッダの一連の言葉は好きだし、ちょくちょく思い出してはその意味を考えてみたりもする。
そして、ブッダの説く教えについて述べた箇所も気に入った。
「諸々の事柄は原因から生じる。
真理の体現者はそれらの原因を説きたもう。
またそれらの止滅をも説かれる。
偉大なる修行者はこのように説きたもう」
原因とその止滅という前に引いたものとは異なるロジカルな箇所が気に入ったのだろう。全てのものには原因、元になるなんらかの働きがあり、その止滅をも真理は説くというのは面白い。
以下は詩句だったと思うが、これは日常生活の中でも自分の戒めとしたい。傲慢や執着はやはり妨げとなるのである。
「眼で視ることを貪ってはならない。卑しい話から耳を遠ざけよ。味に耽溺してはならないを世間におけるなにものをも、我がものであると執するなかれ。
実に何物もなきものは安楽である。けだし智慧のある人は無一物だからである。
過去を追わざれ。未来を願わざれ。
およそ過ぎ去ったものは、すでに捨てられたのである。
また未来は未だ到達していない。そうして現在の事柄を、各々の処においてよく観察し、揺らぐことなく、またどうずることなく、それを了知した人は、その境地を増大せしめよ。
いまこの眼を持たない人々は、虚しく争って、自己のみが真理であるという。一つのみを見て、他は非であるという。
戒めは、岸辺であり、防護であり、心の光明であり、また、あらゆる目覚めたものたちの渡瀬である。それ故に、戒めを浄くせよ」
特に、「いまこの眼を持たない人々は、虚しく争って、自己のみが真理であるという。一つのみを見て、他は非であるという」と「戒めは、岸辺であり、防護であり、心の光明であり、また、あらゆる目覚めたものたちの渡瀬である。それ故に、戒めを浄くせよ」が気に入っている。「この眼」とは、ブッダの教えに開眼していない人のことをさすが、自分の狭い価値観や世界に囚われ、それを真理とし他は非であるとする言動は容易に見つけることができるし、また持つことができる。この傾向は近年益々盛んになっているような気がする。虚しく、無益な争いをしないためにも、「戒めを浄く」する必要があるのだ。なぜなら戒めは、「心の光明であり、また、あらゆる目覚めたものたちの渡瀬である」からだ。私なんかは自意識が強いから、特に気をつけなければいけないなと思っている。現代は、一見インターネットの普及であたかも自分が広大な世界へと飛び出して行っているように見えるが、その実自分にとって居心地の良いシマの中に引きこもっているだけのことが往々にしてある。私はあまり「なろう」にしろTwitterにしろ相互に交流することはないが、知らず知らずのうちにネット上でも (もちろん現実の方もだが) 人間関係が煮詰められていることを念頭に置く必要があるだろう。
さて、上巻最後の言葉もまた詩句からである。
「わたしなあなたの言葉を望むのです。聞くものに真理の雨を降らせて下さい」
優れた言葉は褪せない。これらの言葉は、西洋が神格化する理性に基づいたものではないが…だからこそこの切実な祈りにも似た他愛もない一文が突き刺さる。
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