第2話
枝野が邦子の頭と身体を切り離したのに対して、恋人である一樹は邦子という存在を尊重し、人格に愛を注いだ。だが、邦子にはそれが何よりも居心地が悪いのだ。心を切り捨てられた方がよっぽど自由でいられた。
邦子は自分が一度だっていい恋人だったことなどはかったと思う。
しかしそれは自分の責任ではない。彼がそうなることを望んだのだ。その気になれば彼はいつだって簡単に邦子を追い出せるというのにそうしない。
正直、邦子の生活の面倒を見る彼は哀れだった。文句も言わず自分に尽くす彼が哀れでならなかった。
あの日から枝野と邦子は連絡を取り続けている。
平たく言えば不倫。ただ身体を重ねるだけ。デートさえもしない。
だからこの関係が続けられるのだろう。
こんな私を愛してくれるただひとりの男さえ愛せない。不倫ごっこまでして、まるで行きずりの娼婦だ。
誰とでも寝る女と言われても仕方ない。
そんな私はこんなふうにしか生きられない。
私そのものが神への冒涜なのだ。
何故ここまで枝野に執着するのだろうか。
それは邦子の父親に似ているからだとわかっている。
父親に似た枝野に抱かれることによって父親に復讐していると同時に、父の女の気持ちも知りたかった。
何故そこまで父にのめり込んだのかを。
父は枝野と同じく、どこか退廃的な雰囲気を持つ男で、お世辞にも紳士的だとか女を喜ばせるのが上手いわけではなかった。
むしろ、人を喜ばせるよりも怒らせる方が上手かったと思う。それほど裕福な家庭だったわけでもなかったので女達とのデートと豪華だったわけはない。
一度だけ下校時に父と愛人を見かけたことがある。父は邦子の視線に気付くと悪びれもせず、一万円を手渡した。たったの一万円で父は親子関係における信頼や愛情を台無しにしたのだ。まったく邦子をまだ愚かな子供だという思い込みに頼り過ぎた。とえ子供であれ、ある程度の分別がつく年になれば父の汚れた魂胆などすぐに見破れるようになっているというのに。
父の愛人の中には父が母と離婚すると信じている女もいた。その女は下校中の邦子に自分があなたの未来の母などと言った。もちろんそんなこと本気にはしなかったが、邦子は父親を憎むよりも先に、父の愛人たちの愚鈍さを哀れんだ。
だから枝野が自分のものになるなど思ったことは無い。しかし頭ではわかっていても五年前は心が受け入れていなかった。
枝野における執着はひょっとしたらある種のファザーコンプレックスなのではないかと思い始めた頃、邦子は男たちとの情事にさらに深みにはまっていった。
不思議なことに邦子は美人でもないにも関わらず、父から受け継いだであろう魅力を持っており、知人であろうがとおりすきの男であろうが、邦子が誘えば断る者の方が少なかった。
何故邦子の魅力が人を捕らえるのか。邦子には目があった。その目に見つめられ、彼女が何か言いたげに唇を開きかけると男達は皆酔いしれる。
だが彼女は男達に抱かれるたびに父親ことを思い出すのだった。
あの人はずるい。憎んでも憎んでも手の届かないところに行ってしまった。邦子と母を置いて。天国なんて行けるわけもないのに。
もしも天国が存在するならば邦子がそんなところに父親を行かせたりしない。
あの人には現世と冥界の間の煉獄を永遠にさまよっているのが相応しい。
* * *
シャワーの水に抱き寄せられて邦子は実態を無くして、水と共にどこかへ消えてしまえればいいのにと思った。
今夜名ばかりの恋人の胸にまた抱かれるだろう。彼は強制こそしないものの、邦子に拒否権などあるものか。シャンプー後の濡れた髪の匂い、バスルームのタイルの模様。すべてが一樹を思わせた。
安定した生活と引き換えに心や身体、または心身共に売るのが世の常だ。奴隷制度があった時代から本質的には何一つ変わっていない。妻や恋人の肩書きだろうとやっていることは商売女とほとんど変わらないではないか。
シャワーの水を止めると邦子はろくにタオルで水気を取らずにバスローブを羽織った。
鏡に映る自分はまるで死人のようだ。それは死んだ父親の面影を追いかけて己の人生を自ら破滅に追い込もうとしているからか。
