#3
「ただいまー」
ケリーと別れて十分ほどで自宅に到着、オートロックのAIに指紋と網膜パターンを蹴り込んで
カタリ、と居間のほうで物音がした。この家に入れるオートロック
「父さん?」
脱ぎかけた制服を手で押さえながら、リビングへ向かう。かすかに話し声も聞こえてきた。シグウルド・マグスマンに本拠地を置く大手穀物メジャーの
やはりというか、どうやらだれかと話しているようだった。父さんの平坦な声は震えていた。
「——確かなんだな、それは。シークエンサの故障やエラーではないんだな……サンプルがさらに必要になる。アンドレアスとレイモンドにも伝えておいてくれ。ああ、おそらく事は
リビングは薄暗かった。この惑星ではまだ夕焼けの色彩は薄い青のままで、
「……ハンナか、おかえり。アカデミーはどうだった……」
「父さん、今日は早いんだね。たしか経過視察が入ってなかったっけ」
わたしはなんでもないようにヘラリと笑う。ポーカーフェイスが苦手な父親で助かった。なにやらのっぴきならない事態が起きつつあることは明らからしかった。
父さんは端末を握りしめたまま、しばらく逡巡し続けていた。
「……ただの
ようやく父さんが語りだした。感情の整理が追いついたのか話すうちに口調は元の平坦なものへと戻っていく。
「複製異常の
「水平伝播……ゲノムコードが
たとえばそれは、豚肉を食べればハンプシャー豚に、鶏肉を食べればブロイラーになると言い張ることに似ている。通常、遺伝子は親から子へと受け継がれる。だが、遺伝子がまったくかけ離れた異種間で伝播する事例は昔から原核生物ではよく知られていて、より高等な多細胞生物でも——ホモサピエンスですら確認されている。事実、ヒトには百四十個ほどの遺伝子で、他の動物には見られず、バクテリアやウイルスなどの非動物のゲノムに近いものが見つかった。
「ああ、だがこれは……自然界で起こりうるそれをはるかに凌駕する
「じゃあ、農場は……」
「……それについては、見てもらったほうが早い」
そう言って父さんは端末を手のひらで転がす。壁面スクリーンに所在なさげな光が満ちる。
モザイクアート。特にくすんだ緑と赤紫。
そうとでも形容すべき、まるで画像処理ミスのような「画素の粗い」光景。
「これ、元は単一の
スクリーンに映る映像が拡大される。講義後もつけっぱなしにしていた
Detected object : サツマイモ[Ipomoea trifida]/ヒルガオ科/危険度 : 不明 Locus name : Itr_sc000142.1_208813 / Itr_sc001314.1_114952 / Itr_sc000082.1_250576……
「これは、サツマイモの遺伝子……」
「それだけじゃないだろう」
父さんの言う通り、
栽培種イチゴ[Fragaria x ananassa]/バラ科/危険度 : 不明……
ユーカリ[Eucalyptus camaldulensis]/フトモモ科/危険度 : 不明……
レタス[Lactuca sativa]/キク科/危険度 : 不明……
映像はさらに拡大されていく。粗いモザイクの水面へ潜っていくように、判然としない輪郭が露わになっていく。
コーンらしきイネ科作物のふくらみの上から、グロテスクなミミズのような稲穂が赤茶色に輝いている。一粒一粒から飛び出すクリーム色の羽毛のようなものは、おそらくつる植物の巻きひげだろうか。ところどころ思い出したようにコーンの実を付けているかと思えば、黄色いミニトマトが実っていたり、レタスの葉が緑色の花弁のようにくっついていたりする。
キメラ。もしくは頭のおかしい継ぎ接ぎパッチワーク。
スクリーン上部から、なんらかの除染用らしい白い霧状のガスが垂れ流されていく。熱帯地域の雲霧林のような神秘的ヴェールに包まれていく
「……ここは」
畑をひしめき合う
「この層の農場は、元々なにを……」
「すぐにわかる……根元をズームアップしろ」
拡大が続く。もうモザイクの画素ひとつひとつがハッキリと、ジュゼッペ・アンチンボルトじみたグロテスクな表情を見せていた。シュルレアリスム絵画のような
数えきれないほどの、ニワトリの頭部。
白い羽毛とクチバシが、無数の瘤で腫れあがった根元に覆いかぶさられていた。
「
父さんの声はフラットを通り越して乾ききっていた。その間わたしはまるで他人事のようにこれからの食卓の風景を思い浮かべていた。ショッピングモールの野菜売り場から主婦にいたるまで、てんてこ舞いだ。いっけない、チキンスープがサラダとおかゆになってしまったわ。
「
わたしは父さんを振り返る。正直、ようやくスクリーンから目を離すことができたのでホッとしていた。父さんの瞳が暗くモザイク畑の映像を反射して、漁火のようだった。
「今必要なのは呑気に犯人当てゲームをすることじゃない。必要なのは、一房の小麦だ——
まるでジェンガだ。そこを抜けば、まっ逆さま。
「合衆国やEUあたりのジーンバンクからデータと人材を持ってくるのが道理だが、向こうは貸し出しを渋る可能性もある。劣勢を強いられている競争相手の窮地にわざわざ手を貸す義理もないからな。もし渋らないにしても、向こうの監査は厳しい。まずジーンバンクから取り出すのにも、膨大なデータベースから使えそうな
端末の
「このひとは……」
古い画像データらしいことは一目でわかった。歴史の教科書に載っていた
「名前はイサ・タカハシ。エウロパ付近にあるコロニー内の
スクリーンに浮かび上がる情報によれば、現在この老人が居住しているシリンダー型コロニーは、彼女を除きゼロ。行政区分上はほとんど廃村として扱われ、
「必要なのは、「汚染」されていないゲノムをもつ
そう言って父さんがキーを宙に放り出す。軽快な金属音とともに放物線を描いて、わたしの手のひらのなかへ。父さんはわたしの肩に手を置いて、
「この事態を政治的、経済的混乱に入る前に止められるのは、お前しかいない。運搬用のシャトルには一通りのものを用意してある。どうにかして頭の固いオールドミスの脳みそを借りてきてくれ」
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