想い、ひそやかに~あじのしらべ~
海丘 雫
第1話 つくね、涙時雨
哀しい時、辛い時、苦しい時。
楽しい時、嬉しい時、落ち込んだとき。
どんな時でもお腹は減る。
そう、例え親しくしていた人が離れていった日も、近しい人がいなくなった日も、等しくお腹は減る。
それは別に悪いことでも何でもないっていうことを、ちょっとでも思いだしてくれれば、きっと食材も浮かばれると思う。
――世は天下泰平の武家が国を統治していた頃。
とある大名家に仕える中級武家に街で噂の三姉妹がいた。
その三姉妹がいるのは笹丘ささおか家。
長女は美しい奥方に似て美しく、三女は父親に似て周囲の者達から愛され、ともに縁談の話がひっきりなしに舞い込んでいたが、その中には次女たる美緖菜みおなへの縁談は一切なかった。
彼女はよく言えば控えめ、悪く言えば地味で愛嬌がないと、心無い民たちは面白おかしく揶揄していた。
とは言え、家族もそれを庇うわけでもなく、まるで腫れ物に触れるかのような接し方を、もうすでに何年も続けている。
それは何故か?
トントン、トントン、と小刻みに包丁が何かを刻む音が、まだ夜が明けきる前の厨に木霊する。
厨に立つ人物は、下働きの女でも男でもなく、なんと笹丘家の次女たる美緖菜であった。
彼女は白い頭巾を被り、青々とした瑞々しい青菜を刻み、その横ではぐらぐらと沸き立つお湯が。
どうやら材料から察するに御御御付けを作るらしい。
が、どうして武家の娘たる彼女がこのような下働きをしているのかといえば、それは彼女の身体に問題があった。
美緖菜は生れつき身体が弱く、生後半年にしてほとんどの視力を失い、今ではわずかな灯りを感じられる程度で、更に子を為せないという、武家の娘としては不合格の烙印を押されたに等しい境遇にいたりする。
この時代、子女は他家に嫁ぎ、家と家を結ぶ子を儲けることが当たり前とされている風潮が強く、子も成せず、身体の弱い女は役立たずと誹られ、不当な扱いをされていても当然だった。
が、幸か不幸か、彼女の家は財政的に苦しくも豊かでもない武家だったがゆえに、美緖菜の扱いは宙吊りのままだった。
それが苦しくて、辛くて、どうにもならなかった時、彼女を救ったのは毎日のように当たり前に他の家族と同じように出されていた食事だった。
たかが食事。
されど食事。
ヒトと動物が違う所は言葉を操り、感謝の意を直接相手に伝えられるということ。
感情を伝えられるというところ。
好きな味を明確に伝えられるということ。
米の研ぎ汁で分厚く切り、面取りした大根を茹で、味噌とざらめを擂り鉢ですり混ぜ、香り付けに柚の皮を細く刻む。
美緖菜の父はあまり野菜が得意ではないが、ふろふき大根だけは好んで食べてくれるので、よく作る。
残さないで食べて貰えれば、自分が不出来な娘だと、家族に対し申し訳ないと想わなくて済むからと。
そんな彼女に転機が訪れたのは、風がだいぶ温かくなってきた弥生の頃のこと。
「美緖菜をですか...?紗菜ではなく?」
いつものように夜明け前から朝餉の支度をし、皆が食べ終えた後の始末をしたのち、自分の部屋へ引き籠ろうとした彼女を、この家の当主でもある美緖菜の父が、彼女を引き留め、ともに客間に来るようにと伝え、その後すぐ使用人によって案内されてきた一人の青年武士は、座るなり頭を深く下げ、笹丘家では思いもよらぬことを申し入れてきた。
「はい。当家の島崎しのざき家は過日私と父による代替わりを為したばかりの家です。それにより奥向きを仕切る仕事も母上から私の妻へと変えることが望ましかろうということになり、取り急ぎ縁談相手を探していたのですが、生憎、どの家とも縁がなく...」
それは嘘だと、この場に居合わせた誰もが思った。
事実、目の前にいる青年は見目もよろしく、また、民からの信頼も篤いと聞く。
なのに、どの家とも縁がなく、生まれた頃よりいるはずの婚約者もいないなどと、誰が信じるであろうか。
されど、笹丘家は島崎家よりも家格が低く、こちら側から断ることはほぼ不可能。
なればもとより出せる答えなど決まり切っていた。
未だに真摯に頭を下げ続ける青年に、笹丘家の当主は苦渋に満ちた声音で応えた。
「その申し入れ、有り難くお受けいたしまする」
と、その直後。
「どうしてですか、美緖菜など右女じゃない!!私の方が島崎様に相応しいわ!!」
荒々しい声と態度で客間に乱入してきた笹丘家の長女たる紗菜が、歯を剥き、激昂していた。
その瞬間、確かに一度美緖菜の心は静かに瀬戸物の茶わんのように乾いた音を立て、割れた。
