佐々木ワンコの一生と佐々木礼菜の恋

あやぺん

ドッグミーツチルドレン

 君の一番古い記憶って何?


 僕は冷たい雨に、ずぶ濡れになって、お腹が減っていて、寒くてならなかったこと。それから、小さい男の子の泣き顔。大きい男の子のキラキラ輝く眩しい笑顔。女の人の優しい微笑み。


「おかあさん、ワンコ、かわいそう」


「母さん!これで犬飼えるよ!これなら父さんは断らない!」


「飼えないわよ、こう。かわいそうね、よう。お父さんが出張中のうちに飼い主を探してあげましょうね。お父さんは、嫌なんじゃなくてアレルギーなの」


 僕は小さな男の子に持ち上げられた。


「もう、だいじょうぶだよ」


 僕はその日、温もりというのを初めて知った。



***



 捨て犬ワンコ。それが、僕の名前。僕を拾ったようじ君が付けてくれた。犬にそのままワンコって名前はおかしいと、ようじ君は「お兄ちゃん」だというこういち君に笑われていた。こういち君はようじ君のお迎えに一緒に来て、いつも一緒に走ってくれる。


 ようじ君のお父さんは病気というものらしく、僕の家はようじ君の二つ目の家、ようちえん。小さい男の子、女の子、僕には家族がたくさんいる。毎日楽しい。


 朝と夜が、何度も過ぎたある日、僕はようちえんから連れさらわれた。ようじ君が、泣いて、嫌だと言うので、僕も逃げようと思った。でも、僕をだっこした小さな女の子が、ニコニコ笑いながら僕にスリスリするので、逃げられなかった。温かいのは好きだ。


「れいな、ワンコのお世話、いっぱいするね」


 綺麗な女の人と、大きな男の人と、こういち君と同じくらいの大きさの男の子あきら君と、小さな女の子れいなちゃんの家が、僕の新しい家だと言われた。


 僕は捨て犬ワンコから、ささきワンコになった。そう言われた。


 ささき家は温かい。美味しいごはんも出てくる。ようちえん、みたいに走り回れないけど、毎日散歩というのに行ける。お父さんやお母さん、あきら君にれいなちゃん。皆がだっこしてくれる。れいなちゃんはいつもブラッシングしてくれる。散歩をして知ったけど、僕が知らないだけで、世界はうんと広かった。


 でも、ようじ君とこういち君がいない。たくさんいたお友達もいない。


 胸がくるしくて、寝ていると、お母さんが「さびしいの?ワンコ」とだっこしてくれるので、さびしいという気持ちだと分かった。


 僕はさびしかった。


 あきら君がしょうがっこう、れいなちゃんがようちえんに行ってしまう昼間なんて特に。



***



 あきら君とこういち君は仲良し。ボールを投げてくれるし、一緒に走ってくれる。ようじ君はこういち君に「おいてきぼり」にされて、よく泣く。目から水が流れるのは、なみだ。かなしい時に出るんだって。


 僕は、おいてきぼりは、さびしいと知っている。こういち君がようじ君をおいてきぼりにすると、あきら君がようじ君と手をつなぐ。僕もようじ君の横に並ぶ。


 こういち君とようじ君が遊びにくると、元気いっぱいで楽しい。なのに、れいなちゃんは部屋から出てこない。


 空から白くてふわふわした雨が降ってきた日も、れいなちゃんは家から出てこなかった。さむいけど、白いボールを投げたり、家を作ったり、すべり台をしたり、とても楽しかったのに。


 僕は、楽しかった。


 だけど、れいなちゃんは楽しくなかったみたい。おいてきぼりで、かなしかったらしい。ようじ君とこういち君が帰ったら、部屋から出てきたれいなちゃんが、わんわん言いながら泣いた。


「おがあ……さん。……っひっく。ワンコはうちの子になったのに、どうして……わたしより他所の家の子が好きなの?おかあさ……」


 お母さんのスカートにしがみついて、泣いているれいなちゃん。れいなちゃんは変だ。僕はれいなちゃんが好きだ。僕がれいなちゃんの足にくっつくと、れいなちゃんは僕に抱きついて、もっと泣いた。れいなちゃんの目から流れてくるなみだは、しょっぱかった。


