くらげ

三津凛

第1話

神は細部に宿る。

どこかでそんな文句を見た憶えがある。その時はそういうこともあるのか、と留美はぼんやりと思った。

詩子うたこに出会うまで、その意味を留美が本当に知ることはなかった。


あ、不細工な女だな。

待ち合わせの金時計の下に佇む女を見つけたとき、留美は思わず呟きそうになった。わざと人並みに紛れて、海流を漂うくらげのように、留美はうろうろしてみる。間違いなくあの女だった。事前に送ってきた写真とは随分顔が違う。だが目印に被ってくると言っていた帽子は事前に写真で送られてきたものと同じだった。

遺伝と修正は残酷だな。

留美は冷ややかに思いながら、ここ半年ほどTwitterでやり取りして仲良くなった女…詩子の元へ歩いて行った。

「詩子さん」

留美はなるべく失望を露わにしないようにして、声をかけた。詩子がこちらを向く。

「わぁ、留美ちゃん?写真よりも美人」

「はぁ…」

留美は曖昧に笑う。

私、モデルしてるの。詩子はTwitterで仲良くなり始めた頃に、そう言った。留美は話半分に流していたが、それでもモデルなんて言われるとちょっとは期待してしまう。詩子は別段スタイルも良くないし、顔も不細工だった。鼻が大きくて長い。それが間抜けで、妙にむかつかせる。微かに重たげな奥二重の瞳が忙しなく動く。肌の色が不健康に生っ白い。蝋のようで、先の尖ったもので削りたくなる。締まりのない唇は分厚くて、全体的に間抜けで人に騙されやすそうな雰囲気が漂っていた。送られた写真では対照的に知的な美人だったことを思い出す。

どこをどういじったのだろうか、とそのことばかり留美は考えて詩子の顔を眺めてしまう。

「…私ね、実はパーツモデルなの」

「パーツモデル?」

「そう、手のパーツモデル」

詩子は留美の心中を見透かすように、少し悔しげに自分の両手をひらひらさせた。それは優雅な蝶が煽るように見えた。


神は細部に宿る。


なぜか詩子の手を見たときに、留美は思った。詩子の手は美しかった。骨格からして、美しく見せるために削り出したように繊細にできているのが見て取れた。指が細く、長い。爪が桜貝のように艶やかで淡い色を纏っている。

「…どう?信じてくれた?モデルだって」

詩子は自嘲気味に呟いた。留美はそっと詩子の手首を掴んでその繊細な指を眺めた。揃えられた指は気高い衛兵が寸分違わず整列しているようで神々しかった。

「こんなに美しい手は見たことないわ」

「…もしかして手フェチ?」

「そうじゃないけど」

留美はじっと、白い手を眺めながら言った。詩子は少し溜飲が下がったのか、余裕たっぷりに微笑んだ。

「いくらでも見せてあげる。…なんでもしてあげるわ」

そこでようやく、留美は本来の目的を思い出した。


「私ね、結構あなたみたいな人タイプよ」

詩子が首元に顔を埋めながらじゃれつく。

私はタイプじゃないんだけど。

喉元まで込み上げてきた言葉を留美は飲み込む。大きな鼻が当たる。それが鬱陶しくて、さりげなく身体を横にして詩子から逃れる。

所詮電子の上だけの付き合いに過ぎないTwitterで、実際に会うまでの仲になったのは、留美が近所にあるインドカレー屋の写真をなんとなく投稿したのがきっかけだった。


そのカレー屋さん、知ってる。チーズナンが最高なのよね。


思いがけず画面の向こう側にいる人が近くにいることに、留美はちょっと驚いた。それから詩子は、一つ一つの発信に絡んで来るようになった。

ねぇ、会わない?

詩子はそう間を置かず留美にDMを送ってきた。モデルをしているという素性にも興味があったし、留美は二つ返事で約束をした。それからほどなくして、詩子は安心したのか増長したのか自分がレズビアンであることを当たり前のように告げてきた。

詩子が手を伸ばして背中から抱きしめて来る。留美は柔らかな関節を持った長い指を眺めた。

「ねぇ、本当はこっちの人じゃないの?」

詩子は留美の背中にまとわりつく。

「違うと思う。こだわりがないだけ」

「素質はあると思うよ、ふふ」

なんの素質だ、と留美は反芻する。いつの間にか当初の目的から脱線して、こんなことをするハメになった。

「ねぇ、いつもこんなことしてるの?」

ふと興味を惹かれて身体ごと詩子の方に向き直る。詩子は嬉しそうに笑った。

不細工な顔で笑うな。

留美は冷ややかに目を細める。

「妬いてるの?」

誰が妬くか。その自信はどこから来るのだろう。

「こんなことはそんなにしないかなぁ…」

意味ありげに詩子はこちらを見る。そのいちいちもったいぶるような態度が気に入らない。詩子の間抜けな鼻を眺めると、美女揃いの源氏物語にも一人不細工な女がいたことを思い出す。

