ドッグミーツディスティニー


【秋】


 私の名前は、佐々木ワンコ。犬である。犬にワンコと名付けるセンスはどうかと思うだろう?名付け親が幼稚園生だったので仕方がない。


「ワンコ、見て。陽二ようじ君、今日も格好良いね」


 飼い主かつ娘の礼菜れいなが、ポーッとした顔でフェンス向こうのグラウンドを見つめて呟いた。佐々木 礼菜。私の娘は高校一年生で、片思いをしている。相手はまだ会ったこともない、話したこともない他校生。少女漫画好きで、中学校から女子校に通う、世間の少女からしたら少し発育が遅い礼菜。


「どれ?どの人?」


「ねえ、あの人格好良くない?あの人が陽二君?」


「違うよ。あれは高山君。陽二ようじ君の幼馴染。陽二君は向こう」


「どこ?よく見えるね。さすが恋する女は違うわ」


「視力が良いだけだよ、真由。揶揄からかわないで!」


「ねえ、礼菜。全然分からない。双眼鏡とかないの?」


「そんなの無いよ!ストーカーになっちゃう!」


 秋の夕暮れの下、可愛い少女達がきゃあきゃあ言っているのは、眼福。娘が増えた気分で嬉しい。これはストーカーに近いが、向こうの方に他にも女の子がいるので、まあ常識の範囲内だろう。


「昨日ね、偶然帰りに見かけたんだけど、陽二ようじ君は友達が倒した自転車を真っ先に起こしにいきました」


 まるで、自分のことのように自慢する礼菜。


「偶然?図書室で勉強して、時間潰してるくせに」


「手伝って話しかけようと思ったら、テキパキしすぎてて手伝えなかった……」


「また?いつになったら会うの?早くしないと取られちゃうよ?」


 礼菜が一気に悲しそうな、不安そうな顔になった。クリクリした大きな目は涙目。


「が、頑張るよ!き、今日こそ……」


 今日こそ。明日こそ。来月こそ。礼菜の口癖。気合いは十分。練習もしている。準備もしてある。今日、礼菜の手荷物には保冷バックに入った、スポーツドリンクが入っている。また、自分で飲むことになるのだろう。まあ、友人の後押しを力にする今日は、一歩を踏み出せるかもしれない。


 礼菜は恋に恋している。会ったこともない、話したこともない男の子の事で一喜一憂。くるくると表情を変える。


 多分、礼菜の友達、沙也加さやか真由まゆ恵美奈えみなも似たり寄ったり。佐々木家で何回か会っているが、いつも恋バナをしている。礼菜以外、好きな男の子もいないのに。女子高生とはそういうもの、らしい。礼菜の本棚に並ぶ少女漫画は、高校生が主役のものばかりだ。


「礼菜と陽二君が付き合ったら、陽二君に私達にも誰かを紹介してもらおうね」


「付き合うなんて無理だよ。でも幸一さんに頼んでみる。男子校なら、女子校と交流持ちたいとかあるかも?私も皆でなら、頑張れそう」


「その話、何度目?幸一さんって、陽二君のお兄さんでしょう?兄とは幼馴染みたいなのに、何で弟とは知り合いでもないのか?それは、礼菜がヘタレ過ぎだからだよ。女子高って出会いないんだから、頼んだよ。アルバイト禁止。制服で寄り道禁止。文化祭も招待制だなんて、どこで知り合えば良いんだか。招待制って、そもそも招待する男子がいないよ」


「酒井さん、こっそりアルバイトしてるんだって。昨日、バイト先の人を誘おうかなって、話してるの聞こえた。私もバイトしようかな。親が煩いから無理か」


 礼菜達が通うのは聖サカキバラ女子校。近隣では有名なお嬢様学校。この場の四人ともそこそこ裕福な家の、箱入り娘達。黒髪で化粧もしない、どこからどうみても清楚可憐な娘達。世間の女子高生よりも、かなり過保護に育ってきている。私も、親の気持ちは良く分かる。可愛い娘には、すこやかに育って欲しい。


「幸一さんに頼む前に、自分でも頑張る。お疲れさまです。これ、良かったら飲んでください。文化祭があるので、良かったら来てください」


 昨晩から練習している台詞を、礼菜が口にした。友人達が礼菜に頑張れ、と励ました。


 休日に、こそこそ男子校の部活を影から眺める少女達。眩しく、こそばゆい、甘酸っぱい青春の一ページである。


 夕陽が沈んでいき、夜が現れそうになった。


「陽二君、真面目だなあ……」


 練習が終わったグラウンド。礼菜達の他にいた女の子達は目当ての男子に会おうと、場所を移動している。しかし、礼菜達は動かない。礼菜のお目当て、陽二君はグラウンド整備に勤しんだ後、何人かで野球ボールを磨いて、それからさらにバットを振り出した。所謂いわゆる、自主練。