 次の日の朝、お母さんがれいなちゃんに、いつもとは違う顔でお話をしていた。少し怒ったような、それでいて悲しそうな顔。


「れいな、ようじ君もう来ないって。れいなが泣くからガマンするみたいよ。ようじ君は偉い子。れいなも優しい子になろうね」


「れいな、悪くないもん」


 この後、れいなちゃんは、ようちえんに行かないで、部屋から出て来なかった。ご飯も食べない。遊ぼうとドアを叩いても、出てこなかった。


 しばらくたったある日、こういち君が遊びにきた。ようじ君はいなかった。


 初めて雪を知った日から、ようじ君はささき家に来なくなった。


「ごめんね、ワンコ」


 れいなちゃんは、時々僕に「ごめん」と言うようになった。



***


 春夏秋冬。


 何度も季節が巡る。


 大きな世界に、膨大な知識の海。


 僕は賢くなっていった。


 山に登ったし、海にも行った。


 川にも入ったし、森を駆け回った。


 佐々木ワンコになって、僕はとても幸せだ。優しい家族、美味しいご飯、楽しいお出かけ、増えていく思い出と写真の山。


 僕は胸を張って言える。世界で一番幸せだって。


***



【数年後】


 俺の名前は佐々木 ワンコ。犬なのに、ワンコ。ハチ、小鉄、太郎、大和とか格好良い名前が良かった。しかし、仕方がない。寒くない大きな家と、美味しいご飯と、温かい家族がいるので、名前くらいはあきらめる。


「じゃーん。どう?ワンコ。中学校の制服、可愛い?」


 佐々木 礼菜れいなが入学する私立中学校の制服を着て、リビングに現れた。上下紺色で、黒いタイツ。明るくない赤いリボン。いつものフワフワしたワンピースの方が可愛い。しかし、男は女をめておくもの。俺は礼菜の足元に近寄って、軽く吠えて、尻尾を振った。


「ありがとうワンコ」


 礼菜が細くてスラリとした指で、俺の頭を撫でてくれた。俺は、温かいこの手と礼菜の笑顔がとても好きだ。


「可愛いな礼菜ちゃん。すごく良い。お嬢様の友達出来たら紹介してくれよ」


「おい幸一こういち、お前ロリコンだったのか?っていうか、彼女に刺されるぞ。いや、刺されてしまえ!」


 ソファに座る、明と幸一が軽く殴り合った。


「ありがとう幸一さん。お兄ちゃん、酷い言葉は使わないの」


 幸一が、目を丸めてから、デレッとした顔になった。


「何その呼び方。こうちゃんより、グッときた」


 礼菜が小首を傾げた。幸一の隣で明が大きなため息を吐いた。


「グッと?大人っぽいって事ですよね?私、素敵な大人の女性になります。真面目で、優しくて、思いやりがある人」


 気合い十分というように、礼菜が両手の拳を握って、歯を見せて笑った。


「お兄ちゃんも、いいよなあ。妹が欲しかった。ねえ、礼菜ちゃん。幸一お兄ちゃんって呼んでみて。ようの奴、お兄ちゃんから兄貴になった。しかもバカ兄貴とか、アホ兄貴とか」


 幸一がまた明に殴られた。今度は腕。俺も幸一の膝にパンチをお見舞いしてやった。年中、発情期の幸一には「アホ」とか「バカ」が似合う。


 俺はふと、幸一の弟「陽二ようじ」は元気なのか?と想いをせた。俺の命の恩人。初めての友達。礼菜がヤキモチをいているのを知って、佐々木家に来なくなった優しい男の子。


「ワンコに家族が見つかったんだから、馴れ馴れしくしたらダメだ。家族を一番好きになってもらうようにしないとダメ」


 幸一をそう叱ったらしい。幼稚園生だった陽二君は、こうして思い出すと、とても大人だな。それにあの年齢で、自分より相手を思いやれるって、根っこの性格がそういう性格なのだろう。そういう奴は、人に好かれる。現に、沢山の友達に囲まれて、楽しく過ごしているらしい。


