#2

 地獄はここにあるんです、と誰かが言った。曰く地獄は意識のなかに、前頭葉の脳皮質に埋め込まれている、と。

 遍在するユビキタス地獄。それを感じ取るのに、だれかの腸がほじくり返される必要も、押しつけがましい百万単位の死メガデスも要らない。たったそれだけのカンタンなおはなしアレゴリー

 父は悟っていたのだろう。あの光景も、地獄も、単なる製品プロダクトである、ということ。


 火星でのテラフォーミングが始まってようやく半世紀。大気はやっとのことで酸素が十パーセントまで上昇し、全有機素材フル・オーガニックの透明なドームから足を伸ばして、防護服をこれ見よがしに脱いでみせる人々も増えた。世界保健機関WHOはこの刺激的なお遊びデンジャラスゲームにいい顔をせず、注意喚起のポスターを各コロニーへ大量に無償配布。ロサンゼルス在住の五歳児が描いた落書きグラフィティがデカデカと印刷されたそれは、学園都市的側面をもつわたしのコロニーで真っ先に授業の合間の遊び道具にされた。休み時間以外も常に教室は同じカラーリングの紙飛行機エアプレインが飛び交い、教師の叱責が後を追う。

 シグウルド・マグスマン。旧マリネリス峡谷の東端に位置する、火星第三位の規模スケールを持つドーム状のコロニー。ここが、わたしのセカイだった。

 アルフレッド・ベスターのSF小説に出てくる伝心術師テレパスの名を冠するこのコロニーは多くの学生を擁する学術研究の都市であると同時に、遺伝子設計作物GMO大規模栽培ラージカルティベーションによる惑星全体の食料供給をも大きく担っている。ただ特定の遺伝子だけをいじる旧世代の遺伝子設計作物GMOはすでにメインストリームから外れ、全ゲノムを解析し無駄なジャンクコードを省いて根本から再設計した完全に人工的クリーン・アーティフィシャルな「最適化植物フルスクラッチ・クロップ」は、インフレーションのごとく膨れ上がった各コロニーの人口に比べてあまりにも少なすぎる作付面積の問題を解決する、ほぼ唯一の手段だった。

 地表面をくり抜きボーリング、マリネリス峡谷に貯蓄された大量の水——テラフォーミング初期では極冠に存在するドライアイス混じりの氷を溶かしたものを引いていたが、現在では地下氷を融解し汲み上げている——を利用して形成される、海抜四千メートルの規模スケールを誇る巨大垂直農場ヒュージ・ヴァーティカルファーム。そのほぼすべてが最適化植物フルスクラッチ・クロップで構成された、人の手による新しい組み合わせコンビナティオ・ノヴァの結晶体。地下鉱石資源に乏しいシグウルド・マグスマンは、事実上の火星の生命線ファイナル・ライフラインだった。

 古典的クラシカル突然変異ミューテーションによる試行錯誤トライアンドエラーの品種改良は時代の遺物レガシーとなった。

 これからは人の手による、人のための食料生産の時代となる、と。わたしを含めた大勢の火星住民はうすぼんやりと思っていた。火星のみならず、国際連合食糧農業機関FAO合衆国農務省USDA国際食料政策研究所IFPRIに多くの穀物メジャーらまでもがそのつもりで世界をまわしていた——地球では民間での遺伝子設計作物GMO最適化植物フルスクラッチ・クロップに対する反対活動が根強く、加えて大量生産に足る耕作面積の確保が比較的容易だったせいもあって、市場には研究用もしくは珍品としてのみ出回る程度に留まっていたけれど。なんなら大規模な食糧供給をすべて宇宙から輸入してしまえなどという本末転倒な計画もあったらしい。