幸福を遠ざけるのは父親の亡霊か。それとも自分自身か。こんな女にしたのは誰だろう。
バスルームを出て恋人の姿を探すと一樹はベッドに腰掛け、邦子の携帯電話を手にしていた。彼が何をしているのか、何を知りたがっているのか大方の予想はついていたからあえて理由は聞かない。怒る気もなかったし、隠す気もなかった。
「見たいものは見れた?」
邦子の皮肉めいた言い回しに慣れてしまったからか、一樹は邦子の発言を無視する。
返答を待つのを諦めて邦子は一樹の隣に腰を下ろした。
いつもの手で悩ましげに眉を寄せ、ちょうど彼の視界に入るあたりの位置で膝に触れる。甘い吐息が漏れ、邦子は彼の膝の間に割り込む。正面から顔を覗き込み、口付けしようと膝を立てたが彼の唇はすれ違い、邦子の肩に着地した。
「キスは嫌?」
彼の柔らかな髪が首に触れる。
「君は僕が何か大切な話をしようとするとすぐ事を曖昧にしようとするね。」
優しさの中にもどこか柔らかな侮蔑を感じる。
「あなたがこうすることを望んでいるのかと思った。」
一樹は身体を起こし、邦子の頬に触れる。彼の瞳は潤んでいて、今にも壊れそうだ。壊れかけたひとりの男の心を慰めるほどの良心と勇気が邦子にはなかった。してあげられるのはこんなことだけ。何も言わず、一樹なボタンをひとつひとつと外してゆく。だが、彼は邦子の手を止めた。
その状態で数分間の間沈黙に支配される。
邦子は構わず手を動かそうとするが止められてしまう。その理由を邦子自身もよくわかっていた。
彼が何を期待しているのかを。一樹は絶対に手に入らないものを望んでいる。
一樹の手が邦子を封じこみ、抱き締める。
ほら、やっぱり居心地が悪い。
「僕を好きになるのはそんなにも難しいかい?」
五年間邦子を一途に愛し続けてきた。そんな男にこれ以上何も出来ない。
適当にそれらしい言葉を彼に与えるのは簡単だ。だがそれはあくまで商売女が客に言うのと同じ。一樹は五年間実態のない死体を愛してきたのだ。よもや私には死体と暮らしてきたあの男を哀れむことしかできない。どんな偽りの言葉を述べたところで応急処置的に傷を塞ぐだけで結局は何も変わらない。
嘘に気付かないほど一樹は愚かではない。
「やめよう…」
どんな言い訳も口にはしなかった。
「そうか。」
そうとだけ力なく答えると一樹は邦子を再び抱き寄せる。果たして彼は希望を断ち切ったのか知る由もなかった。
邦子は一樹の濡れた頬をバスローブの袖で拭うと、濁った瞳で彼を見つめ返す。
邦子は薄い唇を押し付けた。あまりに強引だったせいか歯と歯がぶつかる鈍い衝撃が走る。口内に血の味が充満する不快さを覚えながらもふたりは唾液の音を立てながら舌を絡め合った。まるでお互いを許し合うかのように。
たとえ邦子がこの世から姿を消しても彼の中にこの血は生き続ける。邦子はそう想像した。
もうふたりの間には何も無かった。
愚かかもしれないが他に出来ることなど何も無いのだ。夜が黒々とした翼を広げれば、果てしない孤独がやってくる。
思っていたよりもずっと一樹の肌は冷たかった。風呂上がりの邦子の暖かな湿った肌から彼が熱を奪ってゆく。まだ奪われるだけの熱が残っていることが意外だった。
母乃里子は美しい女だった。黒々としたロングヘアを靡かせて、香水の香りをほのかに漂わせる母と街を歩くのが好きだった。だが僕の自慢の母は父と僕だけのものではないと7歳の時の幼い僕でも薄々気づき始めていたのである。
そんな日の念入りに化粧を施してハイヒールを履く母は格別に美しかった。
幼かった僕にも母の機嫌の良さと服装からどこに行ったぐらいかは本能的にわかっていたのかもしれない。母が主婦や母親という名の服を脱ぎ捨てる一日のことを。
父親は出張が多くてほとんど家を留守にしていたゆえに家は僕と母の空間だった。
そんなふたりだけの世界を崩壊に導くのはいつも母の男だ。
ある日僕が布団で寝ていると誰かが入って来る音がした。最初はその足音が泥棒のものだと思って、布団の中で僕は身を固くした。大丈夫。こういう時には本の中では子供が大人の悪い奴をやっつけるんだ。僕がお母さんを守って奴をぼこぼこにしてやる。
