ドッグミーツラヴァー

 

 私の名はワンコ。犬なので、そのままワンコと名付けられた。名付け親は後藤 陽二ようじ君と言う。育ての親は佐々木 礼菜れいな。陽二君に拾われ、礼菜の家に引き取られた。今では二人とも、私の孫である。二人の孫は、私を介して十年以上振りに縁を結んだ。


 中学一年生から始まった、礼菜の初恋。会ったことも話したこともなかった少年に恋に恋する乙女だった礼菜。春夏秋冬。私は見守ってきた。というよりも、礼菜が勝手に私に話してきた。人間になって、礼菜を嫁にしたいと思っていた頃もあったが犬というのは、人よりも歳をとるのが早い。


 私はもう、すっかり爺さんである。


 なので、礼菜の一喜一憂には疲れる。若者の元気さは、年寄りの楽しみであり毒でもある。大学生になった礼菜とは、かつて明と疎遠になったように距離が出来た。学業に、アルバイト。それに遊び。礼菜はすごぶる忙しそう。大好きだった散歩が苦痛になってきた私と礼菜の時間は、うんと減った。しかし男と宿泊なんてしない箱入り娘の礼菜は、毎晩私と寝てくれる。日課のブラッシングもしてくれている。


 もう、礼菜は陽二君の話を聞かせてはくれない。憂いた瞳で、ため息を零したり、甘ったるい顔は見せてくれる。


「ねえワンコ、聞いて」


「あのね、ワンコ」


 懐かしく、遠い日々。キラキラした顔の礼菜の片思いの時間。恋に恋して、まだ交流のない少年を好きだった礼菜。陽二君と実際に交流を持つと、涙の方が増えた。片思いとは、苦しく、切なく、辛いものである。礼菜に恋をしていた私は、とても共感が出来る。


 眠る時間が増えたので、私はもう長くないと感じている。


 恋に振り回されているが、礼菜は素敵な女性へと成長した。家を出て疎遠になってしまった明も、忙しい仕事の合間をぬって会いにきてくれる。母は毎日、私が食べやすい食事を用意してくれる。単身赴任から戻ってきた父が、私の散歩と言いながら私を抱っこして外に出掛けさせてくれる。


 中学生時代から知っている、礼菜の友人達も会いにきてくれる。


 私を拾って、この幸せな生活をくれた後藤家の母、幸一、陽二君も会いにきてくれる。後藤家の父はアレルギーなので会えない。しかし昔から私に差し入れをくれる。


 幸一はもうすぐ結婚する。惚れっぽく、年中発情期のような幸一を、大人しくさせた女性。礼菜の手本らしい。明もそう遠くない日に結婚するという。私の散歩中に再会した高校の同級生と、トントン拍子。私はまた、恋のキューピッドとなった。父と母、明に礼菜への恩返しは十分だろう。


 陽二君は相変わらず礼菜の恋に気づかない。才能に見切りをつけて、大学野球ではなく、草野球をしているという。仲良しの隆史が中々才能があったので比べてきたのもあるのだろう。とは父の言葉である。


 隆史は怪我で野球人生を断たれた。励まし続けた陽二君と勉強し続けて、名のある大学で学んでいる。私が一時期世話になった幼稚園に、隆史がいたらしいので、覚えはないが私と隆史にも縁があるのだろう。陽二君と隆史はたまに私を草野球に連れていってくれる。そこで私はマスコット。ベンチの上で上げ膳据え膳。チヤホヤされている。礼菜もニコニコしてくれて、大変満足。


 私はもう佐々木家の幸福の中心ではなく、どちらかというと不穏な影を落とす存在。しかし、このように大勢の方々に大切にされている、実に幸福な犬である。


 今日も私は佐々木家で、幸せな一日を終える。佐々木 ワンコは世界で一番幸せな犬だと自負している。


 そろそろ、死んでも悔いはない。



***



【とある夏の日】


 うつら、うつらと眠っていると、陽二君の匂いがした。


 命の恩人なので、陽二君の匂いを嗅ぐと本能が反応する。


 礼菜を泣かせてばかりだが、大好きだ。


「おおおおお、ワンコ。まだまだ元気そうだな」


 私を抱き上げて、背中を撫でて、陽二君はソファに座った。私は陽二君の膝の上に上半身を乗せて、目をつむった。喋れるのならこう伝えたい。この温かさ、恐悦至極にございます。


