ソドムとゴモラ

奏 月帆

第1話

帰宅ラッシュの満員電車の中で他人と密着するのはよくあることだ。特にこんな夜には。

しかし、前原邦子はいつもと違うことがひとつだけあることに気付く。目の前にいる男は枝野孝之だった。この男に会いたくないがために大学時代はよく講義を休んだというのに。

離れようにも身動きひとつとれないほどの満員電車めはどうにもならない。

邦子は諦めたように視線を落とした。

どうかこのまま視線が混じり合いませんように。何事もなくどちらかが下車する瞬間が訪れますように。

彼のコートの生地に邦子の乾いた唇が擦れる。

邦子の口から漏れた吐息が枝野の胸のあたりにかかった。コーヒーと煙が混ざったような匂いが邦子の鼻をつく。

電車が揺れた反動で枝野の体重が邦子にのしかかり、少しばかり彼の身体とドアの間に挟まり圧迫されたが呻き声ひとつ漏らさなかった。

自分でもよくわからないが枝野の身体に押し潰される様が、息苦しさと共に快感をもたらした。

中年の男の匂いと圧迫感。

邦子はどういうわけか不快ではなかった。

枝野は一体邦子の存在に気付いているのだろうか。たったあれだけの出来事で認知さていると思い込んでいたのだから、それは自分自身の自意識過剰か。


「代々木上原」


枝野が乗せていた荷物を取るためか、邦子の頭上でゴソゴソと音を立てる。

ほっとするのと同時に寂しさを感じた。

この緊張がようやく終わりを迎えるのだ。

電車が停車するのと共にドアが開くだろう。ドアが開き、下車する人の流れが川を作るのだ。

だが、予想通りに時は訪れない。

男が荷物を抱え、足を踏み出した途端予想外の痛みに襲われた。

無意識に声が漏れる。

「いたっ!」

驚いた様子で枝野は振り返った。彼の視線の先には間違いなく邦子がいた。ようやく混じり合う視線。

どちらかが言葉を発するよりも早く枝野が邦子の肘を掴み、ほとんど空っぽになった電車から引き下ろした。

ドアが閉じる。終電の時間に近づいた駅のホームは、パラパラと行き交う人々がいるばかりで奇妙な静けさを保っていた。

終電を間違いなく今ので逃した。

そんなことよりも重要なことが一つあるとすれば枝野が何故邦子を引き下ろしたかである。

「髪が引っかかった。」

「え?」

自分の毛先に目をやると、枝野のコートのボタンに絡まっていた。

「ひとまずここは邪魔だから。」

枝野はそう言うとまるで当然の如く、邦子の肘を再び掴みベンチの方へと歩き出す。

彼は荷物を脇に寄せ、ベンチに腰を下ろすと几帳面に邦子の髪をボタンから解き始めた。

「あの、大丈夫ですから。ハサミ持っているのでそれで切ってください。」

枝野の胸に頬が触れる。

「女の子の髪を切るなんてできないよ。」

枝野は指を止めない。

「本当に結構ですから。どうせろくに手入れもしてませんし、ほんの数センチ切ったところで何も変わりません。」

「あと、少しだから辛抱してくれ。」

この人にとってはそれは思いやりなのかもしれない。だが、邦子にはいい迷惑だった。

「今何時かわかってます?私、たった今あなたのせいで終電を逃したんです。今更紳士ぶられたところで嬉しくはありません。むしろ不愉快です。」

「まいったなぁ。」

枝野は落ち着いた、柔らかな口調で続ける。

「申し訳ないことをしてしまったね、お嬢さん。」

彼はそれでも作業を中断しようとしなかった。

「ここから家は遠いの?」

「そんなに遠くはありませんが、歩いて帰れる距離ではないです。」

「そうか、じゃあこうしよう。この髪が解けたなら、君はタクシーを呼ぶかホテルに今夜は泊まるか選ぶんだ。どちらにしても責任をとって僕が支払おう。これでいいね?」

彼の声は昔嫌いだった講師のものとは別人のように聞き心地がよくて、知らない人のようだった。

「お金なんていただけません。」

「わからない人だな。君は僕のせいで終電を逃したと責めるくせして金は受け取りたくないと言う。どうしたら君が納得してくれるのか僕にはまったく検討がつかんよ。」

「私はあなたから一銭も受け取りたくないんです。」

枝野孝之。大学時代の一番の汚点とも呼べる存在。

邦子はどうしようもなくこの男が嫌いだった。

一度だけ。一度だけこの男に心を許した。

今ではどうしてかなど検討もつかない。愚かだった。

年上の男性というだけで憧れていたのかもしれない。邦子には生まれつき父親がいなかった。そのせいで父性を求めて、枝野という男を好きになってしまった。そんなふうに自分の境遇に託けて今でも言い訳をしていた。20歳の邦子の告白を受け入れて期待させておいて枝野は妻と別れなかった。

初めて愛し、初めて憎んだ人。

絶対に忘れない。この人だけは。

「失礼だが君はまったくもってクレーマーと同格だな。こんなことになったのは相手のせいだと決めつけるくせして、相手が案を出せば全てそれを否定して解決の糸口を消す。駄々をこねて人の関心を引こうとする子供じみたクレーマーそのものだよ。」