「門限あるし、帰ろうか。付き合わせちゃってごめんね。意気地なしでごめん。ワンコも疲れたよね、ごめんね」


「礼菜、もう少しだけ待ってみようよ」


「いやあや沙也加、礼菜の陽二君、見れたし、また次回。お腹減ったからお茶でもして帰ろう」


「そうそう。お茶して、うっかり話しすぎるかも」


「なるほど。うっかりしててごめんなさい。皆で勉強会していたの。喫茶店に迎えに来て?これならバッチリ」


 優しい礼菜には、優しい友達が出来た。礼菜が少し泣きそうな顔で、満面の笑みを浮かべた。


「ありがとう。よし、皆には来週フィナンシェをあげよう」


「私、礼菜のフィナンシェ好き」


 きゃあきゃあ言いながら歩き出した少女達。フェンスの向こうには、自主的に練習する健気な少年達。


 よきかな。よきかな。


 私は喫茶店には連れて行って貰えなかった。こっそり佐々木家に置いていかれた。まあ、犬なので仕方ない。それに若者のエネルギーに疲れた。


 この日の夜、礼菜の王子様の陽二君は、下校中友人達と「女の胸は何カップが良いか」の話題で盛り上がっていたらしく、礼菜はプンプン怒って帰ってきた。「おいで、ワンコ」と礼菜の部屋に呼ばれて、男の子はバカだとかアホだとか愚痴ぐちを聞かされた。


 礼菜は渡せなかった、渡さなかったスポーツドリンクを一気飲み。それから服を脱いで、鏡の前で、自分の胸の大きさを確認して大きなため息を吐いた。たわわ、とは言えない小ぶりの胸。掌サイズの胸は、ここで終わるのか、これからまだ成長するのか、誰にも分からない。


「バストアップ体操だって。効くのかな?」


 バストアップの検索は、閲覧制限には引っかからなかったらしい。そろそろ9時。礼菜のスマホが没収される。礼菜は時間を忘れているのか、バストアップ体操とやらに夢中。下着姿で鏡の前で何をしているんだ、この娘は。


 母が、ドアの隙間から微笑ましいというように笑っていた。それから母が私に向かって手招きした。気を遣ってやれ、そういうことだろう。私は仕方がないと、礼菜のパジャマを足で踏んだ。それから時計に向かって軽く吠えた。


「ハッ!ありがとうワンコ。もうこんな時間。お母さんに変な体操してるのを見られるところだった」


 もう見られている。とは、言えない。私は犬なので、喋れない。ある程度の意思疎通は出来るので、楽しい。礼菜が私が好きなブラッシングをしてくれた。部屋を出て、礼菜と一階に降りると、久々に明に会った。大学に、バイト、それに遊びで明は不在の事が多い。


「よおワンコ。なんか久々だな。似合うと思って、買ってきたぞ」


 私は明に服を着せられた。犬なのに、パンダになる服とは、これいかに。デート先の動物園で買ったという。しかし、母も礼菜も可愛いと褒め称えてくれる。明も満足そう。


 単身赴任先の父にも見せてやりたいと思ったら、母が写真を送っていた。姿が見える通話で、直接顔も見れた。家族四人揃ってニコニコ顔。その中心なのが、誇らしい。


 今日も私は佐々木家で、幸せな一日を終える。


 そもそも、私を拾ってくれた幸一と陽二君と、二人の母に感謝しないとならない。めっきり回数が減ったがたまに遊びにくる幸一。母と共に私と散歩をする後藤家の母。私のことを覚えていないようだが、それでも良いので、一から知り合うので良いので陽二君にも会いたいと思う今日この頃。好青年だと聞いているが、まあ、親同士の噂なんて当てにならない。


 しかし、私は、私をこの幸せで温かい世界に連れ出してくれた陽二君の腕の温もりを、未だに覚えている。あの小さな男の子は、礼菜の初恋を無下にしたりはしないだろう。


 もし違ったら、人生で初めて人に噛みつく所存である。



***



【1年後 秋】


 中学校一年生から、高校二年生になるまで、未だに陽二君と会わなかった礼菜が、ついに陽二君と知り合った。


 礼菜曰く、駅の階段で格好良く、王子様がお姫様を助けるように、映画やドラマのワンシーンみたいに、運命的に、助けてもらったらしい。これでは、誇張され過ぎていて推測が出来ない。長年の片思い相手と話せた礼菜の脳内は、お花畑のようである。ベッドの上で、犬の形の抱き枕を腕に抱きしめてゴロゴロしている。