「最近、寝てばっかりだよ。陽二ようじ君が来るから張り切ったんだよね、ワンコ」


 礼菜のすべすべして、スラリとした手も至福。私は返事の代わりに、小さく吠えた。


 気持ち良いので、まどろみに誘われた。夢の中は大雨だった。寒くて、凍えそうで、お腹が減って仕方ない。


 そこに、フワリとした温かさ。


 ハッと目を覚ますと、陽二君の手がいつものように私を優しく撫でていた。人生初の、人の温もり。未だその中にいるとは、私は強運を持って生まれたのだろう。


「浴衣美人に好きって言われたら、取りあえず付き合っとくかとは生意気だな!」


 明が陽二君の背中を叩いていた。何の話をしていたのだろうか。陽二君が悲しそうに、困ったように微笑んだ。


「痛いっすよ。見栄です。浴衣美人がいきなり俺に告白する訳ないじゃないですか。告白なんてされた事無いです。バレンタインは貰えたけど無記名だったし。しかも中学生の時。俺、モテると真逆なんです」


 嘘をつけ。礼菜は延々と陽二君に告白し続けている。鈍いのか、恋愛面ではアホなのか、本気だと気がつかない陽二君は礼菜をずっと振り続けている。礼菜は幸一が好きで、その練習だと思い込んでいる。それに、モテると間逆?気立て良く、面倒見も良く、優しさと思い遣りを持つ陽二君は人気者だ。隆史や沙也加など、二人の友人達からたまに聞いているが、礼菜はアレコレと手を回して女を追い払っているらしい。


 人の恋路を邪魔する奴は馬に蹴られて死ぬという。いくら、長い初恋の相手でも、他人の幸福を奪ってはならない。人の言葉を喋れれば、説教をするところだが、部屋で一人で自己反省している礼菜も知っているので複雑な気分。


「あの、今日……礼菜に兄貴の結婚の事話しておこうかと……。ずっと黙ってる訳にもいかないし」


 心底辛そうに、陽二君が声を絞り出した。話しても、礼菜は喜ぶだけだ。私も嬉しい。幸一はついに結婚するのか。やんちゃで、弟が好きで、騒がしくて、女にダラシなくて、でも弟同様に優しい幸一。一番、幸せと書いて幸一。うむ、名は体を表すというので幸一は幸せになるだろう。過去の女問題で刺されないかだけが心配である。


 一番、幸せで幸一。明は、父と母が明るい人生をと願いを込めた名前だと言っていた。礼菜も同じように、菜の花の花言葉から「明るさ」を祈られている。礼は礼儀のある教養のある娘になるようにと願われて付けられた。


 では、陽二君は何だろう。そしてワンコ。ワンコにも意味をつけたいが、思いつかない。ワンは英語で一。幸一のコ。それで、いいか。ワンコもたった今から「一番、幸せ」という意味にしよう。


「黙っててくれって言うから、黙ってたけど、何で今日なんだ?それにさあ、何でまた……」


「泣くんすかね……。多分笑うんだと思ってるんですけど。何をしたら、元気になるもんなんですか?取り敢えず、皆でワイワイして、綺麗な花火見ればマシかなって今日にしたんです。ワンコ、今日も明日も、来年も元気でいて礼菜をなぐさめてやれよ。お前も礼菜の晴れ着、見たいだろう?頼んでおいたからな」


 陽二君が鞄から何かを出した。出てきたのは白い袋。その中からお守りが出てきた。四角くて、健康祈願と書いてある。陽二君が明に断ってから、私の首輪に御守りを付けてくれた。チリン。と軽快な鈴の音が響いた。


「本当、こうと似てないよな。ワンコに家族が見つかったんだから、馴れ馴れしくしたらダメだ。家族を一番好きになってもらうようにしないとダメだってこうを叱ったのを思い出すよ。そんなに言うなら、もう来るのは止めようって言われて、よう君来なくなっちゃってさ。弟が家でたまに泣いてるらしいのに、あいつなんて、毎日のように我が物顔で家に来てたぜ。おまけにワンコはそこそこ、俺とゲームしてた」