そう心に決めて起き上がろうとした時、母の声が聞こえた。
「どうしたの?こんな時間に。私が独身じゃないことをよく知っているでしょう。」
「旦那は留守だろう?」
「子供がいるのよ。」
その時の僕はよくわからずにふたりの会話を息を潜めて聞いていたが、物心ついた時あの時のことを思い出して悟ったものだ。
聞いてはいけないものを盗み聞きしているようなスリルが僕の想像力を掻き立てた。
男の正体はどんな悪者なのだろうと。
「もう寝てるさ。乃里子、ふたりで出てゆこう。どうせ本当は旦那と別れたいんだろ?」
「とにかく今日は帰ってよ。また今度その話をしましょう。子供が起きるわ。」
「ガキは旦那に任せとけばいいだろ?」
幼い一樹は怖いもの見たさか好奇心からか、母の表情を盗み見てしまった。
今では見なければよかったと後悔をしている。隠れ見た母の顔は熱っぽく揺らめいてなんとも言えぬ女の顔をしていた。恋する女の顔とはこんなにも妖しく輝いているものなのか。蒸気したように頬を桃色に染めて、欲望を彩っていた。乃里子は欲情していたのである。
唇と唇を重ねて淫らな音を立てるふたり。耳を塞いで目を閉じていたかったが一樹はふたりの姿から目をそらすことなどできなかった。この先ふたりの熱と欲が何処に向かうのかを見ていたかった。
流石にこれ以上の行為に進むほどふたりから理性は失われていなかったらしく、ふたりはしばらく無言のまま溜息をついた。
どうして出てゆく母を止めなかったかはわからない。あの時行かないでくれと追いかけたなら何か変わっていただろうか。母は罪悪感を抱いてくれただろうか。自分の捨てた息子のことを案じてくれただろうか。
しかし、今ではあの時声をかけていたところで、母が男と逃げるのをほんの数日間遅らせただけのことだったと思う。女はやはり完全に女であるこのを捨てることはできないのだろうか。妻となり、母となってもなお、身体の奥底に女は息づいている。この世に貞淑な女などいない。女には魔物が住んでる。
その後一樹は祖父母の家に預けられた。
最初のうちは母が改心して迎えに来てくれることを期待していたがそれも二三ヶ月か経つとほとんど諦めることになっていた。
祖母がいい子にしていれば母は帰ってきてくれるという残酷なセリフを吐いたことを今でも忘れない。
一樹は嫌われることを極端に恐れて中身のない笑顔という名の仮面をつけるようになった。仮面をあまりに長い間纏いすぎて本当の自分も死んでしまった。
母には快楽に生きる女邦子に執着したのは母への復讐かそれともマザーコンプレックスからか。
彼女を見ると母乃里子を思い出す。だが結末は二十年前と同じだ。二度も同じ女に捨てられたような気持ちになった。
寂しい。ここは寂しい。
僕は20年前のあの日に引き戻されてしまった。あの部屋で母と男のキスを目撃したあの日に。
真冬の鋭利なナイフで突かれるような寒さの中、枝野は退廃の華を咲かせていた。
性急に邦子のデニムパンツを引き下ろすと枝野は女の太腿の素肌に触れる。
外の寒さの名残りで鳥肌が立っているよがよくわかる。それを確かめるように撫でられると邦子は吐息を漏らすが、その手のあまりの冷たさにゾッとした。
この男はいつもやっていることとは裏腹に、冷めきった視線と冷たい手をしている。まるで邦子の浅ましい欲望を見透かしているかのように。なのに会うことをやめられないのはどうしてか。
父親の亡霊と決別し、枝野への歪んだ執着から解放されたならどんなに楽だろうと思うが尽きることのない渇望を抑え込むことなどできはしないと邦子はとうの昔に諦めていた。
最初から一樹になんの愛情も持たなかったわけではない。私はあの人に希望を見たのだ。
枝野と別れ、手当り次第男との情事に耽っていた頃彼とは正反対の一途な一樹に出会った。一樹と共に生きれば幸せに生きて行けるという希望は瞬く間に消え去った。
邦子には愛なんていうものでは満たされない。手に入れたところで、せっかく買って貰ったおもちゃに数日間で飽きてしまう子供のような気持ちになってしまう。
一樹の人間味のない優しさが怖い。
彼と私に発展性がないのはきっと互いに互いを見ることを避けてきたからだろう。だから中身のない言葉しかかけられない。