が、その欠片をそっと持ち上げ、継いでくれたのは他ならぬ求婚者たる青年であった。
彼は至極冷静な瞳の奥に、微かに苛立ちの光を浮かべ、鋭い言葉で世間では美しいと持て囃されている紗菜のことを批判した。
「私が望んだのは、あなたではなく、そこに静かに佇んでいる美緖菜殿です。私は貴女のように奥向きのことなど一切気にしない女性はお断りです。婚姻は家と家、ひいては民のためのものであり、家に仕えてくれる者達に報いる為のモノ。美を磨くのも確かに必要ですが、あなたには炊事のことを知らないご様子」
通常、武家の妻は料理などしない。
だが、家に招く客にどんな料理を出すかは、主ではなく主の妻が季節素材を把握し、料理を考え、使用人に命じ作らせるもの。
ゆえに炊事など一切したことがない子女などお断りだと彼はきっぱり断じたのだ。
「それに引き換え、美緖菜殿は幼き頃より食材に触れ、奥向きのことにもだいぶ慣れているご様子。当家は上辺の美しさではなく、内面の美しさを求めます」
ああ、この人ならば、私は嫁いでも不幸にはならないかもしれない、と、美緖菜は生まれて初めて実感した。
料理の下処理にまだ手慣れていなかった頃、美緖菜の姉や妹、父はよく小言を口にしていたものだ。そんなことをしても味に何ら変わり映えはしないのだから、さっさと作れと。
母は特に何も言わなかったが、美緖菜を一度として擁護したことはなかった。
思えばその頃から美緖菜と笹丘家の人間の間には生涯埋めきれない溝が出来てしまったのだろう。
季節に関係なく水仕事をしている美緖菜の手は決して白く美しくはないが働き者の手だ。
島崎家の若き当主は彼女のその手が愛おしく、篠崎家に必要だと言ってくれた。
涙が零れてしまったのは致し方がないことだろう。
美緖菜は涙に濡れる頬を着物の袖で拭いつつも、青年へと了承の返事を返した。
そして、婚姻の支度の為の月日は光陰の如く過ぎ去り、島崎家へ輿入れする朝当日。
美緖菜は島崎家が用意した白無垢に綿帽子に、年齢の割には小さな体を包み、形ばかり家族に別れの挨拶をしていた。
結局、あの日以来、美緖菜と家族の間に出来た溝は埋まることはなかった。
それでも今まで育てて貰ったことには感謝しているし、確かだったので、常識の範囲以内でそれを示した。
そしてついに島崎家から寄越された籠に乗り込もうとした時、一度として己に言葉を掛けようとしなかった女――、笹丘家の女主が一つの重箱をこれから他家に嫁ぐ娘に差し出した。
差し出された重箱は漆塗りの箱で、内側は紅く、外観は黒く、箱には鶴と松が金の絵巻で描かれており、箱を開けてみれば、そこに幼い頃、美緖菜が大好きだった鶏のつくねとお結び、そして見た目にも美しい黄色の玉子焼きが詰め合わさっていた。
美緖菜ははしたないと判ってはいたが、震える指で鶏のつくねを一つ持ち上げ、口に含んだ。
すると、今まで忘れていた懐かしい母の優しさを思い出させてくれた。
美緖菜は身体のせいか、塩辛いものが苦手で、よく使用人の作ってくれた料理を残してしまっていた。ゆえに、美緖菜の体は同年齢の子女たちより小さく、よく発熱していた。
そのことを憂いてくれていたのは、なにを隠そう、母たる女性だった。
母は隠れて美緖菜の為に鶏をこっそり仕入れてきては、慣れない手つきで鳥の羽を毟り、潰し、これまた貴重な卵と混ぜ合わせ、焼いてくれた。
つくねに着けるタレは出汁と少量の醤油と甘い蜜を煮詰めたもの。
「もう、これをあなたに私は作ってあげれないけれど、あなたはあなたのやり方と味、そして心遣いで、島崎家で旦那様と新しい味を作ってゆきなさい。元気で暮らすのよ、私の娘、美緖菜...」
最後の方は声が湿っていた。
湿っぽく茶番っぽいこの最後の別れに、島崎家から遣わされてきた人々は何も言わずに、ずっと待っていてくれた。
美緖菜は重箱の蓋を閉め、しっかりと抱え持つと今度こそ籠に乗り、生家を後にした。
何も贅を凝らしたものだけがご馳走なわけではない。
如何にそこに愛や心を注ぐことで味の記憶は変わる。
美緖菜は籠に揺られながら、果たして自分がこれから一生を尽くしていく夫に、母のような優しさに満ちた料理を出せるか未来に想いを馳せた。
しかし、既に彼の心に確かな想いと味を刻み込んでいるとは、この時の彼女は知らなかった。
彼女がこの婚姻の事実を知るのはこれからほんの少し未来のこと。
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