「全然、覚えてないです。幼稚園の時のことなんてサッパリです。犬にワンコって名前を付けたくらいしか覚えてなかったです。明さんや兄貴はもう小学生だったんですもんね。覚えてない昔話とか恥ずかしいですよ」


 これはとても難しい話。礼菜や私をおもんばかって、身を引いた陽二君。幼稚園生だったのに、実に殊勝な事だ。しかし、礼菜は長い間気に病んだ。陽二君も、泣いてくれていたという。好意には好意が返ってくるというが、こういうこともある。


 我が物顔で佐々木家に出入りし続けていた幸一は、自分も私も明も礼菜も幸せにした。実に皮肉な事だ。


「あのさ、よう君。礼菜ってバカだから引っ込みつかなくなってるんだけど……」


「幼稚園からずっと兄貴が好きって、確かにバカですよね。あんな浮気者、いや、菜乃花なのかさんと付き合ってから全然違う奴みたいだから、見る目はあったのか?長過ぎてどれだけ落ち込むのか、全然想像つかないです」


 悲しくてならない。辛くてならない。そういう顔の陽二君の頬に、私はキスをした。誤解とはいえ、幸一にフラれて落ち込む礼菜を想像して、まるで自分の事のように傷ついている陽二君。私に御守りを買ってきてくれたのは、私の為でもあるが、礼菜の為でもあるようだ。礼菜の恋はちっとも実らないが、私よりも人間の人生は長い。


 礼菜が幸一に失恋した。陽二君がそう思えば、二人にも新しい関係が生まれるかもしれない。陽二君が鞄から、更に何かを出した。昔、佐々木家が家族でよく出掛けていた遊園地のチケットだった。私は、留守番なのでとても嫌いだ。いくら頭に可愛い飾りをつけた、ニッコニコの明と礼菜が帰ってくるとしても、楽しそうに思い出話をされても、嫌いだ。思わず、チケットを食べてしまいそうになった。しかし、そんな元気はない。今日は、あまり元気が出ない。


「これ、どうしたの?」


「バイト先の納涼会で、ビンゴをしたんですけどそれで当たりました。四枚あるんで、家族でどうです?行く日が早めに分かれば、ワンコを預かりたいです。兄貴の新居が動物大丈夫なんで。俺も犬がいる生活がしたいんで、兄貴にワンコを可愛がらせて、犬を飼ってもらおうかなと。礼菜達、四人でもいいすけど俺の夢の犬ライフは助けてください」


 陽二君が私の顔を覗き込んだ。


「なー、ワンコ」


 顔をグニグニとマッサージされた。物凄く小さな声で、陽二君が「高かった。俺が礼菜と行きたいよワンコ」とささやいた。


 つまり、これは、どういう事だ?


「どうでしょう?中々、似合うと思います」


 リビングに礼菜が現れた。浴衣を着ていた。白地に青い紫陽花あじさい柄。バイト代を貯めて、散々試着をしたという浴衣。とてもよく似合っている。陽二君が青と花が似合う女の子が好みと聞いて、青が似合わない礼菜は相当試着を重ねたと、母が明と話していた。


 さて、その陽二君。呆れたような顔をしているだけであった。この男は、こんなに可愛らしい礼菜にも心動かされない。


 しかし、先程の言葉。


 高かった。俺が礼菜と行きたいよワンコ。


 ビンゴで当たったという、四枚のチケット。高かった、ということは陽二君が買ったという事だ。それを、嘘をついて明に渡した。礼菜と行きたいのに、行かない陽二君。礼菜こそ、陽二君と遊園地デートをしたいとよくもだえている。何故、行かない。


自画自賛じがじさんかよ。まあ、似合ってるんじゃないか?多分。明さん、お邪魔しました。ワンコ、またな。元気でいろよ」


 私を抱っこした時、陽二君がまた小さく、小さくささ」いた。


「可愛いな。何で兄貴なんだ」


 私は虚を突かれた。

、はつまり何で俺じゃないんだ。そういう意味だ。


 私は陽二君の手から明に渡された。


「兄貴、菜乃花なのかさんと結婚することになった。今日はそれを言いにきたんだ。バイトあるから帰るな。沙也加とか真由にはもし落ち込んでたら、話を聞いてやってって言ってあるから。こんなの聞くの、花火の後の方が良かったなら、気遣い下手でゴメン」