 その次は切なそうなため息。緊張と照れと、パニックで礼菜は陽二君に悪い印象を与えたらしい。これも、誇張されているのか分からない。赤い顔になってゴロゴロしたり、白い顔になってため息を吐いては、スマホの画面を覗いている。トークルームとやらで、友人達と相談会をしているのだろう。


「よし、ワンコ。ついに、陽二君とワンコは再会するのよ。いい、いつも良い子だけど明日の朝はうんと良い子でいるのよ」


 私がボールを噛んでたわむれていると、礼菜が近寄ってきて背中を撫でた。明日の朝ということは、朝の散歩中のことだろう。礼菜が高校生になってから、私が好きだった散歩のコースを、陽二君を眺めるコースに変えられた。そこまでしても、遠くから見ているだけ。大勢でランニングをしているので、私も今までワザと駆け寄ったりはしていなかった。まあ、復讐ふくしゅうである。


 もう一年以上経ったので、明日は手伝ってやるか。全くもって、手間のかかる娘である。私は礼菜の頬を舐めようとして、止めた。新しい乳液の味が好きではない。代わりに首にしておく。


「あはは。くすぐったいよワンコ。最近首フェチだよね?あはははは。くすぐったいって」


 程々ほどほどにしないと、怒られるので、私は離れた。立ち上がった礼菜が、クローゼットの扉を開いた。それからタンスの引き出しも開けた。


「散歩だから、気合いを入れたワンピースは却下。でもジーパンは可愛くないし、足が太いってバレちゃう」


 足痩せだと言って、ストレッチやスクワットをしている礼菜の足は太くない。むしろ、もう少し太った方が良いと思う。緊張で、夕食前にアップルパイを三つも食べたという、謎の発言をしていたが、その位で良いだろう。しかし、夕食前にアップルパイを三つ。何処で食べたのか?小学生の時が懐かしい。大抵、礼菜と過ごしていて、何をしているのかほぼ知っていた。


「どう、ワンコ。似合う?可愛いって思ってくれたりするかな?」


 白いブラウスに、裾の広がった茶色のズボン。スカートのようにも見える。何とかって名前らしいが、女性の服の名称は覚え辛い。


 良く似合っている。私は一回吠えた。


 なのに、あれでもない、これでもないと礼菜のファッションショーが始まった。私は面倒なので一階に降りていった。歳を取ってきたので、若者の熱量に少々疲れる。


 母がソファに座って、くつろいでいたので私もソファに上がった。母の膝の上は落ち着く。


「ワンコも観る?」


 テレビには、まだ見た事がない世界が映っていた。何処までも広がる砂漠。幼い頃、世界は広かったと思ったが、地球というのはうんと広いらしい。


 私の背中を撫でる、水分が減ってきて、骨ばってきた母の手。広大な地球とやらで、私はこんなにも素晴らしい居場所を与えられた。何たる贅沢者ぜいたくもの。散歩コースを変えられたくらいで、小娘の恋愛を邪魔するなんてバチ当たりだなと、反省した。


 翌朝、礼菜は意気揚々と散歩に出掛けた。


 今日も少年達は元気よくランニングをしている。礼菜はいつものように遠くから見る位置。やれやれ、と私は無理矢理引っ張っていく事にした。退路がないと、突然行動派になるのが礼菜なので、近寄ったら自力でどうにかするだろう。


 少年達がランニングで通る道を歩いていると、やはり礼菜は覚悟を決めたという表情になった。


「笑顔よワンコ。それから褒めるの。好意には好意を返したくなるものだって、読んだもん。あと、沢山会うのが大事」


 礼菜がぎこちない笑顔を作った。私は実に十年以上振りに陽二君と目が合った。今まで遠かったが、今日は近いので匂いがした。何も変わらない匂いが、とても懐かしい。私を拾った時の、優しい顔立ちの小さな男の子の面影もある。


