#3

「ただいまー」


 ケリーと別れて十分ほどで自宅に到着、オートロックのAIに指紋と網膜パターンを蹴り込んで重合C-Al皮革靴limp coffeepotを脱ぎ捨てる。コロニー外の剥き出しの地面を歩ける便利モノだろうが、アウトドア派ではないわたしにはぶよぶよの陶器くらいの恩恵しか感じられない。あんなのがアカデミー指定なんて狂ってる。ケリー曰くかつての学生は靴紐をカラフルなものに挿げ替えていたなんて話もあるのに。

 カタリ、と居間のほうで物音がした。この家に入れるオートロック登録者レジストラントはふたりだけ。


「父さん?」


 脱ぎかけた制服を手で押さえながら、リビングへ向かう。かすかに話し声も聞こえてきた。シグウルド・マグスマンに本拠地を置く大手穀物メジャーの外部顧問アドバイザーも兼任している父さんは、食事中も時折拡張空間AR実行アクティベートすることがある。ミーティングではわたしが映り込まないように調整してくれたりはしてくれているけど。

 やはりというか、どうやらだれかと話しているようだった。父さんの平坦な声は震えていた。


「——確かなんだな、それは。シークエンサの故障やエラーではないんだな……サンプルがさらに必要になる。アンドレアスとレイモンドにも伝えておいてくれ。ああ、おそらく事は第十一階層レイヤー・ラムダに留まらないぞ。誤差六百まではもう製品プロダクトにはならないだろう。いや、それ以上か。稼働停止シャットダウンさせた株をより詳しく……そうだ、無駄省きアンチジャンクは切っておけ。そこから伝播に遭った作物をいくらかは見つけられる。プロモーターはすべてタグ付けを。ああ、私は本部ローマに連絡を入れてくる……」


 リビングは薄暗かった。この惑星ではまだ夕焼けの色彩は薄い青のままで、全有機素材フル・オーガニックの透明なドームを透過した光が父さんの頬のこけた横顔を不出来なギリシア彫刻みたいに照らし上げていた。ダビデだ。強大な巨人ゴリアテとの戦闘に赴く前の、死地へ臨む緊張の顔。


「……ハンナか、おかえり。アカデミーはどうだった……」

「父さん、今日は早いんだね。たしか経過視察が入ってなかったっけ」


 わたしはなんでもないようにヘラリと笑う。ポーカーフェイスが苦手な父親で助かった。なにやらのっぴきならない事態が起きつつあることは明らからしかった。

 父さんは端末を握りしめたまま、しばらく逡巡し続けていた。


「……ただの突然変異ミューテーションじゃないんだ」


 ようやく父さんが語りだした。感情の整理が追いついたのか話すうちに口調は元の平坦なものへと戻っていく。


「複製異常の重複デプリケーションやフレームシフトでもない、染色体破砕クロモスリプシスには似ているがね、なにかが特定層の最適化植物フルスクラッチ・クロッのゲノムコードをめちゃくちゃに書き換えリライトて回っている。遺伝子の水平伝播だよ。それもきわめて無差別的なものだ」

「水平伝播……ゲノムコードが雑種ミックスになっている、ということ……」


 たとえばそれは、豚肉を食べればハンプシャー豚に、鶏肉を食べればブロイラーになると言い張ることに似ている。通常、遺伝子は親から子へと受け継がれる。だが、遺伝子がまったくかけ離れた異種間で伝播する事例は昔から原核生物ではよく知られていて、より高等な多細胞生物でも——ホモサピエンスですら確認されている。事実、ヒトには百四十個ほどの遺伝子で、他の動物には見られず、バクテリアやウイルスなどの非動物のゲノムに近いものが見つかった。


「ああ、だがこれは……自然界で起こりうるそれをはるかに凌駕する規模スケールだ。トマトのイントロン領域がライ麦で見つかり、サツマイモとトウモロコシのコードが絡み合ってラッカセイのコードをズタズタに千切っている。現在巨大垂直農場ヒュージ・ヴァーティカルファーム内で解放されている土壌常在菌グラウンドワーカーやバクテリアでも起こりえない設計オーダーだったはずなんだがな……それらにも被害が及んでいるうえに、農場の循環システムに混入した可能性まである」