壊れた関係はもうどうにもならない。だがそうとわかっていても離れることを決意する力さえも残っていない。
どうしてこんな情けない大人になってしまったのだろう。こんなはずじゃなかった。
だが引き返すにはあまりに遅すぎる。
いつもは買うことのない深紅の口紅に彩られた邦子の唇がキスによって無様に乱れる。
ブラジャーのレース生地と暖かな膨らみの間に差し込まれた彼の手。
彼に揉まれることが嬉しい。
彼じゃないと燃えない。身体の中で花火があがっているかのような感覚に陥る。
もう理性などとっくに捨てたと本能が訴えている。快楽を邪魔するだけの理性などいらない。
枝野は邦子の髪を持ち上げ、白いうなじに口付けた。
それも何回も。
身体全身で酒に酔っているようだ。
血管にウィスキーが流れて全身に行き渡る。
吹き出すように汗が流れて、背中に玉を作った。強引に仰向けになった邦子の頭を押し付け、ショーツをズラされると共に背後から彼を感じた。
呻き声ともとれる喘ぎ声が切なく空虚な空間に響くが枝野は気にも留めない。邦子の存在などこの男にはどうだっていいのだ。
彼女が感じていようが苦痛を感じていようが、自分さえやることをやれば関係ない。
奈落の底に突き落とされるような気分を味わいながら、快楽と苦痛は必ずしも矛盾はしないことに気づいた。
「どうして女を憎むの?」
ふと衝動的に邦子は聞いた。
この男はこんなにも女を快楽に酔わせながら結局は残酷に捨て去る。
悔しいことに捨てられた女は口では枝野への恨み言を述べつつも帰ってきて欲しいと心では願ってしまうのだ。
「君以外の女は大好きだよ。愚かでみなかわいい。」
そうだ。枝野はこれまで抱いたすべての女を平等に愛している。邦子以外は。そこに偽りはなかった。
「私は利口?」
「君があまりにも無様で可哀想だからさ。五年前もそうだった…君は何一つ変わっていないな。全く興醒めさせてくれるよ。。」
怒りさえも湧いてこず、邦子はベッドの上で空っぽの物体になった。
邦子を放すと枝野はズボンを穿き、シャツを羽織ると煙草を加えてベランダに出た。
無機質な淫らさとも言おうか。
くすんだ空が広々と無限に広がり、この男を讃えている。
鏡に目をやると、裸に近い姿の女の姿が映る。そこに淫らさは存在せず、糸を切られたあやつり人形のように哀れな女。
ボサボサに乱れた黒髪、キスで滲んだ口紅、ファンデーションに幾筋もの痕を残す涙。
可哀想?そんな言葉が聞きたいんじゃない。
枝野が女に暴力を振るう男の方がまだ邦子にはよかった。凶暴なまでの無関心。
せめて無関心意外の感情を抱いてくれたならどんなにいいだろうか。たとえそれが憎しみだろうと。
邦子は苛立ちを抑えられなくなって、枝野の背中にその場にあったルームキーを投げつけた。どうしようもなく惨めで、息が出来ないほど苦しくて、虚しい。
誰か助けて、耐えられない、そう全身が訴えていた。
振り返った彼はさほど驚いた様子もなく、ベランダの柵にもたれかかりながら気だるそうに邦子の様子を見ていた。
「俺をまた刺すか?」
枝野はニヤニヤと歯を覗かせながら口を歪ませる。
上手く言葉を見つけ出すことができなくて首を横に振ると、彼が煙草を柵に擦りつけてそれを投げ捨てた後寄ってきた。
彼の様子が怖くて邦子が手当り次第に暴言らしい言葉をを吐き、平手打ちしようとすると枝野は彼女の首を掴み、親指を強く押しながら唇を貪った。
その息もできないような激しい口付けと首を絞められる衝動に身体が芯から熱くなるのを感じたが、そこに意味も情もないのは邦子自身百も承知だった。
唇を放すと彼は笑っていた。
この人にはキスなんてなんの意味も持たないのだ。その笑顔が、笑い声が悪夢のごとく忘れられなくなるとその瞬間思った。
「私をまた捨てるの?」
「捨てる?」
膝を折って愉快で仕方ないという様子で、憔悴しきった邦子の顔を覗く。
「捨てるも何も君は僕の何でもない。妻でも愛人でさえもない。前原、僕には君はその程度の存在なんだよ。」
「ならどうしてあなたを刺した私を許してくれたの?」
