チェーホフの言葉から文学と表現を概観する。
図書館で彌生書房の「人生の知恵 Ⅶチェーホフの言葉」を読んだ。最近なんとなくチェーホフを読んでいるから手に取ったのだ。チェーホフの短編はそれほど面白いと思えないが、彼の言葉は結構面白かった。
特に「芸術について」の章が興味深かった。
チェーホフの言を参考に、改めて私の文学や表現のようなものを概観していきたい。
まずは、チェーホフの言葉である。
「文学の使命は、無条件な、真心からの真実です」
「文学は、落ち着いた、神聖な仕事です。物語形式、それは正妻で、劇形式、効果的で騒がしく、あつかましく、面倒な愛人です」
真実、というのは案外ややこしい。事実と真実は違う。私の定義で例えるなら、「木からりんごが落ちる」という事実があるとする。それをAという人は「神が予定したことだからだ」と考える。Bという人は「引力が働いているから、落ちるのだ」と考える。事実というのは起こった事象であり、「真実」とは各人の価値観のフィルターから漉されて「残ったもの」のことだと私は理解している。では文学の真実とはなんだろうか……。
言葉、というよりも文体によって漉されて残る人間の姿なのではないかと私は思う。それは「無条件で真心からでたもの」でなくてはならない。
そして、文学は「落ち着いた神聖な仕事である」。私自身は文学にそこまで高尚なものを感じるか、と言われれば感じないのだが言いたいことは分かる。それよりも、その後の「物語形式、それは正妻で、劇形式、効果的で騒がしく、あつかましく、面倒な愛人です」というのがしっくりと来る。物語の中にある筋というのは、折り目正しい正妻だ。私は小説を書くときには文章が頭の中でパズルのように組み合わされていくのを感じる。この隙間のない組み合わせが、正妻じみていると思う。劇形式の「愛人」というのもよく分かる。手遊びに戯曲を書いてみたときの、あの大袈裟さというのも面白い。
次にその文学と向き合う人間について、表現についての言である。
「化学者にとって地上には汚いものは何もありません。文学者は化学者と同様に客観的でなければなりません」
「本当の作家は、古代の預言者と同じだ。いつも、普通の人たちよりも、ずっとはっきり物を見ているものだ」
この客観性について、考えることがある。ちょうどTwitterで「一般文芸」と「ライトノベル」の違いは何かとの議論があって考えてみたときに、この「客観性」が一つのキーワードになるのではないかと思ったのだ。経験のみに基づいた主観のみで描かれたものはジャンルを問わず、稚拙で幼稚なものだろうと思う。実際に作者の願望や投影を受けたと分かる某ベストセラーを読んだが、つまらなく酷いものだった。ライトノベルとされるものは、傾向として、「主観性の強い」ものが多いと感じることがある。また、アマチュア作家の書いたものも主観性が強いと思う。
「はっきりものを見る」ためには、この客観性が欠かせない。これは私も納得できるものだ。
そして、チェーホフはなかなかきついことも言っている。ここからは戒めも含めて見ていきたい。
「初心作家について言いますと、まず、言葉で判断ができますよ。もしその作者に、自分の「スタイル」がなければその人は決して作家にはなれないでしょう。もしそのスタイルや自分の言葉があるなら、その人は、作家として、期待できなくはない。もっとも、さらに、他の面も考えてみねばならないけれど」
言葉…私の場合はその人の書いた小説の「最初の一文」を見る。物語の始まりは、世界の始まりである。そこにセンスが出る。感性のエッセンスが宿る。プロの作品でも、なかなか唸るような美しい一文、センスのある一文に出会ったことはあまりない。その後の二行三行で雰囲気を作る人もいるが、私が一番大切にしているのは最初の一文と、最後の一文である。
だから、私が小説を書くときに一番考えるのは最初の一文と最後の一文である。あとは流れでパパーッと書いてしまう。
