一番星

三津凛

第1話

栞に星の見える場所が書いてあった。

なんて回りくどいことをするのだろう。

そしてそんな事を今の時代に平気でやる希和子のことを、愛おしいと感じた。

押花をあしらった手製の栞が、渡された文庫本に最初から挟まっていたことに私は全く気がつかなかった。

もう一週間ほど前に渡されたその文庫本を私は結局一度も開いていなかった。

「ねぇ、あの本ちゃんと読んだ?」

少し怒ったような希和子の声に、私は少しだけ戸惑った。

「…ごめん、まだ読んでない」

「今夜、絶対に読んで」

「うん」

そんなに面白いことが書いてあるのだろうか、と私は机の上に置きっ放しにしている文庫本の表紙を思い浮かべた。

言われた通りに夕飯を食べ終わった後、ぱらぱらとそれをめくった。正直、本を読むことは好きではない。活字の、小さな蟻の群れのような羅列が苦手だった。ぞわぞわとする。

希和子に渡された文庫本は、小説ではなくて詩集のようだった。色々な国の色々な人たちが短く愛や恋愛について書いている。

何気なくめくったページにプラトンの詩が載っている。プラトンって、哲学者じゃなかったっけ。



星学者アステルへ/プラトン


私のアステルよ

おまえは 空の星を仰ぎ見る

私は ああ 空になりたい

数かぎりない 星の目で

おまえを 見るため



そして、そこに手製の栞が挟まっていた。何気なく裏返すと、小高い丘の上にある公園の名前と待ち合わせの時間が書いてあった。

まさか、一週間前から希和子は待っていたのだろうか。

私は電話をかけようとして、やめた。あえて手のかかる、成功するか分からないことに賭けた希和子に報いるには、私ももどかしい想いをしなければフェアではないと思った。

思い切り自転車を漕いで、あの栞と文庫本をカゴに突っ込んで希和子の元に向かった。


「ごめん、待った?」

木製のベンチに座った希和子は、そのままの姿勢で首を振った。

ふと安堵しかけたとき、希和子は笑う。

「もう、一週間こうやって待ち続けたから、今日の30分の遅刻くらいなんてことないよ」

「ごめん…気づかなかった」

希和子は黙ったまま、ちょっと腰をずらして暗に隣に座るように促した。私も素直に隣に座る。そこで希和子はようやく安心したように、夜空に向かってため息を吐いた。

「怒ってる?」

「ううん。嬉しいだけ」

私は希和子の遠慮がちな横顔を眺めた。希和子は変わっている。メール一つで、言いたいことは言えるだろうに、頑なにそれをしない。まるで平安貴族が和歌を交わすことで、お互いの気持ちを推し量るようなのと似ている。