「あの時君を訴えたところで失うものはあっても得るものはなかった。それだけさ。幸い傷を浅かったしな。」
枝野はシャツを捲りあげて、くすんだ色をした箇所を指さした。
邦子は考えるより早く膝をついて、その傷痕に口付ける。懺悔の気持ちなんて微塵もないくせに必死にとっくに塞がった傷を唾液を絡ませた舌で舐め回す。
鼻からはとめどなく鼻水が垂れ、涙と鼻水が混じった塩辛い不快な味が口内を充満させた。
枝野はやめさせる様子もなくしばらく見守ってはいたが、邦子が疲れ果てて床に腰を下ろすと彼女を組みしだいた。
「前原…もうやめとけ。俺なんか放っておいて君を幸せにしたいと思ってる奴のとこ行けよ。このまま身体の関係続けたって…俺の気持ちは変わらない。」
初めて枝野が一人称を僕ではなく俺と言った。
「妻と別れることもない…お前がどんなに望んだところで愛人にさえできない。」
「やだ。やだ。絶対にいや!」
プライドさえ消えて子供のように泣き叫ぶ自分を愚かだとどこかで知りつつもどうしようもなかった。
鼻水と涙で顔を汚して咳き込むくらい邦子は壊れていた。今この人に捨てられたら何をするかわからない。本当に呆れるくらい絵に書いたような愚かな女だった。
しかし愚かだとよくわかっていても滝のように溢れだす感情をこれ以上自分の中に抑え込むことも制御もできない。
「いや!あの時あんたが死んでくれればこんなふうに苦しむこともなかったのに!」
「誰のおかげでムショ行きにならなくてすんだと思ってるんだ。」
怒る様子もなく冷淡な様子で枝野は邦子の顎をつかみ、そう言った。
「誰も頼んでなんてないじゃない…訴えたければ訴えたければよかったのに。」
むしろ訴えられて、いっそのこと刑務所にでも入れられたら自由になれただろうか。
望んでもいない情けなどいらない。だがそれが彼の情けかもわからなかった。
「私のことなんてどうでもいいならどうしてこうやって会ってくれるの?」
「さあな。風俗と違ってタダで抱けるからかな。」
そう言って枝野は熱くなったそれを邦子の中に埋めてゆく。
「最低。」
こんなにも身体は深い結び付きを持っているのに心は閉め出されてしまう。
「キスしていいか?」
「いいよ。」
自分でも気付かないうちに答えていた。
唇が乾燥した上に摩擦で擦れてヒリヒリと痛むはずなのに快感だった。
「これっきり最後だ。」
彼が本心から言っているとは到底思えなかった。言葉とは裏腹に表情が快感に浮かされている。吐息が荒く乱れ始め、少し震えていた。枝野が邦子とのセックスで快感のあまり震えている。その事実が邦子に自信を取り戻させる。きっと彼の誓いは長くは続かないだろう。
「気持ちいい?」
「風俗嬢よりはな。」
「じゃあ、奥さんとどっちがいい?」
挑発的な口調で言った。
「黙れ、殺すぞ。」
「あなたになら殺されてもいい。」
本心から出た言葉だった。
枝野に殺され、彼がその罪を一生背負って生きてゆくとしたらこんなに贅沢な死に方はない。なぜなら死んだ女には誰も勝てないからだ。一生彼を独占できるならそれでも構わなかった。
「ねぇもう一度五年前に戻れたらどうする?」
「あれは抱くよ。」
「そんなに私かわいかった?」
「あぁ。かわいかったよ。」
「嬉しい。」
「まさかこんなに面倒な女だとは思わなかったよ。…」
彼の終わりが近いことが切羽詰まった息遣いから伺える。
「下の名前で呼んで。」
少しの沈黙を挟んで枝野は口を開く。
「美智留…」
やっぱり彼が邦子の期待通りのことをするわけがなかった。突如邦子の頭は絶望に駆られる。枝野にとって相手が女なら奥さんのでも邦子のでもどうだっていいのかもしれない。
ただ確かなことと言えば彼と邦子は身体の相性がいいということだけ。
こんなに虚しい縁なのにそれでも何も無いよりはマシだった。
彼が果てて邦子のすぐ横に倒れ込むと息遣いだけが、空気の流れのない部屋の唯一の音となった。
その日を最後に枝野とは連絡がとれなくなった。
ソドムとゴモラ 奏 月帆 @tsukihokamade
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