簡潔であるのに、目を引き感性に訴えるような一文が最も美しいと思う。一番醜いのは、冒頭からの説明文である。これまた某ベストセラー…とぼかすのも面倒くさくなったので名前を出すが住野よる著「君の膵臓を食べたい」の冒頭一文はセンスの欠片もないと私は思う。全て説明してしまうのだ。余分な文章を削って、恐らく彼が一番伝えたかったのは死んでしまった女の子の葬式に、「曇天は似合わない」という事だと思う。だったら、くどくど余計なことを説明する必要はない。私だったら書き出しの一文は、「彼女に曇天は似合わない」だけにする。他のバックグラウンドは登場人物たちの台詞や持ち物で徐々に補っていくようにする。
説明文は最も美しくなく、センスのない没感性な文章であると私は思うからだ。チェーホフも似たようなことを言っている。
「読者が、作者の説明なしでも、話の進行から、登場人物たちの会話や行為から、自然にわかるように書かねばならない」
「作者の説明をしない方がいい。必要なことは全て、描かれる人物たちに言わせたらいい」
だが、これは言うほど易しくはない。作者の頭の中ではイメージが浮かんでいても、読者の中にはなんの像も結ばれてなかったりする。説明文というのは、そうしたリスクをなくす上で魅力的な文章でもある。だが、私としてはこの難しさに挑戦したいと思うのだ。
そして、表現することについても面白いことをチェーホフは言っている。
「恋について書こうと、恋についてでなかろうと、それはどっちでもいいことだ。大事なことは才能が滲みでていることなのだ」
「哀れな人間や才能のない人間を描いて、読者に哀れみをもよおさせない時には、つとめて冷たくおなりなさい。そうすれば、それが他人の哀しみに一種の背景を与え、悲しみは一層引き立ちます」
才能、という語を出されると辛いものがある。どんなものを対象に切り取っても、才能が滲み出ているか。
才能とまでいかなくても、感性、その人の言葉がそこにあることが一番大切なことであると私も思う。稚拙でも良いから、その人の感性と言葉で切り取ったものが読みたいし、表現するならそれを目指したい。
そして、哀れな人間を書くときに「つとめて冷たくなりなさい」という言葉が好きだ。私は幸福な人間を描くよりも不幸な人間や狂った人間を描く方が好きだ。それは楽しいからだ。同じように、愚かな人間を描くのも好きだ。こういう人物たちはまとめて「愛おしくなる」。だが、私は特定の人物に入れ込んだことは今までない。創作界隈では「うちの子」とか言うそうだが、私はそこまで愛着はない。酷い話だが、一つ書き上げてしまったら人物の名前すら忘れてしまう。それくらい、思い入れがない。
これは「冷たい」を通り越してもはや「無関心」の域だが、人物造形に関しても客観性を持っていたいところである。
そして、書く人へ向けての言である。
「お書きなさい。できるだけたくさんお書きなさい。必ずしもうまくできなくても、構いません。だんだん良くなるでしょう。大事なことは、若さと弾力を無駄にしないことです。中略
でもあなたの語彙は貧しい。言葉や言い回しを覚えなさい。そのためには、毎日、書かなければなりません」
「活字にするのは少なくてもいいが、書くのはできるだけ多い方がいい」
「お書きなさい。ただ、どうか自分に対してはもっと厳しくしてください。あとで自分の書いたものを否認しなければならない、なんてことがないように。一句一句、よく考えてください。言葉一つ一つを十分考えてください。文学がお好きでないなら、おやめになった方がいい」
私は無駄なことは書きたくない。だらだらと長く書くのは嫌だし、何より飽きる。だから、私は長編に向かない。巧拙は脇に置くとして、短編が好きだし短編しか書かない。というか、書けないのだと思う。
「あなたの語彙は貧しい。言葉や言い回しを覚えなさい。そのためには、毎日、書かなければなりません」
毎日書く、というのがミソなのだろう。私はこうやって文章を書き始めてほぼ一年になる。だが間の半年近くは完全に飽きて一切何もしなかった時期がある。そして、ふとまた書き始めると、思考の鈍りと言葉の鈍りに驚いたことがある。語彙を増やし、自分のものにする為には「毎日」やるしかない。これは私の経験からいっても、納得できるものだ。
そして、こういう地道なことは好きでなければできない。「文学がお好きでないなら、おやめになった方がいい」のだ。
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