#4

 色褪せたタイル張りの浴室を出て、冷却ブラ——この類の革新的インナーの技術は多くの船外活動EVAに携わる人間、とりわけ女性から大絶賛された——を手早く巻き付け、置いてあった作業用だったらしきジャージを羽織って狭い洗面所を出ると、年季の入った木製の座卓の上に茶碗が二つ置かれているのが見えた。縁側と隣接した応接間は、昔ながらの畳素材で構成されていることに気づき、そっと撫でてみる。穏やかな凹凸の波に指を這わせていると、床板のきしむ音が聞こえてきた。タカハシさんだ。


「やぁと出たんか、ちっとう疲れば取れたろう」


 顔を上げると、怪訝そうな表情をしたタカハシさんが、皿を抱えてこちらを見下ろしていた。


「……そげえ畳がめずらしいんか?」

「ええ。わたしの家にはありませんし、少なくとも火星次世代自然科学アカデミーMNHSAにもありません。建築学科の生徒がここへ来たら喜ぶでしょう」

「もったいねえ、ここにしゃがんでなんもせんでおるだけで心地ええのに」


 そう語りながら、皿が卓上に置かれた。盛り付けられていたのはなんらかの木の芽を調理したものだった。別の皿には赤く熟れたイチゴ。どちらも正真正銘未設定ゼロ・デザインだ。


「これ、食べても大丈夫ですか……」

「なんちえー、そんなんにごじゅうよ」


 当然であると言わんばかりの表情を読み取る限り、どうやらわたしが出された品に遠慮していると思ったらしい。ある意味好都合ではある。さすがにいまさら、このまともにゲノムコードも編集できていない作物は本当に安全なのですか、とは尋ねづらい。

 無駄なジャンクコードからエクソン領域に至るまで全ゲノム配列に手が加えられている最適化植物フルスクラッチ・クロップとは異なり、未設定ゼロ・デザインの自然作物ではそのコードの大部分はイントロン領域が手つかずのままだ。本来アミノ酸配列にも翻訳されない無駄なジャンクコードだが、いつ複製異常が起きるかわからない広大な遺伝子の社会で、相互作用的インタラクティブに働きあうゲノムを放置しておくというのは正直遠回りで緩慢な自殺行為にすら思える。ましてや放射線被曝による配列の欠損やフレームシフトの起こりやすい宇宙空間ではなおさらだ。ゲノムがわからないまま品種改良がおこなわれていた時代の産物だなんて、あまり気持ちよく食べられるものではない。ああ、ソイ・ホップのコーンクレープが恋しい。来週発売予定だった新メニューもおじゃんになっただろうなと思うと、この現状をどうにかしないといけないとようやく実感が湧いてくる。われながらひどい話だ。


「……じゃあ、いただきます」

「ん、好きん食べんかえ」


 まがりなりにも長い歴史によって最低限の安全性は保障されているだろうとたかをくくって木の芽をチョップスティックでつまみ上げ、口の中へ。ほのかな苦みが醤油ソイ・ソースと混ざり合って舌の上をころころと楽し気に転がるよう。


「今食っちょるんはな、タラの芽や。林でぎょうさん採れるけんな、天ぷらになんかするとまぁこれが美味いんよ」


 すでに安全性がどうのこうのなどという些末事は頭蓋の隅へ。考えればここに来るまでに消耗して空腹だったせいかもしれないが、少なくともわりと美味しい。ついイチゴのほうにも手が伸びてしまう。こちらも管理がなっていないせいか完熟度はまちまちだが、どれも美味しく感じられた。

 イチゴを口に頬張りながら、チラリとタカハシさんのほうを盗み見る。こうして簡単な料理を出すなど、どうにも少し機嫌が良くなったようだ。原因はつかめないが。


「火星のほうは、えれえおっとろしいことになっちょるなぁ」


 唐突にタカハシさんが口を開いた。


「おめえさんの話よ、あたしにゃそげえ難しいこたぁ分からん、分からんけど……田んぼをぜーんぶ駄目にされたら、泣こうこたあるわ……」


 どうやら先ほど洗いざらい事情を話したおかげで、タカハシさんの同情を引き寄せることに成功したようだった。舌の上で転がしていたイチゴの断片を飲み込む。ここで一気に畳みかけて、頭を下げて頼み込めばいい。