 兄の幸一は「逆に気にするだろ」と素知らぬ顔で佐々木家に遊びにき続けている。五つも歳が離れた、大人しい女の子を相手するのは嫌そうなのに、俺と礼菜の為に一緒に遊んでくれていた優しい男。兄弟とも、根っこは同じ。でも、方法は真逆。似ているけど、似てない二人。幸一はそのうち俺と遊ぶより明とゲームするようになった。今もそうだ。


 陽二君の顔は未だに覚えているが、礼菜のように大きくなっただろうから、会っても気がつかないだろう。


 礼菜が俺を抱き上げた。


「陽二君、ワンコに会いに来ないね。私のせいだねワンコ。ごめんね。私、陽二ようじ君みたいに素敵な人になるからね」


 俺にだけ聞こえるくらいの、小さな声だった。礼菜はいつも俺に謝る。多分、陽二君は俺のことなんて忘れている。幸一がそんなことを言っていた。礼菜が義理のバレンタインチョコに手紙を書いたので、渡そうとしたら陽二君は俺のこと忘れてたってボヤいていた。幸一は嘘をついて、礼菜にはそれを言わなかった。小学生三年なのにこんなに可愛い子にバレンタインにチョコを貰うとか生意気、と言っていたが、本気なのか嘘なのか分からない。弟が薄情者だと、思われたくないんじゃないだろうか?幸一はそういう奴だ。それに幸一は弟の陽二君がかなり好き。


 陽二君は小学校の友達と遊ぶのに夢中。野球やゲームに首ったけ。幸一やお母さん達の話ぶりだと、そうらしい。俺のことは、頭の中からどっかに飛んでいってしまった。助けられた方は覚えているが、助けた方なんてそんなものかもしれない。なのに、礼菜は幼かった自分の言葉を未だに悔やんでいる。母親からの叱責が、余程胸に響いたのだろう。


 礼菜、君はもう素敵な女の子だ。


 人間だったら、喋れたら、そう言えるのに、と俺は礼菜の頬を舐めた。


 明はサボるのに、親の手伝いをサボらない礼菜。俺の散歩や世話もいつも礼菜がしてくれる。俺を飼いたいとゴネて、親と約束をしたのは明なのに。受験の為の勉強も、テレビを見たいのに我慢してコツコツと頑張っていた。


 女子しかいない中学校に入学するので良かった。礼菜なら、良い友達が沢山出来るだろう。同じ小学校から、仲の良い沙也加さやかも合格している。


 すぐに彼女が変わる幸一みたいな男には引っかからないで欲しい。ほら、幸一はまたデレデレ顔で新しい彼女の写真を明に自慢している。幸一は気の良い奴なのに、女にダラシない。しかも、まだ子供の癖に。明も感化されてそうで、俺は心配。


「くすぐったいよ、ワンコ」


 人間になれたら、礼菜をお嫁さんにするのに。俺は礼菜以外の頬はめない。これは、キスの代わり。胸がキツく締め付けられる時がある。切ない、そういう感情だと知っている。礼菜が読む漫画からの知識。


 僕は礼菜に世界で一番幸せな女の子になって欲しい。



***



【半年後】



 青空の下、広いグラウンド。お父さんはビール片手に嬉しそうに笑っている。


「礼菜が野球に興味を持つなんて思わなかったな。今度のサッカーの試合も、明達と一緒に行くか?」


 お父さんはスポーツ観戦が好きだ。自分が運動出来ないから、痺れるプレイに燃えるらしい。あとお父さんは子供も好きだ。特に元気一杯の男の子。昔はよく明の友達を連れて、スポーツ観戦や釣りに行っていた。礼菜は置いてきぼり。置いてきぼりは悲しいのに。なので、俺はお父さんがあまり好きじゃない。もちろん、大好きな佐々木家の中では、の話。


