#5

「そげんな、庭に木があるじゃろ」


 ええ、と目線を庭のほうへ向ける。老朽化のせいか気象設定config‐Cli重力設定config‐Graにズレが生じているらしく、離れたところでレタスやエンドウマメ、グレープフルーツまでもがぽつりぽつりと降っていた。もうしばらくしたらビワが降り出すそうだ。庭の地面にもそんな「作物の雨」らしき残骸がいくつか転がっているのが確認できた。

 そんな中でその木だけは、不思議な色彩をまとって庭の最奥にただただ存在していた。淡いピンクの花びらが流されていく映像は、わたしのこめかみを突き刺すようで。


「一年でも、今が一番きれいなんじゃ。見頃に駆け付けられるたぁ、おまいさん、ツイとるかもしれんな……」


 惑星開拓地質調査サポートシステムPReGESS実行アクティベートしようとしたが、タカハシさんはただ黙って首を横に振った。そのまましわだらけの顔をいたずらっ子のように綻ばせて、


「何の木か、当ててみ」

「……さぁ、わたしには分かりかねます。植物学者ではないんですよ」

「名前くらい、知っとるはずにから」


 幾重にも咲き乱れるその威容を、荘厳を。

 わたしは。知っていたはず、なの、に。


「……あ、あれ……」


 色彩に溺れていくわたしの頬を、濡れた記憶がつたって、零れた。

 この色は、わたしがずっと探していたもの。

 生まれた場所を喪失したわたしの、道しるべの花びら。


「……母さんの、わたしが産まれた故郷の色だ」


 ロンドン、リージェンツ・パークで母と父と見たはずのサクラ。狂い咲き生命を謳歌するその姿を、幼きころのわたしははしゃぎながら見ていた。

 断片的な記憶が再生されるのは、ここまでが限界。けれど、それでもう、十分だった。


「この桜はな、ソメイヨシノっちゅうんや。あたしの親父がわざわざオーイタから苗木で持って来たんじゃ。生まれ故郷を思い出せるーって、言い張ってなぁ」


 その考えが。その想いが。

 今なら、心臓が突き刺されるくらいに理解できる。


「ええ、これはとても——とても、卑怯なくらいですね」


 頬をつたった水滴の痕跡を慌てて擦り消しながら、わたしは弱々しくタカハシさんを睨む。


「昔なぁ、ここの近くのレーザーアレイをな、修理しに来おったエンジニアの一家がおってな……そこの娘さんと、おまいさんはよう似とるわ」


 まぶたを拭うわたしのことなど視界に映らないかのように、滔々と喋り続けた。まるで、桜の木の下にいた誰かに、語りかけるように。


「あたしは、ずっと帰りたかったんや。こんなどこだか分からない筒んなかやない、本物の地面がある場所、あたしの生まれた場所にのぅ。けどあの女、こう言いおった。生まれた場所って、そんなに重要なことかな、と。んで食ってかかったら、その娘は地球やのうて、火星へ向かう航路のど真ん中で産まれたんじゃとな」


 惑星間出産。宇宙空間を今よりはりかに高いコストと長い時間をかけて移動していた時代では、そこまでめずらしいことでもなかった。法整備の遅れにより、戸籍の取得がやや困難だった時期もあったそうだ。


「その娘はなー、またやらしいヤツでっちゃ、得意げに言うんよ……わたしの故郷はシームレスなものなの、だからここもあたしの故郷なんだ、だのなんだのって。今のおまいさんみたいに変なところで荒んでて、変なところで優しい顔をする人でなしやけん」

「最後の表現、矛盾してないですか……」


 タカハシさんの上半身が、ぐらりと揺れる。慌てて駆け寄り、上体を元の体勢に戻してやる。わたしの腕にすがりつく、砂のように崩れていきそうなしわだらけの手の甲。肉体を生かそうとするはずの血に、綿のように首を絞められている、荒い呼吸。


「……桜んとこまで、運んじゃくれんかえ……この身体じゃあ、日が暮れてまう」


 ほとんど抱きかかえるようにして、わたしとタカハシさんは引きずられるように進んでいく。畳の軋む音、飼い主を案じてミャアミャアと鳴きだすネコ。縁側で一度腕を外して、下に降りられるようサンダルを揃えにかかる。


「……火星じゃ、桜は咲くんかえ」

「見かけたこともないですね」

「そりゃあ、寂しい星っちゃ……ひとは、桜を知らんままじゃ死ねんのよ」


 そう言うタカハシさんの顔は、すでにひどく白いものになっていた。白髪に淡いピンクの花びらの色彩が、嫌みなく似合う。桜だけが、わたしたちの生まれた場所を知っている。


「たしかに、この身体では火星までの旅路を耐えられませんね……」


 だぶだぶのズボンの裾をめくり上げ、彼女の脚の指を一本ずつ、色落ちしたサンダルへ通す。天空までを緑に囲まれた、錯覚した風景のまんなかで。根を張り狂い咲くその姿は、静かな祝祭のようにも思えた。