邦子は反論したいという気持ちとこんなことを言う男がどんな卑屈な顔をしているのか見てみたいという好奇心で反射的に顔をあげた。

しかし、もちろんボタンに絡まった髪が邪魔をして思ったようには動けない。

「せめて少しぐらいは大人しくはできないのかい?前原君。」

邦子の中から怒りがこみ上げてくる。

「いつからお気づきになられていらしたのですか?」

「君が電車に乗り込んできた時からずっと。」

枝野は憎たらしく、厚かましい笑を浮かべた。

「君が目を合わせたくなさそうにしていたから声はあえてかけなかったんだが、まさかこうなるとはね。」

邦子は恥ずかしくなって顔が熱く染まるのを感じた。

「君は案外子供っぽいことをするんだな。悪戯がバレそうな子供が隠れているようにしか見えなかった。」

「先生は人に恥をかかせないと気が済まない質のようですね。」

枝野は同等に話していた邦子を子供と呼び、精神的な格差を見せつけようとしている。

邦子は唇を噛んだ。昔からプライドを傷つけられるとよくこうして次の言動を考えた。

「そうだよ、特に君には。ほらもうすぐ解ける。あと少しの我慢だ。」

「それはよかった。」

「君は僕のように自分を否定する輩が苦手なようだね。」

「嫌な人。」

悔し紛れに漏らした一言だ。

「賢い人と言って欲しいものだね。」

鼻が慣れてきたせいか枝野の香りがまるで自分のものと感じられるほどに違和感がなくなってしまった。

邦子が嗅いだことのあるどんな男の匂いとも似ても似つかないが、だからといってそれを特別だとも思いたくなかった。

こんな凡庸もいいところのような男が特別なわけがない。どうせ、コーヒーだって上品な深みのある味のものではなくてスーパーに陳列された安物に違いない。

邦子には枝野がスーパーで買い物をするところが鮮明に想像できた。毎日欠かさずコーヒーは飲んでいても決して自分の生活範囲外には手を伸ばさない。枝野はそういうつまらない男に違いない。いや、そうであってほしいのだ。魅力的なんかでたまるか。

これはいつもの悪い癖か。邦子はそういう人間だ。映画が好きだという人間がいればどの程度の知識があるか品定めし、メジャーな量産系の作品しか知らなければ己を奢り、人を見下す。

それが良くないことぐらいわかっているが直す気なんて毛頭ない。そうするしか自己肯定なんてできないのた。

「ほらできた。」

邦子はやっと姿勢を立て直し、ボサボサになったロングヘアを軽く整える。

「ありがとうございます。」

「それでどちらを選ぶか決めたかい?僕はどのみちこここら歩きで帰れるからどちらでも構わないんだが。」

正直、どっちだっていい。

どうせこの男はお金を渡して無責任にも邦子を放り出すことには変わらないのだから。

「先生はどっちがいい?」

「君は本当に嫌な女だね。」

枝野は親指を邦子の唇にあてがう。

なんとも言えぬ奇妙な感情がこみ上げてくる。唾液が枝野の親指に絡み、名残惜しげに糸を引く。

そして、唾液が絡んだ指を枝野は自らの口にはこふ。

邦子の身体の内側で何かが再び燃えるのを感じた。ずっと前にこの男に与えられ、踏みにじられた何かだ。

もどかしい。

何かを期待してか、邦子はもの欲しげな視線で枝野の顔を見上げた。

眼鏡を外すと枝野は邦子の顔に手を寄せ、舌を差し入れる。唾液が淫らな音を立てて、舌と舌が片割れを見つけたかのように絡み合う。

何がどうなってこんなことになったことさえ、考えるのがめんどくさくなった。

邦子は人の好意を弄ぶのが好きな女だった。特別美人だとか、器量がいいわけではないがごくたまに、邦子の魅力に捕らわれてしまう男もいるのだ。

散々プライドを踏みにじられたこの男をどんなふうに傷つけて、捨てるか楽しみでならない。

愚かにも枝野の好意を確信していた。

八年前、自分を捨てた男。

こんなに熱いキスをするのだから、熱烈に邦子を想っていたに違いない。

しかし、枝野は自分の行為を恥じたのか唇を離しても邦子の目を見ようとしなかった。

「タクシーを拾おう。」

邦子は彼の後ろ姿を見つめ、キスの余韻が残る熱のこもった自分の唇に触れた。

ほとんど無人の駅前は世界から切り離された空間のようだった。街灯に照らされた枝野の顔は大学で見ていたものとは別人のように暗く、闇に囚われていた。

邦子は枝野を凡庸でつまらない男と決めつけたことを間違っていたと認めることになった。

この暗い瞳をした男のことをもっと知りたい。

そんな名前のつけられない欲望がそこにはあった。

「決めたわ。ホテルにする。」

枝野の背中に向かって邦子が言葉を投げかけた。

枝野は足を止めたが沈黙は続く。邦子は男の手の甲を指でなぞる。指の腹が皮膚に触れるだけでなんだか不思議と満たされているような気持ちになった。

横から枝野の表情を軽く伺うと、そこには葛藤も動揺も微塵もなかった。冷たい視線だけが邦子を捉える。世界から切り離された一枚の絵のようなふたり。枝野は無言のまま、邦子の腕をつかみ、歩き続けた。

邦子が足を踏み外しそうになろうが、止まってくれと頼もうが男は無視し続けた。腕を掴む手は驚く程に強くてびくともしない。まるで、殺人者のような冷たく強靭な手だった。こんな手で首を絞められでもしたら、女ならひとたまりもないかもしれない。しかし、邦子は怖いというよりはむしろ奇特な好奇心が己の中で勝っていることに気がついた。

普通なら怖いと思うかもしれない。だが内側こら何かがこみ上げてくるような気がしたのだ。

ようやく枝野が足を止めた。

視線をあげると、ネオンの光るいかにもチープな看板が目に入る。ふたりに迷いなんてなかった。倫理だとか世間体だとかそんなものはどうだっていい。この先のストーリーがどうなるのか知りたくてたまらない子供のような気持ちになった。

ただ邦子の脳裏には過去の記憶が蘇る。

「お母さん、あのホテルに泊まってみたい。」

幼かった邦子がこのチープなホテルを指さしてそう言うと、母は困った顔をした。

もちろん、その理由を当時は知る由もなかった。幼い頃は得体の知れないネオンの光るチープな外観と男女が手をつないで入ってゆく様子が不思議と魅惑的に感じて仕方がなかった。


