Second door
三津凛
第1話
哀しい音でも機械は器用に拾い上げる。詩子うたこの声を聞きながら私はそう思った。
「もう遅いよ、どうしたの」
「うん、ちょっと…」
詩子の声には張りがない。萎んでいく風船があげる最後のひと呼吸のように、寄る辺なく耳に響いて来る。
電話の向こうから聞こえてくる声は、本当の声ではないと誰かが言っていた。良く似た音域を機械が拾い上げて伝えてくれるのだ。
詩子の発する音の全てが、どこか哀しいものに沈んでいる。そんな哀しい音でも、機械は器用に拾い上げて伝えてくれる。
「ねぇ、大丈夫?」
詩子は黙ったまま静かに息をしている。終わりが見えない分、一方的に喋り続けられるよりもそれは辛い。
私はつい言葉が迸ほとばしりそうになる。何があったの、どうしたの。
その勢いはそのまま、勢いよくひねった水道の蛇口から噴き出す水のように今の詩子を叩いてしまいそうに思えた。
また口を開きかけて、私は呼吸を整える。今するべきことは多分言葉を尽くすことではないんじゃないだろうか。
「ちょっとお腹空いてきた。付き合って」
詩子はどこが安堵したように軽く笑う。
「うん。駅前のいつものコンビニでいいよね」
「うん」
電話を切ってからふと思う。
沈黙を壊さないままでいることも、慰めになるのだろうか。
詩子は顔をつき合わせても、しばらく黙ったままだった。肝心なことは何も言わない。
ほんの少しだけ虚ろな瞳で、紙パックのイチゴ・オレを飲んでいる。
「なにか話したいこと、あった?」
私はじりじりとして思わず言ってしまう。詩子が私の目を見て卑屈に笑った。
「ごめん、来るまでに忘れちゃった」
一目で嘘とわかる言い方と笑い声を、詩子は浮かべる。
ばか、ばか。私は2回、心の中で悪態をついた。1回目は詩子、2回目は自分に。詩子は口元に薄い笑みを浮かべたままストローに歯を立てている。
詩子は綺麗な顔をしている。それが今は無性に痛々しかった。ヒビの入った飴細工を見つけてしまったような、哀しい気分になった。
本当はもっと突っ込んで聞いて欲しいのかな。私は遠くの看板を見る振りをして、そっと詩子の横顔を見る。
詩子は無表情に立っていた。
なんとなくそこに、嫌な大人の顔を見た。何かあったのに、何もなかったようにしてしまう強さだか弱さだか分からないものを纏っている。
どうせ泣いて駄々をこねてもいつかはそれをしなければならない時が来るのに、どうして今無理に押し通してしまうのだろう。
「ばかな詩子」
私は取り残されたような気がして、独り言を呟いた。詩子が少し目を見開く。
「うん、ばかだね」
詩子は皮肉ぽく、唇を歪める。瞳が波に洗われた石のように光っている。
泣いてきたのかもしれない、と私は思った。
詩子は大きく息を吐いて、ようやくひと言夜空に放った。
「ふつうじゃないって、言われたの」
もう半分詩子は泣いていた。私は不思議と安堵している自分に気がついた。急に泣き出した詩子が、自分と近い所に帰ってきてくれたような気がした。そしてなんとなく、詩子が泣いたわけに見当がついた。
「ふつうって、なにかな」
私は渇いた声を出した。それは半分自分に向かって出したものでもあった。知っているようで、知らない平均点。
詩子はそれ以上何も言えないようだった。それが詩子なりの抗議に思えて、私にはどこか格好よく見えた。言葉でしか、理解してもらうことのできない人たちが酷く小さなものに思えたからだ。
「私みたいな人間はふつうじゃないの」
詩子はぼんやり呟いた。壁に向かって言うみたいに、同じ言葉が詩子の中にこだまをつくっているかもしれない。詩子はまた涙を流した。
詩子は女の子が好きだ。だからふつうじゃない。ふつうじゃないと言われる。世界はみんな、男を愛する女と女を愛する男たちが創り上げていると信じて疑わない人たちに。
私には難しいことは分からない。だから目の前にいる詩子が本当にふつうじゃないのか分からない。
詩子をふつうじゃないままにしておきたい人たちの気楽さも、その気楽さのために泣かされる詩子の苦しさも。
「好きだった」
詩子は哀しいものになってしまった過去に言い含めているようだった。
男と女だったら、手垢にまみれた単純なものなのに、どうしてこう難しくなってしまうのだろう。
詩子は子どもっぽく鼻をすすると、恥ずかしそうに涙を拭った。誰かのために泣いている、そんな涙の消し方だった。
詩子は強い。私なんかよりもずっとずっと、ずっと。もうとっくに先の方へと行ってしまった。私はまだ本当の泣き方を知らない。
私は詩子を近くに感じていた自分が滑稽で恥ずかしかった。誰のためでもいい、こんな風に悪口一つ言わずに静かに泣ける人は多分そういない。
「1人で格好つけんな。泣きたいなら、泣きなよ」
私は俯いたまま言った。横で詩子がふふっと笑う。
そして声もあげずに、静かに静かに泣き続けた。
散々泣いた後で、詩子は小さく欠伸をした。
「泣きすぎて眠い」
「うん。…私は泣いてないけど」
詩子がまた恥ずかしそうに笑って、呟いた。
「ありがとう」
「別になにもしてないよ」
急に恥ずかしさがこみ上げてきて、私はわざと顔を逸らした。
それから私たちは何も言わずに黙って歩いた。
まだ私は詩子の本当の闘いを知らない。それでも詩子は一番傷付いたときに、私を呼んだ。
それが妙に嬉しかった。
なにかあるたびに、時間も季節も忘れてしまいそうになる。
それでもこうしてただ何も言わず詩子と2人でいる時間が、愛おしい。
Second door 三津凛 @mitsurin12
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