 まるで、逃げるように陽二君が礼菜の横を通り過ぎた。この男、やけに可愛い礼菜になびかないと思っていたら隠していただけだ。誰も気づいていない。


 礼菜の為だ。幸一への一途な恋を応援している自分が、礼菜を好きだとは陽二君の性格なら言わない。相手を困らせるなら、悲しませるなら、自分が身を引く。かつて、私の前から去ったのと同じだ。三つ子の魂百までというが、陽二君は何も変わっていない。


 幸一に失恋する礼菜」へ用意された、私の御守り、遊園地のチケット。沙也加や真由への根回しまでしてあるという。仲の良い隆史達にも声を掛けてあるのだろう。


 友達にここまでするのはお人好し。いくら自分の兄が原因でもここまではしない。他の男が好きな子に対して、ここまでするか?私なら、失恋して潰れた礼菜を口説き落とす。何年も応援なんてしない。


 これこそが、礼菜が長年恋い慕って諦められない陽二君という男の中身。私に素晴らしく幸福な日々を与えてくれた男の子。


 太陽のように周りを照らす。相手の為なら自分は二の次。陽二君の名前は実に皮肉な意味を持っていて、体を表している。二は単なる次男って意味だろうに、後藤家の父と母はビックリだろう。そろそろ化け犬になれて、人間になれたり喋れるなら、こういう知的な事を語り合いたい。


「あの……」


 泣きそうな顔で礼菜が陽二君の腕を掴んだ。


 よしいけ、礼菜。可愛い孫はすれ違ってきたが相思相愛。


「散々練習しただろう?本当は全部、どれだって良かったよ。いつも頑張ってた。だから、言わないよりは言った方がいいと思う。こんなに長く好かれて、嫌な顔する兄貴じゃない。違ったら、ぶん殴ってやるからさ。そんな男、俺が許さない。そんな最低な男はボコボコにしてやる」


 礼菜がポロポロと泣き出した。沙也加や真由に根回ししてくれたことに、いつも応援して励ましてくれたことに、今の思い遣りに溢れた言葉に感激したのだろう。


 礼菜がいつもの意を決した、覚悟を決めた顔をした。ほれ、言え。


 しかし、陽二君は気がつかないで礼菜の腕を引き剥がして、佐々木家から出て行った。私は一生懸命体を動かして、明の腕の中でもがいた。明が私を床に下ろしてくれたので、崩れるように座り込んだ礼菜に近寄った。


 今すぐ追いかけて、また告白しろ。幸一ではなく陽二君が好きだと叫び続けろ。何回も、何回も言ってきたはずだ。陽二君は鈍過ぎて、思い込みも激しいようだが、今日の弱った様子だと伝わるに違いない。


 チリン。


 私の鈴が響いた。


「健康祈願?」


 礼菜が私の首輪に付けられた、御守りを触った。


「それ、陽二君から。ワンコの為だけど、ワンコに礼菜をなぐさめて欲しいとも言ってた」


 明が礼菜に遊園地のチケットも渡した。


「貰い物って言ってたけど、違うと思う。お前さあ、陽二君は昔も今もこんなに相手を思い遣れてる。なのに、礼菜は幸一が好きだと嘘をついて陽二君にまとわりついたり、陽二君の彼女だと嘘ついて陽二君の邪魔したり。そんなだから好きになって貰えないんだよ」


 陽二君は鈍いが、礼菜の嘘も悪い。更には、人の恋路の邪魔。自分はあれこれ手伝ってもらっていて、片思いの辛さも知っているというのに。恋する乙女は支離滅裂で、大変である。これは自分の為の嘘は、良くないという見本。これで、礼菜はまた成長するだろう。もうすぐ成人。失敗は成長の糧だ。