もちろんこういった類のホテルは既に経験している。

邦子の初体験は高校の先輩であった。そんなことは当時ティーンエイジャーの邦子にはまったくもって深刻な出来事ではなく、むしろ一人前の女になった気になっていた。与えられる快楽も、古本屋に高々と積み上げられた安っぽい一昔前のロマンス小説の如く陳腐な愛の言葉さえも、邦子にはなんの価値もない。

どこでこの男はそんな安っぽい言葉を仕入れてきたのだろうか。それだけが疑問だ。そもそもあれだけ多くの文学や映画、音楽で高尚かのように、まるで全ての答えかのように語り尽くされてきた愛の行為がこんなにもつまらなく、呆気ないものだったとは誰が想像できただろう。

邦子は僅かながらも希望を抱いていたのだ。この行為が己のひん曲がった不届き極まりない精神を正してくれるのではないかというなんの確証もない思い込みに頼りきっていた。だがそれもまたたく間に打ち砕かれた。ピカレスク・ロマンとも呼ばれる悪役主体の物語でも最終的には悪役も愛に目覚める。しかし、そんな現象は邦子には訪れなかった。

枝野は邦子を乱暴に部屋に押し込むと、ドアがガチャりとガサツな音を立てた。

いくら枝野が女を大切にするような男ではないといってもシャワーくらい促すと思っていたが、あまりに性急に彼は邦子の手をとった。

邦子のショルダーバッグが肩からずり落ち、とても清潔感のあるとは言えないカーペットにたたき落とされる。

目の前にいる男は見知らぬ狂人だった。嫌味で陰険な中年男性の姿はもうない。あるのは欲望に取り憑かれた雄の姿だけである。

全てがあまりに一瞬のうちの出来事で全てを鮮明に記憶に留めておくのは無理な話だった。

古臭い、おばあちゃん家の寝室を思わせる花柄の布団カバーを彷彿させるベッドに邦子の黒髪が波打ちながら広がる。下着が上下違うことを思い出して、少しの間上下揃えてこなかったことを後悔したが幸か不幸かその必要はなかった。

枝野は戸惑うことなく邦子の膝を立て、ショーツに手をかけた。されるがままにしている邦子だったが、枝野の性急さをみてか、心と上半身を置き去りにされたような気がした。この男は邦子という存在にも、何もかもに興味などないのだ。

枝野の手はこんなにも熱く脈打っているはずなのに心が死んでいるような冷たい瞳をしている。それならば、好色な目をしていた方がよっぽど人間味があるというような空っぽの瞳。

邦子にはもはや彼が美男だろうが醜男だろうがだれであろうがどうでもよかった。

繋がりさえ持てば少しは変わるかと思ったが、枝野は淡々と行為を進めるばかりで何も言葉を発せず、何も見ようとはしなかった。

邦子は生まれて初めてモノになった気がした。この上なく空虚な体験ではあったが、自己の欲望を一方的に押し付ける枝野に恐れや怒りを感じたりはしなかった。むしろ人としてこの世に生を得たことや女として生きてゆくことからほんの少しの間、解放されたような気持ちになった。これまで邦子という人格に興味を示さず抱いた男は何人でもいたが、これほどまでに女の身体に興味を示さない男は他にいない。娼婦を買うような男でさえもう少し女の身体に触れるのではないか。

邦子はよりいっそうこの男への興味が湧いた。

白髪混じりの髪が汗で額に張り付き、ネクタイを閉めたままだったせいか、少し息苦しそうだった。よく見ると、枝野は全てボタンをとめている。邦子は彼が自分自身を閉じ込めているように見えた。どんな暗い牢獄にこの人の心は住んでいるのだろうか。

枝野は心と身体を切り離すしか女を抱く方法を知らないのだ。邦子は目を閉じて、嵐の中に身を置いた。


あまりに疲れていたのか、眠りに墜ちたことに気が付かなかった。予想はしていたが、やはり部屋に男の気配はなかった。だが、身体に残る節々の痛みとシーツのシワが昨夜の行為の激しさを物語っていた。

そして、部屋全体にあの男の匂いの名残りが残っている。あの安っぽいコーヒーと煙の混じった香りが。

邦子は自分の格好を確かめようとする。立ち上がってみるとほとんど衣服に乱れなどなかった。まるで何事もなく、ただ服を着たまま眠ってしまっただけかのように。サイドテーブルに丁寧に邦子のショーツが畳まれておいてある。邦子にはそれが唯一見せた枝野の優しさなのかどうかも判断できなかった。それに足を通し、軽く見なりを整えると不思議といつも不快でしかない朝日も美しく感じた。


傘が“残してあった”。

枝野のものだ。いつ会えるかもわからないがそれを置き去りにすることなどできやしなかった。


邦子はあの男の面影を求めてかコンビニで缶コーヒーを買い、まだ完全には登りきっていない朝日に照らされたアスファルトを眺め続ける。

* * *

井上という表札の中にふたりの住人がいた。

井上一樹は至って平凡という言葉がこの上なく似合う男だ。私大を卒業後、教職に就いて安定感のある生活をしている。

これといって目立つキャラクターではなかったがそれなりに恋人にも友人にも恵まれていたといえよう。

だが苦労した末に同棲までこぎつけた恋人、邦子は連絡もなしに外泊だ。

邦子はもともと掴みどころのない女で、そういうところに惹かれて想いを寄せるところになったのだが、側にいればいるほど孤独も深まる。


彼女との出会いは合コンというありふれたものだった。ほっそりとした血色の良いとは言えない顔に、大きな瞳。今時珍しいほどの漆黒の黒髪で、第一印象と言えば地味な女の子。それだけだった。