 礼菜が震える手で、しおらしく手を振った。私の体も震えている気がした。


「おはようございます陽二ようじ君。走る姿、格好良いね。あ、あの、陽二ようじ君も好きだけど犬も好きです。えっと、私も犬好きなんです」


 挨拶。笑顔。褒める。そして告白。朝からとんでも無いことを言い出した、我が娘。それも年頃の男子に対してで、更には人目があるのに。礼菜の脳みそは、沸騰ふっとうしてしまっているのだろう。目が泳いでいる。陽二君は相当嫌そうな顔をした。それから何故か振り返った。


「だからお前、こういうのは……」


 後ろに陽二君の幼馴染、高山 隆史たかしがいた。いつも礼菜に付き合って、陽二君の練習を見ていたので知っている。時々、礼菜が陽二君の帰り道に合わせて、私の散歩に出るので知っている。陽二君の隣には、大抵この隆史なる少年がいる。背が高く、整った顔立ちをしていて、陽二君はどちらかというと見劣りする。


 礼菜が陽二君と知り合う為に、連絡先を交換したとか言っていた。恋に恋する礼菜は、そのうちこの隆史とやらに目移りするかもしれない。


 命の恩人にして、今の幸せを与えてくれた少年に幸あれ。礼菜と親しくなっておくと、良い事があるぞ。私は陽二君に飛びかかった。単に、我慢出来なかっただけである。懐かしい匂い、遊んだ思い出、忘れていたものが噴出してきている。


 鍛え足りないのか、陽二君はよろめいて倒れた。尻餅をつかせてしまったが、謝罪もかねて、キスをした。頬は汗でしょっぱかったが、仕方ない。


「待ってワンコ!ダメ!大人しくしないと嫌われちゃう!大人しい子が好きなんだから!」


 一瞬、陽二君は茫然としたが、少し嬉しそうな顔をしてくれた。かつて私を見ていた、とても温かな眼差し。それに、私を撫でる温かな手。かなり大きく育ったが、やはり根っこは変わらないかもしれない。再会してみれば、ずっと会いたくてならなかったと感じた。礼菜は大好きだが、佐々木家を愛しているが、やはり陽二君は特別。人生初の、生きている喜びを与えてくれた人。この手の優しさは、忘れられない。


「酷いよワンコ。初めてを先に取るなんて。陽二ようじ君のファーストキスは私とだったのに。もうっ、邪魔するなら帰るよ」


 私の娘は、またなんていうアホな事を言い出す。陽二君が私を体の上からどかし、立ち上がった。陽二君は案の定、怪訝けげんそうな、不審者を見るような目で礼菜を見つめた。礼菜は私に怒っていて気がついていない。礼菜が「行くよ」と言いながら私のリードを引っ張った。嫌だ、折角会った陽二君と遊びたい。


 私の抵抗を、礼菜は抱っこするという手段で止めた。


「変な事言っちゃった……。また嫌われちゃうよワンコ……」


 私を腕に抱え、泣きながら走り出した礼菜。。また、ということは何回か同じように、告白しているのだろう。私は礼菜の肩をポンポンと叩いた。私からだと、陽二君が、怒っているような姿が見える。怒っているのか、照れ隠しか、どちらにしても礼菜に良い印象はないだろう。


 嫌がらせとでも思われたのかもしれない。年頃の男子を、友人の前ではずかしめるなど、逆効果。


 礼菜の長い初恋は、自分の手で摘み取る事になるらしい。まあ、そうしたら中々の美少年である隆史とやらがいる。嫌な臭いはしなかったし、類は友を呼ぶというので、陽二君の友人ならば大丈夫だろう。


 二日後。


 何をどう手配したのか、礼菜はついに後藤家に乗り込む。母や、礼菜の話をまとめると「友人達と陽二君の家でテスト勉強会」らしい。ついに、影からこそこそ陽二君を眺めるのを止めた礼菜。昨日も陽二君に会いに行ったらしいが、「もっと嫌われたかも。告白して、無理って……可愛くないからだ」と大泣きしていた。


 高校生男子なんて、可愛い子に告白されたらすぐ付き合う。間に受けていたらしい。礼菜はもう少し思慮深さを学んだ方が良い。今日も大丈夫なのか?