「女子校だから、同い年の男の子の部活を見てみたかっただけだよお父さん。でも、面白いかも」


 礼菜は熱心にグラウンドを走る男の子達を見つめている。


「聞いたかワンコ?いやあ、釣りもスポーツ観戦も興味無いっていうし、料理や音楽なんて柄じゃないし、ようやく礼菜とも出掛けられるのか。みろ、礼菜。あの子は面白い球を投げてる。一番声も出してる」


 お父さんが指をさしたが、誰も彼も同じ服。それに帽子を被っていて顔も見えない。たまに帽子を取って、礼をするが、丸坊主なのでやっぱり同じ顔にしか見えない。


「気配りもしてるね、お父さん。高校野球でテレビに出るかもよ?昔から応援していましたって、インタビューされちゃうかも。佐々木さん、見る目がありますね」


 礼菜が手を握って、マイクのようにお父さんの口元に当てた。酔っ払いのお父さんは、益々上機嫌。娘にデレッデレの、締まりのない顔。俺も娘が欲しい。息子も欲しい。しかし、去勢というのをされてしまった。絶望。なんとか睾丸とやらで、ほぼ悪い病気になるかららしいので、仕方ない。佐々木家は居心地良いので、長生きしたい。


 礼菜も気配りをした。水筒の冷たいお茶をお父さんに。暑くてへばっている俺には、ずっと日傘をさしてくれている。


「ワンコ、あれ、陽二君だよ。私、初めて顔を見たよ。後で会いに行こうね」


 俺は礼菜の発言に目を丸めた。また俺にだけ聞こえるような、小さな声だった。いや、もう目は丸いので、丸くなったかは分からないが、驚いたという意味。


 試合後、お父さんと礼菜は俺を連れて駅に向かった。何か言いたげなのに礼菜は、何も言えなかった。お父さんは、夕方から始まるプロ野球の事で頭が一杯。


「あそこまで行ったのに、謝れなかった。私、成長しないねワンコ」


 家に帰宅すると、俺の足を拭きながら礼菜が苦笑いをした。それから、赤らんだ頬でにこやかに笑った。


「陽二君、一年生なのに試合に出てたね。走るの早かった。一杯声出して、皆の肩を叩いて、お母さん達や幸一君が褒めてる通りだった。同じ年なのに、私とは全然違うね。私なんて、謝る勇気もないのに……。お兄ちゃんに、アホ礼菜って言われるのを卒業しないと。お父さん、単純だからまた連れて行ってくれるよ」


 この日を境に、お父さんは後藤 陽二のファン第一号になった。礼菜のインタビュー作戦にまんまと乗せられたから。たまに観に行く試合のたびに、礼菜が陽二君を褒めるから。ありふれた苗字なのと、陽二君は佐々木家で「陽君」と名前が出るだけの存在。大きくなった陽二君と会ったことがないお父さんの中で、陽二君と陽君は繋がらないまま季節が過ぎていった。


 礼菜はその季節分、大人っぽくなっていった。入学した中学校のせいか、部活の華道部のせいか、しとやかな女の子に成長している。子供っぽさと、無邪気さはまだまだ残っているが、礼菜はきっと、目標にしている「素敵な女性」になれるだろう。


 陽二君、中学校最後の試合。正確には負けたので、最後の試合になった。お父さんはもうすっかり陽二君が平凡な少年だと知っている。中学野球を見る目的も、陽二君からだんだん他の選手に逸れていた。


「負けか。思っていたよりは、成長しなかったな。伸び代もあるのか?いやあ、それにしても高山は良いピッチャーだ。どこの高校に行くのか知りたいな。礼菜、あとあの山川って子は大物になるぞ。名門校に声をかけられてる」


 対戦校の選手を褒めるお父さんに、礼菜がふくれっ面になった。


「お父さんって見る目がない。山川?あんな子、ヤジとか飛ばして、礼儀も悪かった。ちょっと運動神経が良いからって威張っててさ。陽二君、泣きそうになってるのに、しっかり挨拶して、ニコニコ笑って皆を励ましてたよ!エラーされたのに、怒りもしなかった。高山って人はすごい怒ってたのに!」