「あの子、さっき聞いたけどあぁ見えて結構やるらしいよ。」

当時の友人がそう言っていたのを覚えている。

「あんなに大人しそうなのに?」

一樹は信じられなかった。

邦子はどう見ても遊んでいるタイプには見えず、もしもそれが本当のことなら余程猫かぶっているということなのかと恐ろしくさえなった。

合コンの最中だってほとんど彼女は同性と話してばかりで、お酒も軽めのサワーにそこそこ口をつける程度だった。この子の中に魔物が住んでいるというのなら、いつどのタイミングで化けの皮が剥がれるというのか。彼女に強烈に惹き付けられたのはこの時である。

その日の帰り道、たまたま彼女と方向が同じふりをして二次会に誘ったがあまりに素っ気なく「明日早いので。」と断られた。もしあの噂が本当ならば自分に魅力がないから断られたのではないかと思い、一樹は知り合いずてに邦子の連絡先を聞き出し、どうにかして会おうと誘い続けた。躍起になって誘い続ける様はさぞかし惨めだっただろう。

ある日には警戒されまいと、何人かで飲みに行こうと誘い、またある時は映画に誘ったりもした。

もうほとんどストーカーになっているのではないかも我ながら懸念したほどだ。自分でも何故そこまでさほど美人でもない邦子に固執するのかはわからなかった。ただ、あの冷たさ目をしたどこか退廃的な雰囲気を最も女にもう一度会いたかった。せめてもう一度会うまでは収まらないものを感じた。

煙たがれるのを覚悟で一樹は初めてメールではなく電話をかけた。コールが回数を重ねる毎に、一樹の心臓の鼓動も鳴る。

「はい、もしもし。」

予想に反して邦子が電話に出た。

自分から電話をかけておいて緊張したせいか思ったように言葉が出ない。まるで中学生のようではないかと己を恥じた。何故か彼女の前では自身のあったコミュニュケーション能力さえも隠れてしまう。

「私に御用ですか?」

一樹が何も言えないせいで邦子が先に切り出す。なんて情けないのだろう。

彼女は電話先にいる男が誰だかよく承知しているようだった。気だるそうに溜息を漏らしながら彼女は応答を待つ。

「この前の合コンでお会いした井上です。覚えているかな。」

「覚えているもなにも。」

彼女は呆れたように続けた。

「毎日のようにあなたからお誘いのメールをいただいていますから。」

「ご迷惑でしたよね。」

この時はまだ心のどこかで彼女が社交辞令的な嘘をついてくれることを望んでいた。

「そうですね、でもあなたは私が迷惑がっているとわかっていて何故メールを送り続けてきたんです?」

邦子の冷静な非難は容赦なかった。一樹はオレオレ詐欺が見破られた詐欺師のように諦めて電話を切ろうとしたが、その寸前に再び彼女の声が聞こえる。

「無視ですか?」

「あなたにもう一度会いたかった。」

それが素直な気持ちだった。これ以上率直な言葉がないくらいに。

「それから?」

「え?」

「それから何をするおつもりだったんでしょう?もちろん私だって馬鹿じゃありませんからあの夜あなたが誰かから私の噂を耳にして、興味本位で誘ったことくらいわかっています。別にあなたのような方に軽い女だと思われたことくらいじゃ怒っていませんが。」

邦子の言葉は背筋が凍るほど、冷えきっていた。一樹を軽蔑するようでもあり、それ以上に無関心とも思えるような抑揚のない声。これならばいっそのことヒステリックに怒鳴られた方が数倍マシだった。

「あなたの言う通りです。でも、誤解しないで。僕はもうあなたを軽い女だなんて思っていません。あなたが魅力的だったからこうやって粘り強くお誘いしているんです。」

少しでも弁解しようと必死だった。

「あら、いいんです。私は噂通り軽い女ですから。娼婦まがいの女です。私から奇特なお話を聞けたらあなたは低俗なお友達に話すネタができてさぞかしご満足でしょうね。」

とても言葉にできない厳しさが彼女の言葉には込められていた。直接非難されるよりも、別段これは堪えた。

「僕はそんな話が聞きたいわけじゃありません。」

「だったら今からお話することをよく聞いて判断してください。それでも私と出掛けたければ喜んで伺います。」

僕は生唾をゴクリと飲み込んだ。彼女がこれからどんな告白をするのか予想もできない。

「私は幼い時から、同情とか共感とかそういった類の感情をどこかに置き去りにしてきたかのような性格だったんです。それはこの年になった今でも変わりません。周りの大人を心配させないよう、随分早い段階で私は猫を被り始めました。それは簡単なことだった。適当に話を合わせて笑っていれば、大抵の人は騙されてくれるのですから。本当に笑っちゃうほど笑顔の下の本当の私に誰も気づかなかった。今思えば、本当は気づいて欲しかったのかもしれません。私は誰かが瀕死の状態で助けを求めていたとしても平気で見捨てて素通りできる人間なんです。自分でも不思議なくらい。」

怖いもの見たさというか、不思議と邦子の話に引き込まれた。冷酷無慈悲なこの女から今更目を逸らすことなんてできない。

「私がなんで軽い女と思われるか知ってますか?」

「いいえ。」

一樹はできるだけ短く答えた。

「私は去年最低の恋をしたんです。今となっては恋と呼びたくもないけれど。俗に言う黒歴史のようなものです。私はもともと父親がいなくて女手一つで育てられたので、大人の男性に惹かれる傾向がありました。たまたまうちの大学に講師として来ていた人にどうしようもなく惹かれて……関係を持ちました。」