「じゃあ、農場は……」


 最適化植物フルスクラッチ・クロップによる大規模農業は、すでに火星の生命線ファイナル・ライフラインだったはずだ。


「……それについては、見てもらったほうが早い」


 そう言って父さんは端末を手のひらで転がす。壁面スクリーンに所在なさげな光が満ちる。

 モザイクアート。特にくすんだ緑と赤紫。

 そうとでも形容すべき、まるで画像処理ミスのような「画素の粗い」光景。


「これ、元は単一の最適化植物フルスクラッチ・クロップなんでしょう……」


 スクリーンに映る映像が拡大される。講義後もつけっぱなしにしていた惑星開拓地質調査サポートシステムPReGESS拡張空間ARが、わたしの眼球を狂ったように解析された情報のマーカーで圧迫していく。それはまるで、無味なコードの海に溺れていくような。


Detected object : サツマイモ[Ipomoea trifida]/ヒルガオ科/危険度 : 不明 Locus name : Itr_sc000142.1_208813 / Itr_sc001314.1_114952 / Itr_sc000082.1_250576……


「これは、サツマイモの遺伝子……」

「それだけじゃないだろう」


 父さんの言う通り、出力プリンティングはそこに留まらなかった。


栽培種イチゴ[Fragaria x ananassa]/バラ科/危険度 : 不明……

ユーカリ[Eucalyptus camaldulensis]/フトモモ科/危険度 : 不明……

レタス[Lactuca sativa]/キク科/危険度 : 不明……

 

 映像はさらに拡大されていく。粗いモザイクの水面へ潜っていくように、判然としない輪郭が露わになっていく。

 コーンらしきイネ科作物のふくらみの上から、グロテスクなミミズのような稲穂が赤茶色に輝いている。一粒一粒から飛び出すクリーム色の羽毛のようなものは、おそらくつる植物の巻きひげだろうか。ところどころ思い出したようにコーンの実を付けているかと思えば、黄色いミニトマトが実っていたり、レタスの葉が緑色の花弁のようにくっついていたりする。

 キメラ。もしくは頭のおかしい継ぎ接ぎパッチワーク。

 スクリーン上部から、なんらかの除染用らしい白い霧状のガスが垂れ流されていく。熱帯地域の雲霧林のような神秘的ヴェールに包まれていく化け作物モングラールたちの輪郭。わたしはそこで初めて、これが録画ではないライブビューイングだと気づく。


「……ここは」


 畑をひしめき合う突然変異ミューテーションの海から目を離せないまま、言葉が割れたガラス玉のように零れ落ちる。


「この層の農場は、元々なにを……」

「すぐにわかる……根元をズームアップしろ」


 拡大が続く。もうモザイクの画素ひとつひとつがハッキリと、ジュゼッペ・アンチンボルトじみたグロテスクな表情を見せていた。シュルレアリスム絵画のような化け作物モングラールのシルエットをかいくぐって、目を凝らす。先ほどの噴霧もあいまって、わたしがその正解を見つけるのに数分の時間が必要になった。


 数えきれないほどの、ニワトリの頭部。

 白い羽毛とクチバシが、無数の瘤で腫れあがった根元に覆いかぶさられていた。


第十一階層レイヤー・ラムダでは狭義的農業の枠組みを取り払った、最適化植物(フルスクラッチ・クロップ)それ自体を飼料とした牧畜業などに関するデモンストレーションを行っていた。この階ではちょうどブロイラーを飼育・管理していたな。来月には合衆国農務省USDAを含めたお偉方の査察も予定されていたんだが、それも終わりジ・エンドだな」


 父さんの声はフラットを通り越して乾ききっていた。その間わたしはまるで他人事のようにこれからの食卓の風景を思い浮かべていた。ショッピングモールの野菜売り場から主婦にいたるまで、てんてこ舞いだ。いっけない、チキンスープがサラダとおかゆになってしまったわ。