 滅多に怒らない礼菜が、感情剥き出しで怒ったので、お父さんがビックリした。俺は驚かなかった。礼菜は四六時中、陽二君の話を俺にしている。漫画のような、恋に憧れる、年の割には幼くて、意外に恥ずかしがり屋の礼菜。勇気がなくて遠くで見ているしか出来ない。あれこれ思考錯誤して、父親を野球観戦に行かせてくっついて行くのが精一杯。今日も、差し入れにと作ったマドレーヌは、礼菜のおやつになるのだろう。


 つまり、そういうことだ。


 礼菜はいつの間にか、陽二君を好きになっていた。幼稚園生の時の俺の件、お母さん達や幸一君からの高評価。好印象の下地があって、そこに一生懸命な試合での姿。こんなの、簡単な方程式。


 気がつかない父親と、気がついている母親。


「お父さんさんなんて、大嫌い!最低!見る目無し!だから出世出来ないんだよ!ワンコ、行くよ」


 大嫌い。なんて破壊力抜群の攻撃。お父さんは娘の初恋と、大嫌いの爆弾と、暴言にしばらく放心していた。流石に言い過ぎだ。それに恋する女の子の、贔屓ひいき目フィルターと、中年親父の目線が同じ訳無い。


 これは礼菜が悪いと思ったので、俺はお父さんに寄り添った。嘘、俺は礼菜の恋心が嫌だった。キラキラしていて、眩しくて、それが俺以外に向けられている。それが、たまらなく切なくて、苦しい。


 礼菜は俺を見つめ、お父さんを見つめて、「ごめんなさい」と泣きながら駆け出した。


 この日から、しばらくの間、礼菜とお父さんはギクシャクしていた。お父さんの愚痴を聞くお母さん。ずっと、子供が欲しいって思っていたが、手塩にかけた娘が他所の男に取られるのを考えると、子持ちじゃなくて良かったとまで思った。そのぐらい、お父さんはお母さんにグチグチ言っていた。


 礼菜はお父さんに言い過ぎたけど、謝りたくないと、お父さんを無視し続けた。おはようございます。おやすみなさい。それしか口を利かない。いわゆる、反抗期ってやつ。


 こんなの、俺が好きな礼菜じゃない。俺が人間なら叱りつけてやるのに。折角お母さんが叱っても、礼菜は言い返す。お母さんは、電話でママ友に相談している。まあ、どこの家も、似ているっぽい。


 俺は知っている。礼菜は後でしっかり反省している。


 反抗期は大人への階段。


 礼菜はきっと、きっと、とても素敵な大人の女性になるだろう。猫は長生きすると、化け猫に変わって、人間になれるらしい。犬も長生きしたら、化け犬になれるだろうか。人間になったら、礼菜と夫婦になりたい。


 それなら、俺は誰よりも、陽二君よりも、良い男にならないといけない。実際の陽二君が、どんな男なのかは知らないが。礼菜のキラキラおめめを通した陽二君は、かなり美化されている。礼菜は少女漫画の読み過ぎだ。



***



【2月】


 もう一時間も礼菜は後藤家のある通りを、ウロウロしている。手には可愛い薄ピンク色の紙袋。


 2月14日。


 バレンタインデーというイベントの日。女の子が男の子に好きだという日。礼菜の初めての本命チョコは、お小遣いを貯めて買った、中学生にしては少し高い市販のチョコレート。


 会ったこともない女子から手作りチョコなんて、気持ち悪がられる。そう結論付けて、欲しい髪飾りや漫画を我慢して、貯金していた。相変わらず、礼菜の知識は少女漫画から。あと、明や幸一から。二人は中学生の陽二君に彼女が出来るのは許せん、と礼菜に嘘ばかり教える。


「今時、手作りとか無いよ礼菜ちゃん」


「何が入っているか分からないチョコなんて、寒気がする」


 折角、礼菜はあれこれと練習したのに、フォンダンショコラと綺麗なボンボンショコラは明と幸一の腹の中におさまった。今日だって、二人は礼菜とお母さんが作ったザッハトルテを食べている。幸一は、今夜は外泊だからアリバイよろしくと、相変わらず発情期。明も、最近そういう気配を感じる。俺はニヤニヤ笑う二人の足を、軽くかじっておいた。俺は死ぬまでピュアボーイ。ムカつく奴らだな。