「……ミス・タカハシ。いえ、タカハシさん。あなたは、故郷へ帰りたかったのですか……」


 わたしの問いを、タカハシさんはしわだらけの顔をくしゃっと綻ばせ、


「あたしの故郷は、ここ。こげんなぁんもない、くるくる回っちょる村やに」


 そうきっぱり言い放つと、ゆっくりと桜の木の根もとへ、一人で歩き出した。わたしはただ黙ってその後ろをついて行く。


「……ひとつ、提案があります」

「なんちー……」

「この農場に蓄えられている未設定ゼロ・デザインの種子を、あなたの死後に譲り受けたいのです」

「ああ、それ自体はかまいはせん。老い先短いけんなぁ。やけど、おまいさんらじゃあ満足に育てられんじゃろ……」


 わたしはにこりともせずに、自分のなかで醸成させたその言葉を、およそこのきれいな村の最後の風景には似つかわしくない思考を、唇に乗せる。


「ええ、ですから……あなたの脳をお借りします」


 大脳の拝借。それが、わたしが下した次善の策だった。

 『脳みそを借りてきてくれ』。身体がもたないのなら、必要なところだけを持ってくればいい。


「……やっぱり、おまいさんはすかんたらしい」


 まるでため息を吐くように、タカハシさんは言う。当然の反応ではある。

 これから死にゆくひとへ、あなたの脳が欲しいのです。どうか譲ってはいただけないでしょうか、だなんて。

 けれどタカハシさんは激昂するでもなく、かと言って悲嘆することもなく。わたしを振り返らないまま、淡々と口を開いた。


「そんならひとつ、頼みがあるんじゃ」


 はい、わたしは彼女の隣にそっと並び立つ。髪にかかった淡い色彩の花びらが、わたしを見返していた。そっと手で掬うと、風に巻かれて見えなくなった。


「脳みそなんぞ、くれてやるけん……あたしの身体がいよいよ言うこと聞かんくなる前に——つまり、いまここで。あたしんこと、見送って欲しか」


 ただ、桜が散っていった。


「おまいさんがほかの火星人たこさんらを見捨てられなかったのと、あたしがこの村を捨てられないんとは、おんなじもんっちゃ。おまいさんが思ってるより、おまいさんと故郷は近いんよ。生まれた場所じゃあないけん、生きていく場所、死んでいく場所じゃ……」


 桜の木の下には、死体が埋まっている。

 初めにそんなことを言い出したのは誰なのだろう。もし会えるなら、掴みかかってやりたかった。この罪悪感をはけ口にさせてくれる奴なら、なんでもいいとすら思えた。

 桜の木の下で自ら死を選ぶひとがいるのを知っていても、そんなお話は語らなかっただろう。

 わたしはわたしの手を開く。これから誰かの意識を吹き消すことになる、手のひら。


「——それで、いいの……」


 口からこぼれ落ちた言葉の破片が鼓膜を突き刺す。身体中の皮膚をもがくように傷をつけていく。敬語すら忘れていた。


「ええんよ」


 タカハシさんは、この頑迷な老人は最後まで、人を食ったように笑っていた。


「……あなたの大脳は適切な施術の後、液体窒素内にて保存されます。より潤滑にデータを引き出すため、ヒューマノイドの義体が付与されます。そうなれば生身の人間と遜色ない活動が可能になりますが……あなたの記憶が受け継がれるかどうかなどは確実ではありませんし、なによりあなた——タカハシ・イサという肉体を持った個人は、ここで終了します……これは覆しようのない事実ですが、よろしいですね」

「ええってええって。痛くないよう、ひと思いに頼むわぁ」


 麻酔を持ってくるのにだいぶ時間をかけたのは、わたしにとっては好都合だったのかもしれない。戻ってきた時にはすでに浅い昏睡状態にあったので、わたしは麻酔後すぐに頭蓋骨をかち割って、その内にある脳を取り出すべく手を突っ込んだ。水音を立てて引き揚げられた脳を、手持ちのコンパクトサイズの液体窒素ボトルに保存し、蓋を閉めた。


 わたしはあぜ道を歩いていく。拡張空間ARはすべて切ってあるから、視界が広い。ここではどこまでも田んぼと畑が頭の上まで広がっている。またトマトに降られたらかなわないから、タカハシさんの傘を借りて、わたしは歩く。

 火星の桜を想像した。あの花は赤みがかかったわたしたちの星の空で、どんなふうにその色彩を開かせるだろうか。ゲノム配列をいじくった桜も出てくるかもしれないけど、少なくとも花見の季節を迎えた教室は輪をかけて騒がしいだろうな。

 すべて終わったら、火星に桜を植えよう。そう想った。

 きっとそこが、わたしの死ぬ場所だから。

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火星の桜 恢影 空論 @kou10m

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