「どうしてその人に惹かれたの?」

我ながら不粋な質問だったと思う。彼女が最低の恋だったと言っているにも関わらず傷を抉るようなことをして。いや、彼女自ら話しているのだから問題はないのだろうか。

「さあ…わからないです。馬鹿だったんでしょうね。」

電話を挟んではいたが彼女の口から漏れる声が妙に艶めいていて、紛れもなくそれは女という形をした魔物だった。

「彼に遊ばれていただけだというのに私は我ながら無様な子供でした。あの人は決して誰も好きにならない。ただ自分本位に抱くだけ。」

「その人を好きだったんですね。」

「愛していたとも言えるし、執着していたとも言えるわね。」

邦子の口から執着という言葉が漏れると、ゾクッとした。この女のことを恐ろしくさえ思うのに、言葉ではとても言い表せない魔女のような魅力がある。

「僕は何故あなたがそこまで自分を異常者のように言われるかわからない。」

もしも異常者と呼ばれるべき者がいるというならば邦子よりよっぽどその男の方がふさわしいと思った。

「お聞きになってください。」

また話の腰を折ってしまった。一樹は頭を抱える。

彼女に好かれたいはずなのに、これでは嫌われても仕方ない。

「すみません、黙ります。」

何事も無かったかのように彼女は再び話し始めた。

「私は二年前、ファミレスでバイトをしていました。ある夜前触れもなく、彼がお客さんとして来てくれました。嬉しかったのか驚いたのかわからなくて私は最初のうち、気付かないふりをしていたけど、結局私が仕事を終える時間まで彼は何時間も待っていてくれたんです。こんなこと初めてでした。いつものように当たり前の如く、彼と夜を過ごすと思っていました。だけど、その日行為を終えた後…永い沈黙が私たちを抱いた…それから、そろそろ私との関係を終わりにしたいと。そう彼は悪びれもなく言ったんです。こんな夜に私を待っていてくれたのは、別れ話のついでに最後に記念に抱きたかったからだって。」

彼女の声は震えていた。

それは怒りを意味するのかそれとも哀しみなのか僕には検討もつかなかった。ただわかるのは彼女はひどく傷ついていているにも関わらず、未だにその男を愛していることだった。

「自分でも気づかないうちに私はあの人をハサミで刺していた。気付いたら私の手は愛しい人の血で赤く染まっていた。わからない。何故あんなことをしてしまったのか。私は重くのしかかる肉の塊を押し退けると、救急車を呼ぶことも出来たけれどそうしなかった。人として正しいことをすることさえできなかったんです。私はひどく冷静に服を着てひとりで部屋を出ました。もしかしたら、翌日には警察に捕まってしまうとかそんな考えが嵐のように頭の中を過ぎって…彼の心配なんて微塵もしていなかった。それから何ヶ月かするとあの人が何事も無かったかのように私に挨拶してきたんです。屈託のない笑顔で。きっと私を起訴しなかったのは自分の保身もあったのだと思います。」

話を聴き終わった後、何か得体の知れない嫌なしこりが残った。清らかな水に墨が一滴こぼれ落ちたかのように。

「聞かなければよかったと後悔しているでしょう?私はそれから手当り次第身近な男から、一夜限りの行為まであの人を忘れるために…いいえわからないわ。わからないけれど私がとうに失くしたしまった温もりを求めて、関係を持ったの。初めて全てを他人に話したから、ずっと楽になったわ。」

邦子の声が突然明るくなった。

驚くほど軽快でまるで純粋な乙女のように。

「私は盗んだことではなく捕まったことを悔いる盗人と同じです。刺したことではなく、あの人に出会ったことを後悔したもの。そんな私とまだ会いたいだなんてあなたが言うなら正気じゃないわね。」

邦子が溜息をついたあと、自分でも無意識のうちに一樹は答えを出していた。

「週末は空いていますか?」

どうしてかもう二度と彼女と会わないなんてできないと思った。たとえ愛した人を刺して見殺しにするような女でも。

電話越しでも明らかに彼女の息の流れが変わったのがわかった。彼女が呼吸する音が微かに聞こえる。

「土曜日の夜なら。」

「新宿の南口で。」

そう告げると別れの言葉もなしに彼女は電話を切った。


* * *


洗面台の鏡に目をやると、深いクマができているのがわかる。邦子と付き合い始めて今年で五年。

出会ったのは大学4年だったが、もうお互いいい歳だ。つれないのは相変わらずだったが、結局のところ邦子とは上手くいっていると思っていた。だが、彼女には無断外泊は大したことじゃないらしい。

彼女との暮らしは手からこぼれる砂をかき集めるようなものだった。

辛抱強く一樹は今日までその砂をかき集め続けてきた。決して夢に見たような生活だとは言えないが、邦子とは人並みの幸せを掴めると信じよう。この生活が一日も長く、いや終わりなど来ないために。


朝7時頃だったか、玄関のチャイムを鳴らす音が聞こえる。きっと邦子だろう。彼女は大抵鍵を失くすし、持っていたとしてもバッグの中から探し出すのを面倒くさがってほとんどの場合自分では開けない。

