火星の桜
恢影 空論
#1
不意に頭上からポツリポツリと降り出したトマトに殴られて、わたしは思わず舌打ちする。滴るトマトソースが目に入る前に前髪を搔き上げると、ツル植物の絡まった旧型の農作業用車両の向こうに民家が一軒見えた。
苛立ちを抑えながら瞬きを二度。視界の淵に浮かび上がるsupporting language: Japaneseの表示を確認してから、わたしはあぜ道を歩き出す。長いこと車両が通らなかったらしい未舗装路は、すっかり雑草で埋め尽くされていた。シグウルド・マグスマンを発つ時に履き替えなかったせいでアカデミー指定のダサい
「うるさい、止めて」
フィルタの
「何の罪でわたし、こんな所に……」
そうぼやきながら、村の回転軸の端から覗く大赤斑を睨みつけた。
旧・
かつてNASAを中心として推進された
だがそれらのコロニー群も、十年ほど前からの人口減少による統廃合の際に次第に姿を消していった。各惑星の軌道上に設置されているレーザーアレイ
「今じゃ軌道上コロニーより維持費の安い
あぜ道の石ころを蹴っ飛ばしながら、ぼやく。
ロクに錆も落とされていない
「すいません、ミス・タカハシはいらっしゃいますか」
声を張り上げる。二度三度と戸をリズミカルに叩く。もしかしたら外出中なのだろうかと思ってから、この田んぼと畑ばかりの農村にまともな外出先がないことを思い出した。そもそもが廃村一歩手前なのだ。視線を上げれば、円筒内部の離れた場所にも民家は確認できる。もちろんそれらはすべて無人の廃屋であり、現在この下木潟村には「イサ=タカハシ」という御歳七十いくつかの女性しか居住していない。
「……裏手へ回ってみるか」
肩透かしを食らった気分で再び歩き出す。角を曲がろうとすると、何かがこちらを覗いているのが見えた。
なんとなく後をついて行くと、どうやら裏庭らしき場所に出たようだった。撤去されてきたらしい『WELCOME TO SHIMOKIGATA VILLAGE!』と描かれた立て看板が半分ほどツタに覆われながらこちらを舐めるように見上げた。
ミャア、ミャア。警戒したような鳴き声の背景と、いくつかのプランタから咲く観葉植物。雑然としていながら不思議と心の落ち着くその空間に、戸惑いながら踏み出す。庭の最奥に、薄いピンク色に染まった木が鎮座していた。そっと近づくと、同じ色をした花弁が緩やかに落下してきてようやく、それらがいくつもの小さな花の
「はぁん、人さまへ尋ねもせんで庭へ入ってくるちゃあ、ひねくされたもんもおったもんやねぇ……」
不意に降ってきたしわがれた声に振り向くと、開けっ放しの縁側にひとりの老婆が立っていた。ひどく目付きの悪い、枯れたまま立っている樹木のような風体。ブカブカで色抜けした花柄模様のシャツ、手にはネコ用の
「……はじめまして、ミス・タカハシ」
あくまで慎重に挨拶する。彼女のネコ同様、明らかにこちらを警戒している。ミャア、とネコが縁側に飛び乗り、早くよこせと言わんばかりにタカハシさんの足に飛びつく。すっかり曲がった背をかばうように腰を折り、小皿を置く。垂れ下がった白髪は服と同じように光を浴びすぎてくたびれた印象を与えた。
「……おまいさん、
しわがれた声と訛りのせいで翻訳が多少ズレたが、会話に支障はないものと判断し言葉を返す。それよりさらっと口走った火星住民に用いられる蔑称のほうが不安要素だ。
「シグウルド・マグスマンにある
「火星の学生かい。なんな用事でこげんしょーもねえ村ぇ来ちょん……すかんたらしい、どこん回し者かぁ、なんでんかんでん言うちみい!」
どうやら先方にこちらを歓迎する意図は無いようだった。思わず嘆息。これだからイヤだったんだよ、老人の相手なんて。ましてやこのタカハシさんはもう何年もひとりでこのグルグル回り続ける
「
「なんちえー言うとっかわかんねー」
やはりというべきか、英語には疎いようだ。まがりなりにも当時最先端の技術が結集されたコロニーのはずだが、ここ一帯では英語話者は少なかったのだろうか。
静かに首を振ってから、まず目的をひとつひとつ片付けていこうと思い直す。可能な限りの愛想笑いを顔中に
「シャワー、お借りしてもいいですか。制服にトマトの匂いが染み付く前に落としたいのですが……」
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