 後藤家の母が私も誘ってくれているので、見守る事が出来る。礼菜は陽二君の事で、いつも泣いている。かと思えば心底幸せそうな顔にもなる。恋に恋しているではなく、本気かもしれない。


 単身赴任先から帰ってくる、父を迎えに行くついでに、礼菜と私は後藤家のある駅に降ろされた。見知らぬ町だ。私が拾われたのは、この町ではない。


「ワンコちゃん」


 礼菜の友人、沙也加が私の名を呼んだ。朝から優しい手つきで撫でてもらえて、嬉しくてならない。後ろに立っている陽二君と目が合った。礼菜を見る目は冷ややか。しかし、沙也加を見る視線は微笑ましそう。


 ふむ。礼菜は失恋間近かもしれない。


 私は我慢出来なかったので、陽二君に飛びついた。抱っこをして、撫でて欲しい。


「な、なんで、なんで勉強会なのに犬を連れてくるんだよ!」


「会いたいと思って。陽二ようじ君も飼いたいくらい犬好きだって聞いたから」


 陽二君が礼菜を怒鳴りつけた。声変わりした男の子の声というのは、中々迫力がある。笑顔が大事。そう言わんばかりに、礼菜がぎこちなく笑った。


「よし行こう。陽二ようじの家、近いから。コンビニで飲み物買ってくるからお前はここで少し待ってろ」


 隆史が私を持ち上げて、陽二君に渡した。礼菜に目配せしたので、気を利かせたのだろう。やはり、この隆史は良い少年そうだ。一方、陽二君の印象は悪い。私にとっては、かけがえのない人物なので、是非友の背中を学んで成長して欲しいものである。もちろん、礼菜もだ。隆史と、名も知らぬ少年、そして沙也加と真由がコンビニへ向かっていった。


 礼菜と陽二君は二人きり。そして犬が一匹。私は陽二君に抱っこをしてもらえて、感激していた。私も大きく成長したが、陽二君はもっと大きくなっている。見た目でも分かるが、抱きしめられるとよく分かる。努力している、鍛えられた体だ。関心である。


「ワンコね、拾った人が飼ってくれませんかって家に頼みにきたの」


 陽二君の隣で、礼菜がアスファルトを眺めながら呟いた。礼菜が私と佐々木家の出会いと、後藤家の馴れ初めを話すのかと思ったら、礼菜は黙り込んでしまった。拾った人が頼みにきたのではなく、チラシを見た明が母に泣いてせがんで引き取りに行ったが正しい。


 礼菜自身には、記憶が無いのだろう。人から聞いた話を自分の記憶だと思っている節がある。私と陽二君を引き離した元凶。そう、思い続けている。礼菜は頑固な娘だ。なので、一度や二度フラれたくらいで、諦めないような気がした。


 陽二君は、しおらしく黙り込んだ礼菜を心配そうに、そして好ましそうに眺めていた。手は私の首回りをでてくれている。礼菜も私の背中を撫でてくれた。大好きな二人に同時に撫でられるのは、至福。礼菜の恋も、絶望的ではなさそうだ。


 黙って私を撫でる二人。友人達が戻ってきて、即座にバラバラに離れた。男子は男子、女子は女子でまとまり陽二君の家へと向かっていく。


 微笑ましい、甘くて酸っぱくて、可愛らしい光景。かつて、幼稚園で小さな男の子達や小さな女の子達が走り回っていた景色とは全く違う。これはこれで、また乙である。


 私はこの日、後藤家の母と久しぶりの幸一と仲良く散歩に出かけて、至極幸福な時間を過ごした。


「可愛いわね、礼菜ちゃん。また綺麗になっていたわね。前から礼儀正しい子だったけど、やっぱり良い子ね。なんでまた家のようなんかを好きでいてくれてるのかしら。もう、お母さん我慢出来なくて全部話したいくらい」


「お節介おばさんは止めておけよ。難しいお年頃なんだから。俺でさえ、ようの奴を揶揄からかって遊びたいのを我慢してるんだぜ。取り持つとか面倒だから無視してたけど、まさか自力で出会う前に駅で偶然知り合うなんて、ドラマみたいだな。なあ、ワンコ」


 その話は耳にタコである。隙あらば礼菜が「運命の出会い」を私に語る。駅の階段で隆史の鞄に突き落とされそうになった礼菜を、格好良く、スマートに助けてくれ、更には怪我が無いか確認されて、鞄も拾ってもらった。多分、礼菜のことなので誇張が入っている。


 礼菜と陽二君の出会い方が運命というのは不服である。私が二人の運命的存在、なら満足。陽二君は私を拾い、助けたから、巡り巡って礼菜という素敵な女性と知り合った。因果応報。善因善果。情けは人の為ならず。そういう感動的なストーリーを希望する。駅でぶつかって始まったラブストーリーでは、私の出番が無い。