「お兄さんと兄がお友達です。昔、拾ったワンコを引きとった家の子です。お陰でワンコも私も幸せ者です。ありがとうございます。いつも部活の試合で応援してました。受験、頑張って下さい」


 礼菜はブツブツと同じ台詞を繰り返している。手袋に、マフラー、それに帽子に白いコートなので寒くはなさそうだが、鼻が赤い。風邪も流行っているし、大丈夫なのか?


 勇気が出ないと、わざわざ俺をカゴに入れて、電車に乗せてきたのに、結局俺と礼菜は寒空の下、延々と散歩をしている。


「す、す、好きです、は早いよね。沙也加さやかちゃんも、まずは顔見知りにならないとって言ってたもん」


 そう言いながら、礼菜はまた後藤家から遠ざかった。心配した後藤家のお母さんが家から出てきた。名前を呼ばれた礼菜は雪のように白い顔を真っ赤にして、固まった。


 俺は後藤家のお母さんがとても好きだ。赤ちゃんの時にお世話になったのもあるし、たまに佐々木家に来ると一杯遊んで撫でてくれる。後藤家のお父さんがアレルギーじゃなかったら、俺は後藤ワンコだった。佐々木ワンコは世界で一番幸せだが、後藤ワンコでも同じだっただろう。


「迷子かと思って心配していたのよ。寒かったわよね」


 礼菜がブンブンと顔を横に振った。


「あ、あ、あ、あ、あの。今来た所です。こ、幸一さんは今日、お兄ちゃんとお泊まり会だそうです。い、いつも兄がお世話になっています。これ、お礼です。皆さんでどうぞ」


 後藤家のお母さんとは、殆ど話したことがない礼菜は、かなりどもった。手に持っていた紙袋を後藤家のお母さんに差し出し、それから90°くらいまでお辞儀。


「あ。あの。ワンコはとても元気です。私はお陰で幸せ者です。ワンコを家に連れて来てくれてありがとうございます。そんな薄着で立ち話をすると、お母様が風邪を引いてしまうので帰ります。失礼します」


 半ば無理やり、礼菜は後藤家のお母さんに紙袋を渡して、走り出した。


 礼菜、人生初の本気のバレンタインデーはこうして終わった。練習したのに、大失敗だと礼菜は布団に潜って、自分の情けなさに泣いていた。


 次の日、礼菜は案の定というか熱を出した。


 まだ、一度も話していない男の子に、こんなに真剣なのは恋に恋しているからなのか?人間の女の子って変だ。俺の手にはおえないかもしれない。


 気を利かせた後藤家のお母さんが、郵便ポストに入っていたとこにして、礼菜の本命チョコは無事に陽二君に届いた。お母さんが、熱が下がった礼菜にそう言っていた。


 バレンタインデーの二週間後、明とゲームをしにきた幸一がデリカシーのない暴言を吐いた。


「礼菜ちゃん。無記名でポストにバレンタインチョコとか、俺なら捨てるぜ」


 流石に俺は幸一に飛びかかった。噛み付いてやりたかったが、いつもの癖で抱っこされてしまった。撫でられると、気持ち良くて怒るのを忘れてしまう。


「俺でも捨てるな」


 おいコラ!礼菜の生活には、身近な男子といえば明と幸一しかいない。俺は明と幸一に向かって吠えた。明に腹減ったのか?とジャーキーを口の前に出された。思わず食べてしまった。情けないことに、条件反射。


「陽二君は優しいから、いかにも本命ってチョコレートをそんな風に無下にしないよ」


 会ったことも、話したこともないのに、礼菜の揺るぎのない信頼。ツンと澄ましてそっぽを向いた礼菜は、小学生のように頬を膨らませている。しかし、キラキラしていて眩しい。明と幸一が、バツが悪そうに顔を見合わせた。


