対立の心理学

前回に続き、ナショナルジオグラフィック四月号からまたまた面白い特集を読んだのでまとめる。

なぜ人々は対立するのか。「私たち」と「彼ら」と分けて見ようとするのか。その心理を探っていく。


民族や宗教、言葉、文化、政治が異なることは死に繋がる事態を招くこともある。こうした悲劇は私たちの歴史の中で繰り返されてきた。

集団と集団のぶつかり合いでは個人と概念は消え、相手への共感も信頼もなくなる。「人間は同一性を求めてやまない」と進化心理学者のジョン・トゥービーは指摘する。人間は生まれつき「私たち」と「彼ら」を区別するようにできている。脅威に直面すると無意識のうちに「私たち」を優先することは避けられないのだ。こうした性質は、アリやサケやサルといった他の生物にもみられる。しかし、集団の意識と行動が変わるのはほぼ人間だけである。例えば、一つの国だったユーゴスラビアが分裂して、クロアチア人やセルビア人、ボスニア人が戦争したのはその一例である。ルワンダ内戦におけるツチ族とフツ族のように何世紀も前から同じ土地で生きてきた人々が同郷人でなくなるのは人間の世界でしか起こらない。


過去20年間に行われた集団に関する研究から「同一性を求めてやまない」人間の脳に関する重要な事実が分かってきた。例えば、集団に対する認知や行動の多くは意識外で生まれており、コントロールが効かない。またもう一つの重要な事実として、新しい集団同一性は、古いものとすぐに置き換わるのである。それまでの白人や黒人といった既存の集団すらひっくり返して考えるのである。人間は群れたがる性質を持つのだ。自分がどの集団に属しているか、周囲にあるどの集団が重要なのか常に意識をしているのである。たとえ人種や宗教、国籍といったアイデンティティに満足していても、新たな集団に入る可能性を探っている。

人間の脆弱性を考えればこのような相互依存は生き残り戦略であり、多くの霊長類は集団を作り、人間社会にも必ず線引きされた集団が存在する。


なぜ人間は「私たち」対「彼ら」の対立構図にはまってしまうのだろうか。

集団に対する偏見は、往々にして無意識に出現する。これは意図も認識もない言外の偏見なのだ。自分と同類の人間を贔屓にしたがる無意識の偏見は、誰にでもあるものなのだ。


そしてその無意識のうちにある集団に対する偏見で、様々な悲劇が起こされてきた。

歴史的な事例から改めてそれを辿っていく。


ルワンダ内戦

ルワンダは元々フツ族とツチ族などの民族が暮らしていたがドイツ、ベルギーといった旧宗主国が利害のために特定の民族を厚遇し、対立を引き起こした。1961年にベルギーから独立する以前よりツチ族とフツ族の対立はあったが、1990年代の前半フツ族主導の政権とツチ族の反政府勢力との間で内戦が始まる。ここから両者の民族意識が過激化していく。

1994年にフツ族出身の大統領が暗殺されたことを理由に、フツ族過激派がツチ族及びフツ族の穏健派の殺害を扇動した。3ヶ月の間に80万人が殺された。

悲惨な内戦を経て、ルワンダ政府は「ツチ」や「フツ」という言葉を侮蔑的に使用することを禁じた。学校でも異なる民族が一つの国を作っていることを教えている。月一回ある「ウムガンダ」の日には成人は地域の人々が行う奉仕活動に参加しなければならないなど、融和政策が試みられている。


パレスチナ内戦

19世紀にユダヤ国家建設を目指すシオニズムが増し、多くのユダヤ人がエルサレムに移住していく。1948年にイスラエルが建国されるが、この新国家と周辺のアラブ諸国の間で戦争が勃発すると、大量のパレスチナ系アラブ人が難民となった。

宗教と民族が絡んでいるが、実質的には土地と主権の争いである。双方の過激派は妥協を拒み、双方の完全排除を理想として政治的な取引を受け付けていない。また土地を占領し、入植地を広げ続けるユダヤ人とイスラエルに対してパレスチナ側がテロを起こすなどして、お互いに不信感を募らせている。

民間団体が相互理解の努力を続けているが、解決の糸口は掴めていない。


ロヒンギャ難民

イスラム教を信仰する少数民族ロヒンギャ族は、ミャンマー国内で多数派を占める仏教徒から差別を長年受けていたを1982年に当時の軍事政権がロヒンギャ族の国籍取得を事実上不可能にした。2012年にはロヒンギャ族の大半が住むラカイン州でミャンマー政府はその多くを難民キャンプに追いやった。

宗教と民族が対立の二大要因である。ミャンマー国内では、ロヒンギャ族をはじめ、南アジア系の多くの人は英国植民地時代に労働力としてバングラデシュから連れてこられた人々の子孫とされ、国内では拒否反応が根強い。ロヒンギャ族の小規模な武装集団が行なった襲撃を理由に軍によるレイプや殺人、放火などが繰り返され数十万人のロヒンギャ族が周辺国に逃れたとされる。

国連が提起した問題解決への勧告をミャンマー政府も承認したが、実行には移されておらず弾圧は続いている。



それぞれの事例は時期も国もその主要な要因も微妙に異なるが、どちらも集団同士の対立である点は同じである。先述したように、元々人間の心理には自らが属する集団を優先する働きがある。そこに土地や民族、宗教というカラーが付与され、時として憎悪や名誉、自尊心が加わることでこの働きはより複雑にそして残忍になっていく。その結果が民族浄化や内戦である。この心理的働きによって生まれる「偏見」を鎮めることは容易ではない。だが少なくともそのような働きがあることを客観的に知ることはとても大切であり意義のあることだ。私たちの社会には様々な規範があり、道徳と呼ばれるものがある。それらは「人を殺すな」「全ての人は平等である」と説くが、規範や道徳以前のこうした無意識化での「本能」もまた私たち自身の一部である。それとどう現代の「理性」が向き合うことができるのか、試されていると読後に感じた。

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