「ねぇ、これ詩集だったのね。栞は希和子が作ったの?」

「うん。花が綺麗だったけど、このまま枯れちゃうのもったいなくて」

「繊細なんだね…」

希和子がこちらを振り向いて、私の目を見る。幾分か期待を込めた色を向けられる。

「詩、読んでみた?」

嘘でも読んだと言えばいいのか、本当のことを言うのが希和子のためなのか私は悩んだ。

「……ごめん、急いで出てきたから栞の挟まってたページの所しか読んでないの」

悩んだ挙句、私は本当のことを言った。

「そう…」

希和子は露骨にがっかりした顔をを見せた。それでも健気に顔色を変えて、笑ってみせる。

「プラトンの詩でしょ。私の好きな詩の一つなのよ、ふふ」

「…でも、よく分からないわ」

希和子はそっと私の手から詩集を取って、目を通す。水銀灯の明かりが飴色に染まって見えるページと、対照的に白く映える希和子の顔を照らす。

とても綺麗だと思った。

風もなく、穏やかな夜だった。ふと見上げると、人口の明かりを逃れた星がいくつか瞬いている。希和子も一緒に夜空を見上げる。

「例えばね」

希和子は詩集を手に持ったまま立ち上がって、少し歩いた。私は動かず見守る。

「…こうして、あなたが空を見上げるじゃない?だから、…私は ああ 空になりたい。数かぎりない 星の目で おまえを 見るため。って、使うのよ…素敵でしょう?」

私は希和子の声を反芻しながら、頷いた。



おまえは 空の星を仰ぎ見る

私は ああ 空になりたい

数かぎりない 星の目で

おまえを 見るため



「ねぇ、それって…」

希和子は明るく笑って、私を遮った。

「素敵でしょう?…好きって言わなくてもいいの」

銀色の灯りを投げてくる水銀灯は、希和子の心まで映してはくれない。

私は返された詩集のページを眺めながら、言葉の裏に隠された想いを汲もうとする。

なんて回りくどい。

言いたいことがあれば、メールで事足りる。全てが明らかになって、終わる。

私の想いを見透かしたように、希和子は小さく言った。

「好きって言葉って、なんだか呪いみたいなものだなぁって私思うの…特に相手が……」

「異性じゃなかったら…」

私は希和子の跡を引き継いだ。

「ふふ、そういうこと。ただこうやって2人で星を見たかっただけなの。ごめんね、ワガママ言って。栞、あげる」

痛いほど純化されて向こう側が透けて見えるほどの結晶に、刺されるがままにさせている。私はそんな事を思いながら、黙って星ばかり見ていた。

希和子が軽く咳き込んで、苦しそうに息を吐いた。

「大丈夫?」

「…うん、大丈夫。喉の調子が最近よくないみたい」

私は何気なく、詩集をめくろうとした。

「今は読まないで」

希和子が強い調子で止めて、笑った。

「読めって言ったり、読むなって言ったり、ワガママなんだから」

私が文句を言うと、希和子も頷いた。

「そう、私はワガママなの。だから、気をつけてね」

恋する女の子の目を向けて、希和子は言った。


私は詩集をまた机の上に置きっ放しのまま、存在を忘れていた。

希和子の告白とも取れるやり取りを反芻しながら、どう返せばいいのか分からなかった。そのうち、希和子は学校を休みがちになった。

咳が止まらない、と最後にこぼしていた事を思い出す。

私は希和子手製の栞を挟んだページだけを、こっそりとめくった。



おまえは 空の星を仰ぎ見る

私は ああ 空になりたい

数かぎりない 星の目で

おまえを 見るため



私も同じように空になりたいと思うだろうか。もっと、直接的な何かになりたいと私は思うに違いない。

詩集を閉じて、私は長い事考え込んだ。


「希和子ちゃん、結核だってよ」

同級生の声が、さざ波のように聞こえてくる。

希和子は罹る病気も古風だった。不治の病、たくさんの天才たちを葬ってきた恐ろしい菌に蝕まれている。


私は読むな、という希和子の声を無視して詩集を最後まで読んだ。どうという感興も覚えなかった。こういうのは、単体で存在したって意味がない。誰かが想いを込めて、唇に乗せるから感動するのだ。

ふと最後のページに違和感を感じて薄紙をめくると、また押花をあしらった手製の栞が挟まっていた。



恋は放浪者の子ども、規律なんて何のその。

あなたが私を好きじゃないなら、私が好きになる。私があなたを好きになったら、せいぜい用心することね。



また誰かの詩なのだろうか。

あなたが私を好きじゃないなら…なんて、誰が決めたのだろう。

「好き、って言葉は呪いじゃなかったの?希和子」

呪いの言葉を託してしまったから、呪いを受けて希和子は結核になったのだろうか。

いつの間にこんな栞を挟んだのだろう。あの夜、希和子が詩集を持って歩いていた時にこっそり挟んだのだろうか。

なんて回りくどい。

ふと気がついて、2枚の栞に押されている花の種類とその花言葉を調べてみる。

「あなたを信じて待つ」。

1枚目の栞の花は紫のアネモネだった。

「私の想いを受けてください」。

2枚の栞の花はハナミズキだ。

「…本当、回りくどくて馬鹿みたい」

病室の中で、壊れそうな肺を抱えている希和子を想った。


Am I indifferent to you?

私があなたに関心がないとでも?