運び屋ベクターが体細胞内で優位になるほどの大量摂取を控えれば、あの哀れなチキンたちみたいになることはない。だからと言って楽観視しているわけではないが。未だ水平伝播の運び屋ベクターの正体に関してはなにもわかっていない。細菌かウイルスか、それとも寄生性の植物か……そこで、頼みがある」


 わたしは父さんを振り返る。正直、ようやくスクリーンから目を離すことができたのでホッとしていた。父さんの瞳が暗くモザイク畑の映像を反射して、漁火のようだった。


「今必要なのは呑気に犯人当てゲームをすることじゃない。必要なのは、一房の小麦だ——人々に食べ物あれFiat panis、だよ。それも最適化植物フルスクラッチ・クロップとは違う、確実に安全なものが。しばらくは備蓄で補えるものの、いずれ底をつく。そうなった時に飢えるコロニーはシグウルド・マグスマンだけじゃない。ヴァレンタイン・スミスもレイ・フィリエも……火星全土のショッピングモールから、食糧が消える。まず飼料として最適化植物フルスクラッチ・クロップも利用している精肉売り場が、それからやや遅れて野菜売り場、加工食品、米、パン……すべてが。ポン、だ」


 まるでジェンガだ。そこを抜けば、まっ逆さま。

 収穫日和りハーヴェスト・シーズンは、もう終わり。冬が来た、冬が来た。


「合衆国やEUあたりのジーンバンクからデータと人材を持ってくるのが道理だが、向こうは貸し出しを渋る可能性もある。劣勢を強いられている競争相手の窮地にわざわざ手を貸す義理もないからな。もし渋らないにしても、向こうの監査は厳しい。まずジーンバンクから取り出すのにも、膨大なデータベースから使えそうな未設定ゼロ・デザインの種子を絞り込み、オンライン申請書をしたためて、指定口座へ送金……ああ、そもそもバンクだけでは火星ここの農場を賄えるような大量の種子を調達できないだろう」


 端末の呼び出し音コールが唐突に鳴り響いた。壁面スクリーンを走らせていたプログラムが上書きされ、その上に人間の顔が浮かび上がる。旧式の身分証明のようだ。端に小さく描かれた『渡航許可証・木星系方面・入植民immigrants』の文字。


「このひとは……」


 古い画像データらしいことは一目でわかった。歴史の教科書に載っていた系外惑星探査ブレイクスルー・スターショット計画の年表を思い起こす。軽く四十年も前の時代の遺物レガシーだ。今でも当時のレーザーアレイを改良し推進力に用いるハイウェイ航法が主流だが、当時はそれすらもおぼつかず、燃料を大量に消費するFalcon 9ロケットを利用していた。そんな時代の、一番手の入植者たち。


「名前はイサ・タカハシ。エウロパ付近にあるコロニー内の自立した農場ヴァーティカルファームで、いまだに未設定ゼロ・デザインの自然作物の栽培を行っている女性だ。もうだいぶ歳をとっているはずだが、いわゆる『自然本来のおいしさ』ってやつで細々とブランド化して生き残っている伝統的クラシカルなスタイルの農家だよ。昨今じゃ珍しいがね」


 スクリーンに浮かび上がる情報によれば、現在この老人が居住しているシリンダー型コロニーは、彼女を除きゼロ。行政区分上はほとんど廃村として扱われ、未設定ゼロ・デザインの作物を搬出するときを除けば誰一人立ち寄ることもないゴーストタウン。


「必要なのは、「汚染」されていないゲノムをもつ未設定ゼロ・デザインの種子、ゲノム配列のデータ。くわえて、それらの育成と取り扱いに長けた人材。それでいて、可能な限り世界保健機関WHO合衆国農務省USDAみたいな連中の息のかからない人物……つまりはこういう、頑迷な職人気質の婆さんだ」


 そう言って父さんがキーを宙に放り出す。軽快な金属音とともに放物線を描いて、わたしの手のひらのなかへ。父さんはわたしの肩に手を置いて、


「この事態を政治的、経済的混乱に入る前に止められるのは、お前しかいない。運搬用のシャトルには一通りのものを用意してある。どうにかして頭の固いオールドミスの脳みそを借りてきてくれ」

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