末摘花、といったのだっけ。あの女も象のように鼻が長くて、源氏に馬鹿にされていた。

「…私ね、好きになっちゃったかも」

「え?」

ねっとりした女の体温が鬱陶しい。留美はふと、詩子の胸の前で祈るように折られた指に目を落とす。

神は設計を間違えたみたいだ。詩子の顔も性格も好きではない。鬱陶しい。女の執拗さを煮て濾して、固めたような詩子をどうしても好きになれない。

「ねぇ、一人暮らし?」

留美はなるべく詩子の顔は見ないようにして言った。

「うん」

「私、今家には帰りたくないの」

「なら、私のとこにおいでよ」

詩子は間髪入れずに言った。単純な人だなぁ、と少しだけ愛おしくなる。でもそれは犬猫に向ける憐憫と少しも変わらない。

「じゃあ、そうするわ」

詩子は一人で舞い上がっている。留美は詩子の指ばかり見ていた。

詩子の唇をさりげなく避けながら、留美は美しい指だけ唇に含んだ。


詩子はくらげを飼っていた。

「くらげを飼ってる人なんて、初めて見たわ」

「うふふ」

詩子は大きな水槽の中で漂うくらげを真似て薄い身体を揺らしてみせる。

そういうことは美しいものがするから、儚げで妖しげで美しいのだと留美は毒づきたくなる。詩子は自分のことを不細工だとは思ってはいない。その自意識の強さが、鬱陶しくて無性に腹立だしい。

留美は無視して、意志があるのかないのか分からないくらげの彷徨を面白く眺めた。

「くらげって、寿命はどれくらいなの?」

「自然界のはもっと生きるかもだけど、飼われてるのは長くても半年か1年なんだって」

「ふうん」

詩子は得意げに水槽を眺める。

「水温とか水質にすごーく敏感なの。餌の食べ残しでも水質が変わるから、大変なのよ」

「見た目通り繊細なのね。でも手がかかるほど可愛いでしょう?」

詩子はくらげから視線を外して、留美を眺める。

「そうね、留美ちゃんと一緒。手のかかる子ほど可愛いわ」

留美は無視した。もう恋人気取りかと、うんざりする。でもシーツのよじれや、ベッドの絶え間ない軋みや喘ぎを声を思い出すと、それも責められないような気がした。

「なんか、あなたの手はくらげみたい」

「え?初めて言われた」

詩子は無邪気に喜ぶ。

「こんなに綺麗?」

「うん。だから好きだよ」

留美は指だけ見つめながら言った。その他の部位には興味がない。この人には手だけあればいいのに、と留美は本気で思った。

詩子は腕を海藻のように留美の首元に絡ませる。

「ねぇ、まだ歳を聞いてなかったわ」

「じゃあ、最初にそっちから教えて」

詩子はもう今年で30になるそうだ。留美は改めて詩子の顔を眺めた。この人にはちぐはぐな魅力がある。詩子は留美にも迫る。

「私は大学2年なの。…だから」

「じゃあまだ20?」

うん、と頷くと詩子は若い精力を吸い尽くす山姥のような貪欲な瞳になった。

罪悪感の欠片も感じられない詩子から留美は目を逸らして、短い命のくらげを見た。


奇妙な同棲生活は、それから半年近く続いた。詩子はたまにパーツモデルの仕事へ行き、留美は詩子の家から大学へ通った。

だがそのうち、詩子は仕事へ行くのをやめ、留美にも大学へ行くのをやめるように迫った。一度サークルの飲み会で朝帰りしたとき、詩子はアパートのエントランスに一晩中佇んでいた。その日は夜の間ずっと、雨が降っていた。まるで溺死人の亡霊が佇んでいるようで、留美はゾッとした。だがひょろりと伸びる手だけは不思議と綺麗で、色気があった。