たかが花に、理解されるか分かりもしないのにここまで意味を込める女の子は多分いない。

私はハナミズキの押された栞を手に取って、どうするべきかを考えた。

都会の昼間のような夜の中で、輝く星を探すように、見えそうで見えない心を覗くために、希和子と私について考えた。


希和子は段々と良くなっているようだった。私はその間にペチニュアで、押花を作り栞を作った。希和子なら、なんとなく分かってくれるだろうと予感した。

私も回りくどいことをしている。綺麗な和紙が何度も漉されていく中で姿を表すように、人の想いも本当はこんな風に何度も濾してやる必要があるのではないかと思った。詩集の中から、なんとか私の気持ちに近いものを選んで、栞の背に書き込んで挟んで置いた。



ようやく希和子が登校できるようになった頃は、もう制服も夏服に変わって定期試験も間近に迫っていた。

放課後、一緒に帰りながら私は希和子に詩集を返した。

「本、返す」

私は少し痩せた希和子の頭に詩集を乗せる。

「うん、ありがとう」

希和子は笑って受け取ると、嬉しさを隠そうともせずに言う。

「最後まで読んでくれたんだ」

最後まで、二重の意味を込められた言葉に私は苦笑する。

この子はどこまでも回りくどい。不器用すぎるのだろうか。

「最後まで読んだよ。良かった。特に、希和子って人の詩が良かったよね」

「え?」

私は希和子の目は見ずに、歩き続けた。希和子は私の腕を掴むと、ニヤッと笑う。

「ちょっと寄り道」

「どこ行くの?」

「星を見るのよ」

「もう陽が長くなってるから、見えないよ」

希和子は私の返事は聞かずに反対方向に歩き出す。


そしてあの夜星を一緒に見た公園までやって来た。

希和子と私はあの時座ったのと同じベンチに収まって、暮れていく空を眺めた。星なんて一向に見えてこない。

希和子がおもむろに詩集をめくり出す。

「そんなの、家帰って読めばいいじゃん」

急に気恥ずかしさがこみ上げて来て、私は詩集を奪いたくなる。

「なに焦ってるの」

希和子は呆気なく、私の挟んだ栞を見つけた。

ふうん、と希和子は嬉しそうに鼻を鳴らす。ペチニュアを眺めた後で、栞を裏返す。書きつけられた詩を読んで、希和子は耳まで赤くなって咳き込んだ。

「あっ、ごめん。大丈夫?」

「うん…大丈夫」

涙目になりながらも、希和子は真っ直ぐに私を見た。

「こんな私と居て、心安らぐのね」

希和子はあっさりと意味を見抜く。やっぱりあんな風に告白する人だなぁと私は改めて思った。

「…裏に書いた詩って、サッフォーでしょ。凄く直接的なの選んだのね。嬉しいけど…ふふ。でもペチニュアの花言葉とは真逆よね」

「そうかな?」

「あ、一番星見つけた」

希和子がベンチから立ち上がる。その声と横顔が壊れそうなほど幼く見えて、私は不安さえ覚えた。

真っ直ぐに、小さな銀色の星に希和子の瞳が結ばれる。



おまえは 空の星を仰ぎ見る

私は ああ 空になりたい

数かぎりない 星の目で

おまえを 見るため



やっと分かった。希和子が言いたかったのは、こういうことだ。

「ねぇ、私も空になりたい」

希和子は身を乗り出して、思いがけずに顕れた一番星を飽かずに眺めている。

「…何か言った?」

「ばーか、なんでもない」

私は誤魔化して笑った。希和子の詩集が忘れられたようにベンチに置かれて表紙を見せている。私のあげた栞を握って、希和子は星ばかり探して見ている。

何気なく詩集のページをめくった。詩も文学の良さも、本当の所は分からない。それでも、私は偶然めくったページの脈絡のない文字と、現実の重なりに目を細めた。

だから、私たちは星を探すのだろうか。それは叶わない恋に手を伸ばそうとするのと、似ている。

不意に希和子が振り返って、言う。

「…私と付き合ってほしいの」

「もう、付き合ってるんじゃなかったの?」

私が返すと、希和子は遠慮がちに笑った後で手招きした。


「一緒に、星を探しましょう」




星はおそらく神々しい精神の座である。

ここで悪徳がはびこっているように、あそこでは美徳が主人である。

フォン・ハラー

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一番星 三津凛 @mitsurin12

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