第2話 芋粥、きおくのかなた

  ふつふつ、とろり

 ぽこぽこ、ぐつぐつ


 いろはにほへと

 処変われば味は変わり、縁も結び直され。

 ぐらぐら沸く鍋の中の湯も香り異なる。



 雀のちゅんちゅんと鳴く朝を告げる音に、ふわふわと夢と現を漂っていた意識が、しぶしぶ朝を認め、一人の女性の意識の覚醒を促す。

 しんっと、静まり返っている周りの気配で、まだそれとなく完全に夜は明けてないのかと判断するも、嫁いできたばかりで寝坊するのも頂けない、と、島崎家の若き当主の妻となったばかりの美緒菜は、生家で使われていたものとは正反対な上質でいて、温かな上掛けを剥ぎ、うっすらとしか見えない視界を頼りに、四つん這いになり部屋の戸を開けようとしたところで、スッと滑るように誰かが先に障子を開けたことを察し、その場で止まった。


 一体どなたであろうか。

 旦那様であれば朝の挨拶をしなければならないが、僅かばかりに光だけしか感じることができぬ己の眼では判別は出来ぬと、美緒菜が頭を悩ませていると。


「まだ夜の七つだ。あなたがこんなに早く起きることはないのだよ」


 優しくもまるで幼子を諭すかのような声音に、説かれた方は微かに風が感じられる方へ顔を向け、その場で四つん這いから身を起こし、背筋を正した正座に座り直し、両手を付き、頭を下げた。


「お目覚めでございましたか、旦那様」


 主が起きているのならばなおさら自分のような者はますます寝てはいられない。

 と言うよりは寝ていてはならない、と言うのが、美緒菜の根底に根付いている。

 ただでさえ眼を患い、子を為せるかも怪しい身上では穀潰しでしかないし、当主の嫁と言うだけではゆっくりと出来るような大層な身分ではない。


 せめて朝餉だけでも作らねばと、ゆっくりと拳を畳に押し付け、立ち上がりかけた彼女をその場に押しとどめたのは、伴侶の契りを結んだばかりの男であった。


 肩に何か上衣のようなものを掛けられ、大きな手で頬を触れるか触れないかのような手つきで撫でられれば、何故か身動きが出来ず、見えていないはずの目をきょろきょろと彷徨わせてしまう。


 ――あぁ、なぜこんなにも落ち着かないのでしょうか


 島崎家に嫁入りして数日。

 美緒菜は島崎家が懇意にしている産婆や医師などから診察を受け、病弱性は認められたが、子を為せなくはない、と言われてしまい、それから毎日どうしたらよいのか途惑っている。


 その途惑いを落ち着かせるのも一役買っているのが炊事や洗濯なのだが、一般の役付きの武家の奥方というのは、どうやら朝から働かないらしい。


 なら、何をしているのかと問えば。


「まだ、私には慣れませんか」


 頬から首筋へ、首筋から肩へ。


 明らかに己の手と異なる大きく微かに温かい手の感覚に、美緒菜は頬をうっすらと赤く染め、目を伏せ、紅を塗らなくとも珊瑚色をした唇を噛み、小さく頭を横に振り、ゆっくりと息をついた。


「無理をしなくても良いのですよ、あなたはあなたのままで。ゆっくりと慣れてくれればよいのです」


 美緒菜に言い聞かせる夫──島崎しのざき 颯一郎そういちろうの声は、まるで芋粥のように優しく、温かい。


 昔、本当に幼い頃、笹丘の家族で夜祭に行った際にごった返す人の群れが原因で、家族とはぐれて迷ってしまい、心細く、境内の賽銭箱の近くで泣いていた美緒菜に声を掛けてくれた人と同じくらい、旦那様は優しい、と、美緒菜は心の中で想う。


 そう。

 芋粥みたいに、解りつらいだろうけれど、確かにそこには愛情と、思いやりがある。


 軟らかく炊いた芋を細かく切り、ぬめりを取って出汁で炊いた粥の中に先に炊いておいた芋を入れて作る粥は、滋養があり、靠れた胃を優しく包み込む。


 颯一郎に促され、再び床に就いた美緒菜は、すっかり夜が明け、朝餉をゆっくり食した後、島崎家に仕えている使用人らも食事を摂り終え、誰も居なくなった厨で粥を炊いた。


 勿論炊く粥は芋粥。


 ゆっくり、丁寧に拵えたそれは。

 地味だけれど、確かに滋養のある、温かなもので。

 こっそり作り、こっそり消えるはずだったそれは。


 島崎家の屋敷の奥に伏す、とある人物の口に入り、数日ぶりにその人物は笑顔を取り戻したのだが、それは彼女の知らない、与り知らない処でおきた、小さな奇跡。 

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想い、ひそやかに~あじのしらべ~ 海丘 雫 @Kuroera_S

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