詩子の可哀想な容姿に神が宿っているとしたら、それは間違いなくこの手だ、指だと留美は思った。

詩子は段々とその醜い本性を露わにしていった。

嫉妬深くて、どこまでも留美を独占しだした。無視して留美が出かけると、ヒステリーを起こして泣く。そしてそのあと猛烈な自己嫌悪に襲われるようだった。

「ねぇ、こんな私嫌いになる?」

「別に」

だって、初めから好きでもなんでもないもの。

留美は暗にそんな思いを込めて詩子を振り返る。こちらの気を引くように、わざとらしく嗚咽する不細工な女の気配を背中に感じたまま、漂うくらげをずっと留美は眺めた。

ゼリーの塊みたいな命がふよふよと通り過ぎて行く。

詩子が抱きついてくる。留美は好きにさせてやる。

「留美ちゃんは、本当は私のことなんか好きじゃないのよ。あなたが好きなのはね、私の手、手だけなの。知ってるんだから」

わざと詩子は留美の鼻先に自慢の指をひらひらさせる。くらげのように力なく広げられる指と揺らめきに、留美は麻薬を打たれたようにぼんやりする。

散々泣いた後で、詩子は執拗に留美の身体を求めてくる。

唇を重ねられないようにして、留美は詩子の手だけを握って、指だけを見ている。あとは知らない。


留美はそろそろ大学へ通わないと、単位が危うくなることを詩子に言った。詩子はもう完全に仕事をやめて、留美と閉じこもるようになっていた。

「じゃあ、大学やめればいいじゃない。無理して行くことないわ。私が稼いで、あなたを食べさせていくわ。それでいいじゃない?ね?」

この女は遂におかしくなったのか、と留美は思った。

「馬鹿なこと言わないでよ。仕事もやめたくせに。とにかく大学には行かないと。こうやってしてるのも、飽きた」

詩子は目を見開いて逆上した。

「誰のせいでこんな風になったと思ってるの!」

「あなたが勝手にのめり込んで、勝手に傷ついてるだけだよ」

留美は嗤った。

あぁ、馬鹿な女だ。不細工な女だ。この女の持ち物で美しいものは手しかない。

詩子は立ち上がって台所から包丁を持ち出した。刃先が揺れている。

「本気で刺す気なんてないくせに」

留美はわざと詩子の前に立って、包丁を握る手首を掴んだ。詩子が怯えたように身を硬くする。

意気地なしめ。

「ほら、刺したいなら刺してみなさいよ」

わざとシャツをはだけて、裸の胸に突きつけてやる。

詩子と出会って、世界はずっとずっと狭くなった。女の出す生暖かい液と、甘ったるい喘ぎと、持ち主には不釣り合いなほど美しい手だけしかここにはない。

水槽の中を漂うあのくらげたちとそう変わらない。嫉妬と恋情の中を自分たちはどこまでも流されて漂っている。

「もっと思い切りグサッといかないと、全然痛くないよ」

「やめて!やめて!そんなことしたくない!」

留美はわざと包丁を自分の胸に向かって突き刺す。詩子の指にはもう力が入っていない。それどころか、包丁を引っ込めようとすらしている。

意気地なし。

留美は自分もどこかおかしくなっているのかもしれない、とふと思った。

ちくっとした痛みがして、詩子が大声で泣き出した。

「ごめんなさい、ごめんなさい」

包丁の刃先は少し留美の胸を傷つけただけだった。それなのに詩子は殺人を犯したように泣き叫ぶ。

抱きついて胸元に鼻先を擦り付ける。馴れ馴れしい捨て犬のような動きに、留美は苛々させられる。包丁が足元に落ちる。

留美はそれを拾い上げて、握った。

「どうしようもなく、好きなの」

「うん」

詩子はうわ言のように繰り返す。ひと回りも上なのに、この女はどこまでも不細工で幼稚だった。

ねっとりした女の体温がまとわりついてくる。腐りかけの果実の発する香りを思わせる何かが、鼻先を掠める。

鬱陶しい。

涙で腫れ上がった瞳はより一層間抜けさと哀れさを醸している。

こんな女は好きじゃない。

詩子は両手で顔を覆う。揃えられた白い指は持ち主とは対照的に気高くて、整列した衛兵のように伸びている。

他の部位には興味がない。いらない。

「詩子」

留美は詩子の肩に手を置いた。詩子が両手を顔から外してこちらを見る。

「私、好きだよ」

詩子の瞳に力が入り始める。

留美は包丁を握り直した。

他の部位はいらない。欲しくない。好きじゃない。



留美はぼんやり、くらげを眺めていた。他の何よりも美しいその彷徨を飽きることなく眺めていた。

いきなり誰かがドアを蹴破って入ってくる。肩を強く揺すられて、ようやく我にかえった。

何かの粘膜の残骸が、大きな水槽の底に幾つか重なっている。

それはかつて詩子の飼っていたくらげの死骸だと、留美は気がついた。

「…あなたが、ここの住人の詩子さんですか?」

制服を着た男が留美を凝視して聞いてくる。

その男とは微妙に焦点が合わない。

なんだこの男は。

留美は不快に思いながら、男の視線の先に水槽の中で漂うものに向けられていることに気づいた。自然と笑みがこぼれる。

「違います。詩子はいません」

「どこにいるんだ!」

留美は舌打ちをした。

あんな女のことは知らない。思い出したくもない。

ホルマリンの香りが満ちる。美しい手はそのままの姿で逃げることもせず囲われている。

この手以外は何もいらない。

「他の部分はいらなかったから、邪魔だったから、捨てました」

留美はそう言って、水槽の中でくらげのように揺らめく詩子の両手に目を戻した。

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くらげ 三津凛 @mitsurin12

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