一樹はソファーから立ち上がると鳴り響く音に吸い寄せられるように鍵を開けた。

邦子は昨日出て行った時の化粧の名残もなくほぼ素顔だった。

一体どこで化粧を落とす機会があったのかぜひともお聞かせ願いたいものだ。

一気に問いただしたいという願望を抑えこんで、一樹は彼女に中に入るよう促した。

彼女は連絡をしなかった理由を説明することも、詫びる気配さえもなく、靴を脱ぐと洗面所へ行った。

すれ違いざまに彼女からするはずもないコーヒーの匂いがした。彼女はコーヒーが嫌いだ。どこでこの匂いを拾ってきたのだろう。

「どうして帰らなかったの?残業?」

彼女は図書館司書だ。終電を逃すほど遅くなることなどありえないというのに残業かと付け加えたのは嫌味だろうか。

「友達と飲んだ後、昔の知り合いに会ったの。五年ぶりだったわ。」

「それって枝野さん?」

一樹は彼女に、建前で塗り固められることに慣れた笑顔を向けた。

その男のことは五年前に電話で彼女の告白を聞いて以来一日として忘れていない。

まだ若かった彼女を弄んだ末に捨てた男。

邦子は憎しみから刺すほど彼を軽蔑し、そして何より愛していた。

「寝たの?」

いっそのことはっきりさせてやりたかった。

「ええ。」

ほら、やっぱり彼女は嘘をつかないでいてくれる。

とびきりの笑顔を見せて。

邦子は一切の戸惑いを見せず、まるで大したことないかのように頷く。特に罪悪感を顔に浮かべる様子もなく、冷蔵庫からミネラルウォーターを取り出す。

本当に何も感じていないかのように。

一樹は知っていた。彼女が何かを感じられるとしたら、枝野への執着心と快楽だけだということを。

あまりに悪びれもなく彼女が当たり前のように答えるが故に自分の道徳観がむしろ基準とはズレているのではないかとさえ思う。

「君は少しは嘘をつくことを学んだ方がいい。」

邦子はペットボトルから口を離す。だが、何も見ていない。まるで、最初から一樹の怒りや哀しみは存在していなかったかのように。

「これからは少しはあなたを気にかけるようにするわね。いいかしら。」

昔母に同じことを言われたことを思い出す。だが母は変わることができなかった。きっと邦子も同じだろう。

シワの寄ったブラウスのボタンを外す姿が、朝帰りした日の母の姿にそっくりだ。微かに汗ばんだ肌に一樹のプレゼントしたネックレスが張り付いている。皮肉にも他の男に抱かれた日に、一樹のプレゼントしたものを身につけてゆくとは。

邦子は何もかも母にそっくりだ。

時々念入りに化粧台の前で、化粧を施している様子を何度か目にした。決まってその日は小綺麗なワンピースを着て、何度も鏡の前で自分の姿を確認した。

普段格別に美しいと思ったこたはないが、なにかに取り憑かれたように着飾って出掛ける母は美しかった。深紅の口紅をさして、恍惚と得体の知れない何かに溺れる母を一樹は見送り続けてきた。

「シャワー浴びてくる。」

彼女は気だるそうに浴室に向かった。

まるだいつものつまらない日常のように。

* * *

何日が経ってもまだ生々しく枝野の匂いが身体に残っている。邦子はあの日以来自分の中からなにか大切なものが抜け落ちて、どこかに置き去りにしてきてしまったような気がした。

自分の中に簡単には決して塞がらない、大きな穴ができてしまったのだ。まるでアルコール中毒者がアルコールを有害だと知りつつやめられないのと同じように。


とうに邦子から判断力など失せていた。

今はあの男に会うことしか考えられない。

母校に行けば会えるだろう。まだ彼が講師を続けているかさえ知らないのに、邦子は衝動的に母校の受付を訪ねていた。

「もうすぐ講義終わる時間帯だと思いますよ。お約束ですか?」

地味な大学の事務員の女が言った。

「いえ、先日先生が忘れ物をなさったので届けに来ました。」

「そうでしたか。」

枝野は邦子を見たらどんな顔をするだろうか。

あの日、彼が傘を置いていったのは未練からか。それとも単なる忘れ物か。

誰かがぶつかったのか、背中に軽い衝撃が走る。

「すみません、大丈夫ですか?」

忘れもしないあの男の声。

邦子はゆっくりと振り向く。視線が交じる瞬間、沈黙が続いた。

「傘を返しにきました。」

このまま何も言わなければ、他人のふりをして枝野は通り過ぎるだろう。だから邦子から口を開いた。

「わざわざこんなものをここまで届けに来るなんて、君もずいぶんと暇なんだな。」

彼は邦子の手から傘をひったくるように受け取る。

冷たい対応をされて、急に惨めな気持ちになった。

「話をする時間はありませんか?」

「悪いが君ほど暇じゃないんでね。」

彼の言葉は真冬の早朝の空気の如く冷え冷えとしていた。もともと愛想がいいタイプの人間ではないがあまりに不自然だ。

「ほんの少しでも私に言い訳をする時間はありませんか?」

通り過ぎようとする枝野を引き止める言葉だった。

これは精一杯の脅迫なのだ。

「喫茶店で待っていてくれ。すぐ行く。」

彼は諦めたような、呆れたような目で言った。

喫茶店。懐かしい五年前を思い出す。

昔、よく枝野と彼を慕う生徒数人で通ったものだ。

彼と別れて以来、彼の面影を嫌って行くこともなくなった。

そんなに邦子を抱いたことを忘れたいのだろうか。別に彼に気遣いを期待しているわけじゃない。むしろ、心と身体を引き離された方が余程楽で居心地がよかった。だがこんなふうに避けられるのはあまりにプライドが傷つく。