 国際有機農作物改良協会OCIA認証ロゴ全米有機プログラムNOP認証ロゴ国際有機農業運動連盟IFOAM認証ロゴ認証ロゴ認証ロゴ認証ロゴ——地球から火星に至るまでの皆々さまコンシューマーを安心させるための認証ロゴシールがべたべたと貼られた最適化植物フルスクラッチ・クロップの箱詰めは、いまや地球のマーケットでも大手を振って出回り始めたらしい。父さんがほんのり自慢げな時は、たいていその類の話をする。ロンドンでは考えられなかっただろう、と言われてもわたしは苦笑いを返すだけ。父さんと違ってわたしにはこっちに移住する前の記憶はほとんどない。燃えるほど赤いといわれる夕暮れも、農薬と虫食い穴の付いたレタスサラダの食感も、リージェンツ・パークで今はいない母と見たはずのサクラの色彩も。火星ここではない、どこか遠いだれかさんの話でしかない。

 だからわたしはよく、アカデミー帰りに巨大垂直農場ヒュージ・ヴァーティカルファームの一角に立ち寄る。ここではいつも、地球向けの作物を認証ロゴまみれのコンテナに詰め込んで、軌道上にある中継基地ステーションへ去っていく。

 ここではないどこか。推定わたしの生まれた場所こきょう

 元の遺伝情報をいっさい喪失した野菜たちは、地球こきょうのショッピングモールでグラム何ドルかで売りさばかれ、皿に盛りつけられ、だれかの胃袋の中に溶け消える。それでも最後に自分の生まれたはずの場所で終われるだけいいのかもしれない。そんなことを思いながら、赤みがかかった空へ消えていくそれらを見送る。ただそれだけ。

 ケリーはわたしのそんな奇行を把握してくれている数少ないクラスメイトの一人なので、点数稼ぎのボランティア活動がない日には時々こうしてそぞろ歩きに付き合ってくれることもある。主に食べ歩き目的ではあるけれど。


「ここではいっつも収穫日和りハーヴェスト・シーズンだね」


 ケリーはあっけらかんとした調子で、未設定ゼロ・デザインの自然作物ならよくても二百粒ほどしか付かないという事実を嗤うように千粒のモミを輝かせる稲穂の集合田を指さした。


「そういうふうに設計デザインされてるんじゃん。設計書オーダーどおりに動くだけ、あんたの好きなスニアイなんたらと変わらないでしょ」

「対ソーシャルネットワーク用アイドルAI~あなたの膿み疲れたハートにTOKI★MEKIバーニング~。つまり略してSNIっ娘だってば。公式でそう呼ぶの。それに、」


 アクリルガラスの通路の下に広がる巨大垂直農場ヒュージ・ヴァーティカルファームの空洞いっぱいに広がる最適化植物フルスクラッチ・クロップのイネを眺めながら、したり顔で頷く。


設計書オーダーどおりに動くのは、なんであれいいことだよ。お父さんの面目躍如、ってところかい?」


 この級友は少しばかり頭が緩かったことを思い出し、食べ歩いていたソイ・ホップ載せコーンクレープの容器の底を使ってケリーの側頭部を小突く。ラズベリーソースがケリーのブレザーに付着し、げ、とケリーの顔が青くなる。


「父さんの仕事の話は極力伏せてって言ってるでしょ……」

「ちぇっ、別に隠すようなことでもないのに。むしろ自慢するでしょ、国際連合食糧農業機関FAOから派遣されてきた遺伝子操作技術者ジーン・マッパーだなんてさぁ」

「あんたみたいにAstanaの公開ログでひけらかしたりしないもの。それもVRの拡張子付きでなんて。呼び出し六回もくらったのはどこのどなたでしたっけ」


 不服そうなケリーを横目に見ながら、わたしはまたコーンクレープを口に運んだ。ラズベリーのソースは甘すぎなくて、それでいて生き血のようで、好みだった。


 毎日が収穫日和りエブリデイ・イズ・ハーヴェストシーズン。旧来の突然変異ミューテーションによる品種改良に頼らざるをえなかった時代の人々が聞いたらどう思うだろう。

 飢えと隣り合わせだったかつての発展途上国の人々の日々。防腐剤ポストハーヴェストだらけの他国からの輸入に頼っていた低自給率の先進国の食卓。

 明日の食が約束されない日常。

 わたしの当たり前が崩落していた世界。

 現在の地球上にも、ほぼ残っていないだろうその世界は、飢えることに嘆き、満たされることに喜ぶことのできた世界は。わたしにとって少しだけ魅力的にすら思えた。

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