「ねえ、幸一さん。男の人って、どういう女の子を好きになるの?」


 この一年、礼菜はよくこの質問を幸一にする。可愛い子と言われれば、可愛くないしなと嘆き、髪型を研究。料理上手と言われれば今まで以上に料理を覚え出す。エロい子と言われて真っ赤になったのに、新しい下着を買ってきた。スポーツブラなんて卒業と、俺に白いレースのブラとショーツを見せてきた。多分、明の本とか見る限り、礼菜の選んだ下着は全くエロくない。しかも、礼菜は洗濯に出すのが恥ずかしいのか未だにタンスの中に隠している。お母さんは気がついている。


 まあ、なんだかんだあるが、礼菜は少しずつ大人になっている。初恋を知られた頃は、恥ずかしさで揶揄からかわれるたびに怒ったり、ねたりしていたのに、成長したものだ。


「また質問?だから、可愛い……。ああ、これでも実践したら?何回も会う、秘密を共有、あと好意を伝えれば好意が返ってくるだって」


 幸一が礼菜にスマホを手渡した。礼菜は画面を熱心に見つめている。


「中学生、もうすぐ高校生男子なんて告白されたらすぐ付き合う。単純なアホだから」


 それはお前だ、と明が幸一の肩を軽く殴った。ふむふむ、と礼菜は真剣な顔で頷いている。


「まあ、可愛い子だったらだな。ブス礼菜は無理」


 礼菜が明の背中をグーで殴った。思いっきりふくれた面になっている。


「分かってるもん!でも肌の手入れに、ストレッチに、ワンコの散歩も頑張ってるから、何とかなるよ!」


 どこからどうみても、礼菜は可愛い女の子。俺が吠えて邪魔しないと、不埒ふらちな男も寄ってくる。


「お子様礼菜は彼女になれても、化けの皮ががれてすぐフラれるかもな。そもそも、お前、告れもしないじゃん。つーか、会ったことも無くて好きとか、アホだろ」


「アホじゃないよ!は、二十歳までには告白出来るようになるもん!行こう、ワンコ。お兄ちゃんと話しているとアホがうつる。幸一さん、陽二君にモテる方法を教えちゃダメですからね」


 立ち上がった礼菜が、俺を手招きした。二階の礼菜の部屋で、俺はのんびりと寝ることにした。礼菜のブラッシングは気持ち良い。


「ワンコ、陽二君に会いたいよね?私、高校生になったら頑張るね。こんなに長くごめんね。陽二君、近くの高校に通うんだよ。きっと部活するから、散歩してたら会えるよ。何回も会うのが大事だって。まず会わないと。会ってないのに、好きとか変なのかな。私、陽二君のこと好きじゃないのかも。だから頑張れないんだ。思い遣りもないし……。ワンコ、ごめんね」


 悲しそうな表情で、礼菜がポロリと涙を流した。俺が嫌いな味。しかし、俺は礼菜が泣くたびにキス出来る。


 思い遣りがない。礼菜は変だ。本人達が気にしていない、忘れてしまったことを未だに気に病んでいる。むしろ、俺は陽二君に会いたいとは思えない。憎き恋敵。いつも、いつも、礼菜を泣かしている男。会った瞬間、噛み付く自信がある。


 俺はそろそろ悟っていた。一途な礼菜の心には、俺の入る隙間はない。俺がなるべきなのは礼菜の恋人ではなく、明とは違って礼菜を見守り導く兄貴。それか、父親。犬って精神年齢が進むのが早い。礼菜を愛しいと思う気持ちは増えているが、去年や一昨年とは随分感じ方が違う。俺はもう、誰にでも、好きな人なら誰にでもキスをする。頬を舐めて、笑顔を作る。


 俺は礼菜に世界で一番幸せな女の子になって欲しい。そうしたら、お父さんもお母さんも世界一幸せな両親になる。


 化け犬になって人間にならなくて良いけど、長生きはしたい。リビングに飾ってある、お母さんのウェディング姿とお父さんのタキシード姿の幸せそうな写真。俺は礼菜の晴れ姿を見たい。

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