邦子はティーカップの縁についた口紅を親指で拭う。もうそろそろカップの中身が半分くらいになると思い始めた頃、透明のドア越しに枝野の姿が見えた。

邦子は溜息をつく。一体自分は何をやっているのだろう。こんな男にストーカーのような真似をして。

「待たせて悪かったね。」

「いえ。」

彼は注文したコーヒーをウェイトレスがテーブルに置くと、口をつける。

先程ほど厳しい目をしているわけではなかったが、相変わらずどこか冷めている。

「昔はクリームソーダが好きだったのに、もう頼まないんだな。」

この喫茶店の出す、青いクリームソーダが好きだった。昔、上に乗っかったさくらんぼを退けてアイスクリームを頬張る邦子を枝野は嬉しそうに見ていた。

「もう、私は27です。」

「大人だというなら悪いがあんな真似は二度とやめてくれ。迷惑極まりない。」

「あらどうして?」

わざと反抗的な言い方をした。

「僕の立場を考えてくれ。」

「ならどうして傘を置いていったのよ?」

「置いていったんじゃない。忘れたんだ。忘れたことさえ気づかなかったよ。」

素っ気なくそう言うと、どこかに目を逸らしてコーヒーに再び口をつける。

「嘘よ。あなたは私にもう一度会いたいからわざと置いていったのよ。そうでしょう?私がわざわざ届けに来るとわかってらしたのよ。」

「僕もなかなか厄介な女に好かれたようだな。君はようやく癒えた傷をまた抉るような真似をする気かい?」

枝野はかつて邦子が刺した脇のあたりに手を当てながらいやみったらしく言った。

そして、煙草を胸ポケットから取り出すと遠慮の欠片もなく吸い始める。

「あなたが悪いのよ。全部…あなたが…」

「君は相変わらず情熱家だな。それで、ご要件は?」

煙草を灰皿に押し付けると、余裕綽々や様子で邦子の表情を伺う。

「あなたの匂いが私から離れないから返しにきたの。」

枝野は邦子の言葉を笑った。穴があれば隠れたいほど恥ずかしいくなり邦子は唇を噛んだ。

「そこまでしつこく追い回されては、僕もあの日のことを過ちだと言わざるを得ないな。」

「あなたの人生に過ち以外のことなんてあるのかしら。」

「辛辣な言葉をありがとう、その通りだ。僕は公開で人生の隙間の多くを埋め尽くしている。」

邦子に具体的な要求はない。あるのは名前のつけようのない底知れぬ欲望だけだ。

枝野はポケットから数枚の札束を取り出すと、数え始めやがて少し考えた後、三万円をテーブルの上に置いた。

「何?」

「僕が君のためにしてやれることはこれぐらいしかない。」

邦子は生涯にわたってこの金額を目にするたびにこの記憶を呼び戻してしまうだろうと思った。

「受け取ると思いますか?」

邦子はカップにまた口をつける。

もうほとんどカップには液体は残っていなかった。

「僕に愛人はいらない。特に君は必要ないんだ。昔のこともあるし、なんせ君は面倒な人間だ。御免だよ。もっと普通の優しい男を探した方がいい。」

「ご心配ご無用です。私にだって同棲している男の人ぐらいいますから。」

「それは意外だな。それならどうして僕に固執するんだい?悪いが僕はただの一度だって君に興味関心を持ったことは無い。その証拠に簡単に捨てた。」

「そうでしょうね、普通の男なら商売女相手にだってもっと紳士的なはずだわ。」

枝野は本当に邦子に関心がないのだろうか。

いいやそんなことあるはずはない。そんなことあってはならないのだ。

邦子はお札を手に取る。お札は明らかに新札で、今さっき下ろしたということを物語っていた。彼は贅沢とは無縁の男だ。コンビニのおにぎりやインスタントヌードルをすすっているイメージしかない。

このお金を受け取ってしまえば邦子は娼婦になる。そうわかつていた。

「私は三万円の価値だと思う?」

「さあ、少なくとも僕には妥当な金額だ。」

枝野が侮蔑するような目で言った。なんて不愉快な言い方だろう。だが、それも自分にそっくりなことに気がついた。自分でもよくわからないが、こんな滑稽な状況が面白くて仕方がなかった。

「昔のように今も女遊びしていらっしゃるんでしょう?」

「そうだな、女たちが僕を放っておかないんでね。」

冗談を言うような軽い口調だった。

「ドン・ファン気取りもいいところだわ。」

「彼ならはした金で解決するような野暮なことはしないだろうよ。」

ティーカップが底をついた頃、邦子はギラギラと暗い輝きを帯びた瞳で枝野を見つめる。

三万円を枝野の手に握らせて言った。

「あなたをこのお金で買う。浮気は慣れているようだからこのくらい構わないでしょう?その代わり、三万円のサービスはしてくださいな。」

「何を言い出すかと思えば。今の君はまるでおもちゃをねだる子供だよ。」

呆れたような目つきで彼は三万円を受け取りもしなかった。

「昔から私はねだるのは得意だったんだから。」

この卑屈で無愛想な男を苦しめてやりたい。そして彼の腕で再び乱れたい。

一樹は何もかも完璧で優しい。だが時折彼の愛は邦子には窮屈だった。今の邦子にはこの男の情事が彼の優しさから逃れる唯一の術なのである。

家も食費もほとんど一樹の金で賄っている。邦子は彼との生活に一銭も出したことは無かった。いわゆるヒモ状態だ。だが一言も彼は文句は言わない。

一樹に呆れられて追い出される日を待っていた。なのにその日は依然としてやってこない。

いわば私はペットなのだ。衣食住を与えられながらも特に主人に報いるわけでもないペットに。

邦子は見えない一樹の愛という名の鎖で繋がれている。だんだんとそれが当たり前になってきて、彼に対する気持ちも単なる同居人のようなものになってきた。それが悪いとは思わない。何の疑問も持たない。ペットと主人の関係に誰もが疑問を持たないのと同じように。

私はただ檻をほんの少しの間抜け出しただけ。

枝野はほんの少しの間邦子とお札を交互に見つめると、やがてそれを元のポケットに戻した。

「ご要望は?」

少し悪戯っぽく彼は白い歯を見せて笑を浮かべた。

「いつもあなたがやっているようにして。」

邦子は空になったカップの底をしばらく見つめた。このカップに注がれた紅茶のように私も飲み干されてしまえばいいのに。そして空のカップのように肉体だけがこの世界に置き去りにされるのだ。