「では、自然作物やそれらの種子に関する支援のお話は……」

「無理じゃ」


 きっぱりと。タカハシさんはにべもなく断った。

 思わず狼狽する。なぜ、と問い返すとタカハシさんは笑って、


「ここん村ぁな、もうだいぶボロいけん……あたししかおらんちゃ、当然に。じゃから、放射能を防いどる防壁ば、ちょくちょくちぃとばっかし直しに村の外に出るんよ。修理の大工のあの子も来んくなっちょったし。おかげでこげん体になってもうたわ」


 そう言って袖をまくり上げた腕には、おびただしい数の赤黒い斑点や痣。リンパ節も腫れているようだ。わたしは息を呑む。


「宇宙放射線による白血病……それも、かなり進行していますね」

「パソコンの向こうにおるお医者さんにゃ、もって三ヵ月やと……」


 余命三ヵ月。

あっけらかんと告げられる現実は、ショックを受けた脳内を打算的に駆け回る。


「やけな、あたしにゃ火星まで行くんはきちいなぁ」


 あくまでも朗らかに、ご近所の世間話でも語るように。

 ミャア、と縁側からイエネコの鳴き声。庭遊びから帰った彼は、尻尾をゆらゆら煙のように揺らしながら居間を闊歩しだす。


「そこを、なんとかお願いできませんか」


 自分の声が震え始めていることに、後から気づいて心の中で舌打ち。

 天秤だ。片方にはタカハシさんの三ヵ月、もう片方には父さん、ケリー、わたし、その他大勢の、事態収拾までの何年か。その最適解を、わたしはきっと知っている。


「……ミス・タカハシ、これは火星全土のコロニー住民の生命を左右する問題なのです。あなたが提供してくださる未設定ゼロ・デザインの種子や苗、ゲノムデータが無ければ、人口を支える食料供給は立ち行かなくなります」

「ほんにむげねぇ話やけど、無理なもんは無理にから。そげんシステムに任せとるけ、こげん事件にまでなりおるけん。だいたい、あたしの身体じゃ火星に着くまでにくたばっちょるわ。ましてや火星に着いてから一から教えているようじゃ、あたしの身体がもたんけぇ」

「……わたしは、べつに情に篤い人間ではありません。それでも、わたしの肩には望んでもいない一億人の生命がのしかかっているんです。わたしにはそんなの、重すぎるだけです」

「やったら、捨てればええ」


 こんどこそ耳を疑った。捨てていい、と。この老婆は火星のことなど、ほんとうに眼中にないのだろうか。想定以上の頑迷さに、心の中でもう一度舌打ち。

 ああ、だけど。なにより頑迷なのはわたしのほうだし、残酷なのもわたしのほう。

 だって、わたしは目の前の老人の命を確実に奪い去る方法論に固執している。結局、このしわがれた生命の三ヵ月などどうでもいい。拍動が止まろうが瞳孔が開きっぱなしになろうが、脳の記憶領域から必要なノウハウを垂れ流してくれさえすればいい。短い老後の時間にこれ以上なく有効な活用を提示する、最低なわたしプロデュースのクオリティ・オブ・ライフ。

 そのどれもこれも、AからZまでエゴまみれ。

 そのまま睨み合いにも似た状況が、数分ほど。ネコの揺れる尻尾だけが室内に差し込む象景をかき混ぜる。

 縁側からの景色を黙って眺めていたタカハシさんが、ふと口を開いた。


「……おまいさん、生まれも火星かい」


 戸惑い。


「……いえ、ソーホーです。ロンドンの。幼いころに火星へ、父と越しましたが」

「じゃあ、あたしと同じや」

「たしか、ご家族でこの村に移住されたと……」

「大量入植の時代やったけん、最初は賑やかなもんやったよ。大勢の入植者をな、出身地域ごとにグループ分けしていくんよ」


 だからこの下木潟村の風景は伝統的トラディショナルな東アジアの面影を残しているのか。このノスタルジックとも言えるだろう光景の根底には、大量入植マス・イミグレーションというどうしようもない時代の流れの息遣いが眠っている、ということ。

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