 しかし、明も言い過ぎだ。礼菜が二度と陽二君に告白しなかったらどうする。しつこい礼菜が諦めたらどうしてくれる。両想いの二人が、すれ違って遠ざかってしまう。恋する礼菜は陽二君の幸福を願えてないが、他の人にはキチンと思い遣りに溢れている。


 チケットを受け取った礼菜が、ぐしゃぐしゃな顔で泣き出した。


「分か……。分かってるよ。だから、だから言おうと……。礼菜、それに……何度も言ったよ。好きだって……。名前も幸一さんじゃなくて……陽二君……」


 礼菜は、泣きながら明を見上げている。礼菜が自分を名前で呼ぶのは、小学生以来だ。かなり動揺している様子。


「こっちを向いてくれたら、本当の事を言おうなんていう根性が悪い。だから、相手にされないんだ。まあ、陽二君も相当鈍いけどな……。嘘つきにバツだ。ほら、立て。しっかり嘘を謝って、一回本当にフラれてこい。さっきみたいな事を言ってくれる陽二君なら、礼菜の気持ちを無下にしない。諦められないなら、幸一みたいに本気のど根性見せろ」


 幸一はへこたれない礼菜を見習って、結婚する事になった菜乃花なのかを手に入れた。浮気野郎が何度も告白をして、女性関係に関するあらゆる制限をかけて手に入れた女らしい。菜乃花は中々小悪魔な娘である。幸一の年中発情期を止めて、自分にだけ向けた。礼菜を見習って幸せを掴んだ幸一が、今度は礼菜の見本になるとは、これまた奇妙な話。


 明が自分の財布を出して、一万円札を何枚か出した。礼菜が大きく首を横に振った。私を抱っこして立ち上がる。


「自分で払う。ありがとう、お兄ちゃん。陽二君に謝る」


 礼菜は私と一緒に自分の部屋に戻った。私をベッドに寝かせて、隣に座った。


「こんな機械で謝罪なんて、誠意が無いよねワンコ」


 礼菜がスマホを見つめた。まあ、そうだ。私は肯定を伝えようと軽く吠えた。


「でも、バイト先に行くとか、邪魔だよね」


 それも同意なので、私はまた吠えた。


「どうしよう。そうだ、人が居ない間に謝ろう。陽二君が最近バイトばっかりだったのって、このせいだよね……」


 礼菜が手元の遊園地のチケットを見つめた。


「沙也加って、昔ちょっと陽二君が好きだったんだよ。私、泣いて取らないでって頼んだの。ワンコの時と同じ。取らないでって、私のものじゃないのにね。まとわりついて、付き合ってるって嘘ついたり、片思いしてるから協力して下さいとか、陽二君から女の人を遠ざけて……。彼女がいたら楽しい、欲しいって言ってるのに。人の幸せを願えるようにならないといけないよね」


 それも、その通り。色々と耳にはしている。私はまた小さく吠えた。しかし、礼菜。君が沙也加に泣きついたのは、沙也加に他の男を近付けて沙也加に彼氏が出来てからだったじゃないか。取らないでって頼んだのではなく、取られたくないって不幸を願っていたことを謝罪しただけ。礼菜は時々、自虐的。


 自分なりに、陽二君の役に立とうと頑張っていた。好きになってもらおうと、努力していた。陽二君の幸せを願わないとと、泣いていたのも知っている。


 春夏秋冬。


 徐々に減ってはいたが、私はずっと側で見てきた。


 ほら、行け。


 行け、礼菜。


 伊達に泣き続けてきた訳じゃないだろう?