 勉強会が終わり、私と礼菜は帰宅した。散歩をして、陽二君とも遊べたので私にとってはとても素晴らしい一日であった。


 また増えた、私の素晴らしい人生の一ページ。この日は、正に運命の日でもあった。私と陽二君との交流が始まったのである。



***



【半年後 春】



 再会してからというもの、陽二君は幸一と私に会いに来るようになった。父親がアレルギーなので諦めているが、飼いたい程犬好きの陽二君はかつて自分が拾った犬である私をキチンと覚えていた。十年以上経ったが、礼菜の謝罪は陽二君に届いた。


「泣いて、お母さんに俺をもう家に上げるなって言った?幼稚園と時のことなのに、ずっと謝ろうと思ってただなんて……。ワンコは幸せ者だな。佐々木家のおばさんも、明さんも良い人だし」


「私は?私は?陽二ようじ君!」


 陽二君はたまに幸一や後藤家の母と佐々木家に遊びに来る以外に、こうして休みの日の部活前後に私と散歩をしてくれる。絶対では無いが、ほぼ毎週末。礼菜は当然、ついてくる。


 私は正に恋のキューピッド。幸せなばかりではなく、突然生きてきた理由も見つかるとは人生とは不思議なものである。


 それから、陽二君は不思議な男である。


「礼菜はなあ。うん、良い子だ。俺の母親がべた褒めしてるからな。兄貴も絶対に振り向くさ」


 グサリ。礼菜の笑顔が引きつる。なのに陽二君は今日も気がつかない。陽二君は鈍かった。礼菜とどんどん親しくなっていくのに、礼菜の恋心には気がつかない。おまけに、礼菜が幸一を恋い慕っていると思っているらしい。


「……陽二ようじ君は?」


「ん?俺が何?」


陽二ようじ君も私のこと良い子……」


「あの、大丈夫ですか?」


 礼菜の決死の覚悟が、ポキリと折れた。スーパーの袋が破れて困っている老人に、陽二君が駆け寄っていく。慌てたように礼菜も追いかけた。


「うわあ。持つところ無しで、袋を二つも持つの大変ですよね。近いなら運びますよ」


 陽二君は礼菜の健気な恋心に相応しい好青年に成長していた。誰にでも親切。誰にでも優しい。私を拾った男の子は、素晴らしい青年となっていた。陽二君は断られる前に、もう老人の荷物を持っている。礼菜がポーッとした顔で陽二君を見つめていた。


「わ、私がもう一つを持ちます」


 私が前足で礼菜の靴を踏むと、我に返った礼菜が老人の手からスーパーの袋を奪った。


「デート中にすまんねえ」


「はい!これもデートです!」


 礼菜が満面の笑顔を老人に見せた。


「単なる散歩っす。こいつ、俺の兄貴に惚れてて、いきなり練習しだすんで気にしないで下さい。その帽子、俺もこの球団を応援してます」


 ガッカリしたような礼菜は、誰が見ても分かりやすい。老人も何か察しているようで、微笑ましそうに礼菜を見てくれた。これに気がつかない、陽二君。礼菜が明け透けなさ過ぎて、冗談だと思われている。礼菜は毎度清水の舞台から飛び降りる気持ちなのに。今日も帰って泣くかもしれない。陽二君は老人の帽子が、贔屓ひいきのプロ野球チームのグッズなのに夢中である。彼は野球バカである。


「ありがとう。助かったよ。佐々木君、試合、応援に行くよ。それにほら、高山隆史。結構話題になってて気にはなっていたんだ」


「俺じゃなくて隆史っすか?当然ですね。見て欲しいし、応援して欲しいです。あいつはセンスの塊です。なのにいつも努力してる。俺なんて色々足りなくてレギュラー取れなくて。ベンチに入れるかもギリギリなんで、試合に出れるように頑張ります」


 礼菜が勢いよく手を挙げた。


「応援に来てください!陽二ようじ君はいっつも頑張ってます。部活も、勉強も、両方。三年生になっても、グラウンド整備やボール磨きもしてます。同級生にも、後輩にも頼りにされる、キャプテンです!」


「うわっ。バラすなよ。レギュラーも取れないキャプテンって恥ずかしいだろ。ったく。デリカシーないよな礼菜は。そんなにめられると、事実と違うってガッカリされるだろう?すみません。弱小校ですけど、頑張ります」


 礼儀正しいお辞儀をして、陽二君が歩き出した。礼菜も品良く会釈してから、陽二君の背中を追い出す。老人と目が合ったので、私も同じ気持ちですと心の中で呟いてみた。


 若者は眩しい。青春ですね。

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