火星の桜

恢影 空論

#1

 不意に頭上からポツリポツリと降り出したトマトに殴られて、わたしは思わず舌打ちする。滴るトマトソースが目に入る前に前髪を搔き上げると、ツル植物の絡まった旧型の農作業用車両の向こうに民家が一軒見えた。

 苛立ちを抑えながら瞬きを二度。視界の淵に浮かび上がるsupporting language: Japaneseの表示を確認してから、わたしはあぜ道を歩き出す。長いこと車両が通らなかったらしい未舗装路は、すっかり雑草で埋め尽くされていた。シグウルド・マグスマンを発つ時に履き替えなかったせいでアカデミー指定のダサい重合C-Al皮革靴limp coffeepotがマヌケな音を立てた。

 郷愁主義者ノスタルジストなら泣いて喜びそうな風景を台無しにするように、視界にミミズのような文字の出力プリンティング。detected object : スギナ[Equisetum arvens]/トクサ科/危険度 : 低……スズメノカタビラ[Poa annua]/イネ科/危険度 : 低……/エノコログサ[Setaria viridis]/イネ科/危険度 : 低……————


「うるさい、止めて」


 惑星開拓地質調査サポートシステムPReGESSの警告を無視して、百科事典じみた付 箋 AR add markerをすべて無効化ディアクティベートする。拡張空間ARでのタグ付けが嫌いというわけでもないけど、日常生活までベタベタと手垢を付けられるのは好まない。ましてや道端に生えている雑草のひとつひとつにまでされるようでは、目玉が窮屈だ。

 フィルタの条件付けコンディショニングを調整しておいたほうがいいかな、と息を漏らす。アーカイヴでしか聴いたことのない虫の鳴き声——おそらくはセミと呼ばれる昆虫のメロディ、それが数種類重なった混唱ハーモニーの中を、夢遊病者のように進んでいく。


「何の罪でわたし、こんな所に……」


 そうぼやきながら、村の回転軸の端から覗く大赤斑を睨みつけた。

 旧・下木潟シモキガタ村。伝統的クラシカルな東アジアの農村の姿を映し出すこの集落は、木星の南半球上空だいたい六十万キロメートル、衛星軌道上で自転するシリンダー型コロニーの内部に丸まっている。衛星エウロパと並走する形で公転するこの村は、コロニー内での物質循環がほとんど閉じている自立した農場ヴァーティカルファームのひとつだ。

 かつてNASAを中心として推進された系外惑星探査ブレイクスルー・スターショット計画の全盛期の置き土産。ほんの切手サイズしかない超小型探査機スターチップを星系外へ吹き飛ばす推進力として太陽系の各座標に点々と建造されたレーザーアレイ中継基地ステーションは、その設備維持に多くのエンジニアや船外活動EVAのスペシャリスト、それに付随する膨大な人員を必要とした。それに合わせて膨れ上がったインフラは結局、NASAの会議室デスクの計画書オーダーには存在しなかった大小様々なコロニー群が揺蕩う光景へと変わった。

 だがそれらのコロニー群も、十年ほど前からの人口減少による統廃合の際に次第に姿を消していった。各惑星の軌道上に設置されているレーザーアレイ中継基地ステーションは今ではほぼ自動化・無人化し、時折思い出したようにメンテナンス人員が立ち寄るのみとなった。強力な磁気圏を持つ木星近辺は施工が困難だったため無人化が遅れ、ようやく三年前に作業が完了した。


「今じゃ軌道上コロニーより維持費の安い惑星地表都市PSCのほうが主流だっていうのに、こんな辺境に何を好きこのんで暮らしてるんだか」


 あぜ道の石ころを蹴っ飛ばしながら、ぼやく。気象設定config‐Cliを誤っているのか、トマトソースと汗が混じり合って髪の端から滴り落ちていく。アカデミー指定の制服はその半分がトマト色に成り果てた。目の前のボロ民家にたどり着いたら、真っ先にシャワーを貸してもらおうと決意を固める。彼女・・にとっては住めば都ロクス・アモエヌスという程度なのかもしれないが、火星面での冷房ガン回し設備で十七年間育ったわたしにはいい迷惑だ、くたばれDrop dead!