 いつからなのか知らないが、同じように辛い思いをしていたらしい陽二君を迎えに行って欲しい。礼菜が何度も吠える私を抱きしめてくれた。


なぐさめてくれるのワンコ?ワンコはいつも優しいね。よし、ワンコ!ワンコで充電された。行ってくる!」


 辛そうな笑顔を残して、礼菜は私をリビングへ運んで、それから家から出て行った。私は礼菜と陽二君が心配で、眠れなかった。ソファで明と礼菜を待っていた。


「何なんだよ……見ろよ、ワンコ。読めるのか?読んでやろう」


 明が手に持っていたスマホを見せてくれた。ゲームかと思ったら、トークルームだった。送り主は幸一。小学生の礼菜が私に文字を教えたので、読める。私は実に賢い犬なのだ。


『かせた。でえない。もからバイト。がきだ。でうからうなよ。でもまでなぐさめてしい。のこときってってた?』


 分からん。私は賢いが、漢字とやらは読めない。


「礼菜泣かせた。バイトで追えない。明日も朝からバイト。礼菜が好きだ。自分で言うから言うなよ。でも明日までなぐさめて欲しい。俺のこと好きって知ってた?だって。皆、親まで知ってるつーの!隆史のやつ、俺にまで転送してくるなよ。幸一も早っ!あとで陽君、揶揄からかえってことだな。お騒がせな二人だなワンコ」


 良かった、というように笑って、明が私をギュッと抱きしめてくれた。アホ礼菜とか、言いながら、明は礼菜が大好きである。


「あーあ。礼菜に男かあ。陽君なら……。いやあ、ムカつくな。案外、速攻で手を出したりしそう。幸一と同じ遺伝子だからな。何がモテないだ。あいつ、本当に鈍いんだよな。ワンコ、陽二君はあちこちで女を泣かせてるらしいぜ。礼菜もずっと泣いてたしな。礼菜のあの好き好きに本気で気づかないで、礼菜は幸一が好きって信じてるのは陽君だけだしな。まあ、礼菜は苦労するな。早速、明日まで泣かせるつもりらしい。礼菜は嘘ついた天罰だな」


 良かった、良かったと、明はまたスマホでゲームを始めた。


「陽君、真面目だからな。バイトはまず投げ出さない。電話やメールで済ますような奴じゃないし。明日の夕方まで、好きな女泣かせておくって、不器用っていうか、悪い男だな。お前を拾った男は悪い男だなワンコ!きっとこれからも礼菜を泣かせるぞ。だから元気でいて、礼菜をなぐさめろよ」


 至極当然である。お騒がせな二人のお陰で、明は一人暮らしの自宅に帰らないで、佐々木家に泊まるだろう。私の体調を気にして、前よりも顔を見せてくれる。


 明の腕の中で、私は眠りに落ちていた。起きると、リビングに人が沢山いた。


 礼菜、明、菜乃花、沙也加、恵美奈、隆史、太一。佐々木家なので父と母が居るはずなのに、居ない。夢か?そういえば、もう脱いでいるざ礼菜は浴衣を着ていた。そうだ、父と母は花火大会に行くと言っていた。


 幸一が居ないのが不思議だと思っていたら、コンビニの袋を両手に持った幸一がやってきた。


 誰もかれもが、礼菜が長く嘘をつき過ぎた事に文句を言った。それから片思いの日々を労い、諦められないなら今までのようにひたすら頑張れと励ました。礼菜はうんと泣いた。礼菜はまた失恋したと思っていて、私も含めて他の者達は茶番に付き合っている。礼菜も陽二君も、良い人間関係を築いた。私のお陰である。


 泣いてばっかりではなく礼菜は笑いもした。辛く悲しい片思いの日々にあった素晴らしい時間。嬉しかったこと、楽しかったこと。こんなにも心配してくれる、兄や友人達。何度フラれても立ち直って奥さんを手に入れた幸一という手本。だんだん折れて、ついにほだされたという菜乃花の発言。礼菜には素晴らしい思い出と、人間関係があって、それに気がついて感謝できる。そういう良い娘に育った。


 途中でデート中だった真由が合流。そのうち父と母が帰ってきた。ギュウギュウの佐々木家。私はこんなに一度に沢山の人が、佐々木家に集まったのを見るのは初めてだった。


 絶景也。


 眼福、眼福。


 温かい手が私を撫でてくれる。温かい腕が私を抱きしめてくれる。


 可愛い孫達の初恋が実るのを見届けられたので、いつ死んでも良い。


 チリン。


 礼菜が私を抱っこした時、私の首輪の鈴が鳴った。


 お前も礼菜の晴れ着、見たいだろう?頼んでおいたからな。陽二君の言葉が蘇る。


 見たい。


 晴れ着とは成人式の振袖の事だろう。


 私はリビングに飾られた、数々の写真を眺めた。幼稚園、小学校、中学校、高校、大学、社会人。私は礼菜と明の人生を彩ってきた。父と母も実に幸せそうに笑っている。


 その父と母の若かりし頃の、素敵な一枚。


 母のウェディング姿と父のタキシード姿の幸せそうな写真。私は昔、礼菜の晴れ姿を見たいと思った事を思い出した。


 明の結婚式には間に合うかもしれない。それも危うい気配があるが、望みは高い。しかし、礼菜。明日でやっと両想い。恋人期間という試練を乗り越え、次のステップに上がれるか?その日はいつだ?