「いつもやっているようにねぇ。」

枝野の濁った瞳を見た。彼は何を求めて女達を抱くのだろう。愛か慰めか、それとも自尊心からか。

濁った瞳、歪んだ口元、薄っぺらい唇。

どれをとっても美しい要素なんてないのに、ここに退廃的な官能美をどうしようもなく感じるのはどうしてだろう。


枝野がルームキーをサイドテーブルに乱雑に投げ捨てる音が聞こえる。

男に背を向けて邦子はストッキングを肌の上で滑らせた。ムダ毛の処理を忘れていたことに気がづいたが、特に気にすることもないだろうと邦子はくしゃくしゃになったストッキングを丸めてカバンに突っ込む。

「ガサツだな。」

「悪い?」

「君は昔からそうだ。本当はちゃんとしたものを書けるだけの力を持っているというのに適当に最低限のものを仕上げる。」

世の中には話し合ったところで絶対に理解し合えない人間がほとんどなのだから、真面目に論じたところで無駄じゃないか。

「わかっていたんですね。」

「わかっていたとも。君の本気が見たかった。」

邦子は窓辺に腰掛け、とても景色のいいとは言えない窓の向こうに手をやる。

都会だとは思えない、世界から忘れられたような街。

ホテル街のチープなネオンといかがわしい店の客引き。世界一般の人々はここに生きる人達のことを忌み嫌い、蔑むだろう。だが世界に人と人が存在し続ける限り、この世界は存在し続けるだろう。

いつの時代から人は娼婦を軽蔑の眼差しで見るようになったのだろう。そもそも求める人がいるから彼女たちはそこに存在するというのに。

ここまるでソドムとゴモラだ。

私たちはその住人。だがここは旧約聖書にあるように滅びたりしない。神の存在を忘れ、神を裏切る者たちが住まう街。

彼は窓の外にばかり意識を傾ける邦子の方に手を置く。振り向く邦子の頬に手を寄せ、唇を重ねた。

生えかけの髭がちくちくとした感触を生む。確かにここに欲望は存在するのに、どこか冷めている。一樹とは対照的だった。しかし愛情深いあの人を裏切ってまで邦子は枝野に会いに行った。心の中の欲望の赴くままに。

やがて彼の舌が侵入すると邦子こ舌に絡みつき、独立した軟体動物のように口内で暴れ回る。唾液が溢れ、顎の方まで垂れてきたようだがそれでも彼が唇を話す気配はなかった。唾液の冷たさを不快に思ったが、次第に気にならなくなった。

ようやく唇を離した時、ふたりは水中から上がったばかりかのように息を吸った後、共に深い溜息をついた。

彼の息が邦子の顔にかかる。

こうなることを望んだのは自分にも関わらず、欲望に彩られた男の視線に狂気さえ感じられる。

枝野は邦子の肩からキャミソールをじっとりと時間をかけて引き下ろす。邦子の視線は彼が触れている肩を捉えていたが、次第にふたりの視線が交じり合う。

枝野は少し膝を折り曲げて、邦子の様子を伺いながらこれで満足かと嘲るような笑を浮かべた。

邦子はまだヒリヒリとする唇を噛み締める。

彼の笑い声がつんざくように響き渡った。邦子の肘を掴み、ベッドへ投げ捨てるとジャケットを脱ぎ始める。

彼が服を脱ぐ様子を邦子はただ空虚な瞳で見つめた。そこにどんな感情があるのか検討がつかない。

とても上等とは言えないベッドの上に彼が膝をつくと、ベッドに柔らかすぎて軋む音が響いた。

ゆっくりた邦子は枝野がのしかかる体重を心地よく受け止めて、そのまま倒れ込む。

ふたりともそれ以降は何も言う必要がないことをよく知っていた。互いの体温を確かめ合うように触れ合う。そこに欲望はあっても労りや気遣いは存在しない。それだけが唯一の救いだった。

彼の指がフレアスカートの中にすべりこみ、慣れた手つきで同時に唇が首に吸い付く。

邦子の息は規則正しさを失っていたが、彼の整った息遣いが耳元で聞こえる。

唇が肌に吸い付く音も邦子の胸を熱くさせた。

自分の中の何かを一枚一枚削ぎ落とされてゆくような気がした。削ぎ落とされてゆくものはきっと生きているうちに無意識に纏ってしまった嘘偽りで、奇妙にも邦子は生まれたての汚れを知らない赤ん坊のような気持ちになった。普通、男に抱かれるのは汚れると印象づけるのであろうが邦子はそんな気持ちになった。


日が上がっているはずの時間なのに部屋に自然光は入ってこない。そうか、ここは陽の当たらない場所なんだ。太陽にさえ見捨てられた人間が住まう街。

隣に目をやると案の定、枝野の姿はない。

邦子は乱れた髪をかきあげ、乱れたスーツの中に身を沈めた。ギィギィとベッドが軋む音がする。

サイドテーブルに置いた携帯電話を手にするが、一樹からの着信が目に入ると再び元の場所に置く。

ぼんやりと白い天井を眺めているうちに、我ながら馬鹿げた己の行動を振り返った。

この上なく愚かなことには変わりないが、後悔はしていない。邦子は久しぶりに満ち足りていた。

なんとなく、まだ彼がここにいるかのような余韻が感じられる。

ウィスキーが喉を焼くような、バターかも舌の上で蕩けるような夜の記憶。昨晩の出来事にも関わらず、遠い夜のような気がした。

邦子は気だるさを押し殺してなんとか立ち上がり、湯船に湯を張る。浴槽の端に腰を下ろし、そこに湯が満ちてゆくのを見つめる。

室内ではあっても冬の冷たさに肌を擽られた。だが風邪をひくかもしれないとか、寒いだとかそんなことは邦子の頭にはなかった。

夕闇に焼かれ始めた赤い陽の光が水面に反射する。

このまま輝く水面の中に消えることが叶えば…。快楽で満たされてたまま。

邦子は浴槽につかり、虚構の情事に酔いしれる。

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