 ロクに錆も落とされていない旧型農業用車両コンバイン・ハーベスターのわきを過ぎて、安価ステンレスと磨りガラスの戸を殴りつけるように叩く。


「すいません、ミス・タカハシはいらっしゃいますか」


 声を張り上げる。二度三度と戸をリズミカルに叩く。もしかしたら外出中なのだろうかと思ってから、この田んぼと畑ばかりの農村にまともな外出先がないことを思い出した。そもそもが廃村一歩手前なのだ。視線を上げれば、円筒内部の離れた場所にも民家は確認できる。もちろんそれらはすべて無人の廃屋であり、現在この下木潟村には「イサ=タカハシ」という御歳七十いくつかの女性しか居住していない。


「……裏手へ回ってみるか」


 肩透かしを食らった気分で再び歩き出す。角を曲がろうとすると、何かがこちらを覗いているのが見えた。未設定ゼロ・デザインのイエネコだ。信じがたいが、突然変異ミューテーションに頼った品種改良の時代に蔓延ったもののようだ。しかもおそらく、いくつか混ざった雑種ミックス。目を丸くして見つめていると、一声ミャアと鳴いて顔を引っ込めた。

 なんとなく後をついて行くと、どうやら裏庭らしき場所に出たようだった。撤去されてきたらしい『WELCOME TO SHIMOKIGATA VILLAGE!』と描かれた立て看板が半分ほどツタに覆われながらこちらを舐めるように見上げた。

 ミャア、ミャア。警戒したような鳴き声の背景と、いくつかのプランタから咲く観葉植物。雑然としていながら不思議と心の落ち着くその空間に、戸惑いながら踏み出す。庭の最奥に、薄いピンク色に染まった木が鎮座していた。そっと近づくと、同じ色をした花弁が緩やかに落下してきてようやく、それらがいくつもの小さな花の集合構造ストラクチャだと気づく。


「はぁん、人さまへ尋ねもせんで庭へ入ってくるちゃあ、ひねくされたもんもおったもんやねぇ……」


 不意に降ってきたしわがれた声に振り向くと、開けっ放しの縁側にひとりの老婆が立っていた。ひどく目付きの悪い、枯れたまま立っている樹木のような風体。ブカブカで色抜けした花柄模様のシャツ、手にはネコ用の合成食糧ドライフードが盛られた小皿。声に違和感を感じるのは、惑星開拓地質調査サポートシステムPReGESSの機械翻訳が働いたためだろう。


「……はじめまして、ミス・タカハシ」


 あくまで慎重に挨拶する。彼女のネコ同様、明らかにこちらを警戒している。ミャア、とネコが縁側に飛び乗り、早くよこせと言わんばかりにタカハシさんの足に飛びつく。すっかり曲がった背をかばうように腰を折り、小皿を置く。垂れ下がった白髪は服と同じように光を浴びすぎてくたびれた印象を与えた。


「……おまいさん、火星人たこさんやろ。なんしにきちょるんか……」


 しわがれた声と訛りのせいで翻訳が多少ズレたが、会話に支障はないものと判断し言葉を返す。それよりさらっと口走った火星住民に用いられる蔑称のほうが不安要素だ。


「シグウルド・マグスマンにある火星次世代自然科学アカデミーMNHSAから、父の代理で来ました。ハンナ=ローナンです。お忙しいなか失礼いたします」

「火星の学生かい。なんな用事でこげんしょーもねえ村ぇ来ちょん……すかんたらしい、どこん回し者かぁ、なんでんかんでん言うちみい!」


 どうやら先方にこちらを歓迎する意図は無いようだった。思わず嘆息。これだからイヤだったんだよ、老人の相手なんて。ましてやこのタカハシさんはもう何年もひとりでこのグルグル回り続ける自立した農場ヴァーティカルファームの中で——文字通り、誰とも顔を合わせることもなく——暮らしている、つまりは筋金入りのへそ曲がりawkward cuss、ということ。機械翻訳を一瞬だけ無効化ディアクティベートして、円筒型ののどかな風景を見上げながら、つぶやく。


これは骨が折れそうねIt's going to be so hard work……」

「なんちえー言うとっかわかんねー」


 やはりというべきか、英語には疎いようだ。まがりなりにも当時最先端の技術が結集されたコロニーのはずだが、ここ一帯では英語話者は少なかったのだろうか。

 静かに首を振ってから、まず目的をひとつひとつ片付けていこうと思い直す。可能な限りの愛想笑いを顔中に出力プリンティング。にこやかに、わたしは言った。


「シャワー、お借りしてもいいですか。制服にトマトの匂いが染み付く前に落としたいのですが……」

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