 はて、犬とは何年生きられるのだろう?



***



 翌日、物凄く気怠い日に、ほぼほぼ寝ている間に礼菜の恋は実った。


 記憶があまり無いが、何やら礼菜が何度も好きだと陽二君に告白していたが、うろ覚え。そもそも、礼菜の恋心は散々聞いてきたのでデジャブ。私は陽二君の腕の温かさに包まれて、まどろむ事に夢中だった。


 しかし、意識がハッキリとしていた時間もある。


 夕暮れ時の公園という素敵な場所。燃え上がるような赤い太陽。美しい世界だった。


 男らしく告白し、キスまでしてくれようとした陽二君を礼菜は恥ずかしさで突き飛ばした。


 結果、陽二君は警察官に職務質問をされてしまった。やはりお騒がせな二人である。


 礼菜はまだまだ手間がかかる娘らしい。



***


 

 ふぉふぉふぉ。


 何だって?


 耳が遠くて、聞こえないわ。


 眠いのに邪魔をするな。


 まぶたが重くて、世界も白んでいる。よく見えない。


 重いわ。この重さと温かいを通り越して、熱いのはすすむであろう。


 尻尾が濡れているのは、よだれか?


 赤子の口に、ジジイ犬の毛を入れるなど言語道断。明と嫁の躾がなっておらん。佐々木の母と父はまだまだ教育が足りないようだ。


 人とは長生きのようなので、しかと教えてもらわねばならんの。


 チリン。


 チリン。


 チリン。


 この温かさは特別。匂いも特別。誰の熱かすぐに分かる。今日もチリンと鳴る健康祈願の御守りの鈴。


 眩しい!


 何じゃ。


 音のない雷か?


「ワンコを譲ったら、お嫁さんが手に入った。良いことはするものだな」


 大好きな声が耳元でした。


 別の大好きな温もりを感じた。この、花のような匂いは間違えようがない。


 ふわふわとした、白い物が見える。


 そうじゃ。今日は前撮りとかいう奴だ。


 わしが入院したので急いだと聞いた。


 長生きしたが、もう目が良く見えん。


 しかし、リビングに飾られていた父と母の結婚式の写真がありありと思い出せる。


 大好きな礼菜と陽二君の顔も、瞼の裏にうつせる。


 合わせたら、念願の晴れ着姿。


 わしは佐々木 ワンコ。最近、後藤 ワンコにもなった。家が狭くなった。全く、まだワシに世話をされたいとは困った孫達である。


 春夏秋冬。


 何度も季節が巡った。


 世界はとても広くて、楽しかった。


 山に登ったし、海にも行った。


 川にも入ったし、森を駆け回った。


 人生は奇想天外で、切なくも面白かった。


 失恋をしたし、失恋を見た。


 片思いを見守り、両想いも見守った。


 生まれた意味も見つけた。


 佐々木ワンコのお陰で佐々木家はとても幸せだ。増えていく思い出と写真を彩り、子孫繁栄にも貢献した。


 胸を張って言える。世界で一番幸せを作った犬であろう。異論は認める。世間には横並びが沢山いるだろう。


 もうすぐ死ぬ。大往生である。しかし悔いがある。


 ひ孫が生まれたし、更に増えそうなので、まだまだ両家を彩り足りない。全くもって不服である。


 今日も、世界一幸せな犬になのに、なんとまあ世界一欲張りな犬であろうか。


 しつこく、諦めの悪い、ど根性がある育ての親に似たのじゃ。


 まだまだしぶとく生きようと決意している。

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佐々木ワンコの一生と佐々木礼菜の恋 あやぺん @crowdear32

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