第6話 7月25日 16:30 斎藤蓮

 俺達は、凍りついたようにその場から動くことができないでいた。


 蛇に睨まれた蛙とは、まさに今のような状況をいうのだろう。


 男の風貌は異常だった。


 元は白かったであろう、血で真っ赤に濡れた長袖のワイシャツに、黒のチノパン。


 だけどそのワイシャツ以上に目を引くのが、その見開かれた両の瞳だ。


 地獄へと繋がる穴のように、その目は黒く霞んでいた。


 こいつからは、一刻も早く離れなくてはならない。


 俺の中の第六感ともいうべき警鐘が、目の前の存在に対してうるさいほど鳴り響いている。


 動悸が早まり、先程の気持ち悪さが蘇ってきたが、なんとか目の前の男に意識を集中した。


 男は、色黒の肌に髪は短く刈り込んでおり、年齢としては、30代から40代の間くらいではないだろうか。一見中肉中背に見えるが、その首筋の太さから、それなりに鍛えられていることを伺わせた。


 男の異常な風貌は、そこの救難筏とその中にある拳銃に、なんらかの関係があるように思う。


 そんな状況で、この場をなんと言って切り抜けるか、熱のこもった頭で必死に思案していた時、最初に口を開いたのは山口だった。


「……すんません、ウチら珍しいと思ってそこにある筏を見に来たとこなんスよ。あれっておじさんのですよね。別に中とかは触ってないんで、ウチらはこれで帰りますね。」


 そう言うと、山口は一瞬こちらへ目配りをしながら、身を翻す。


 今のがベストな答えかどうかは分からないが、一刻も早くこの場から立ち去りたいので、取り敢えず俺も山口の後に続いた。


 足元の岩場を歩きながら、背後を振り返り男の様子を伺う。


 男は山口の声が耳に入っていないのか、その場から微動だにしていなかった。


 何を考えているのかわからないが、とにかくこの場から離れよう。


 そう思い、俺が前を向こうとした瞬間、男と目が合ってしまう。


 いや、実際には目が合ったのか、男の瞳が黒く霞んでいるためわからなかった。


 だけど、あれは俺を見ているのだと直感する。


 その瞬間、自分の身の毛が一斉に逆立つのを感じた。


 走れ!!


 そう、山口に声を掛けようとしたが、俺の声が山口の耳に入ることはなかった。


「ゥオアアアアアアアアアアア!!」


 男が、咆哮していた。


 その音量に、空気が震えるのがわかる。


 男は全身から振り絞るように声を上げると、こちらに向き直った。


 刹那、先程までの時間が停止したような状態からは打って変わって、俊敏な動きでこちらに突進してきた。


 あまりに突然のことで、体が反応しない。咄嗟に両腕を顔の前に上げて身を守ろうとする。


 しかし、激突の衝撃に襲われることはなかった。


 その代わり、横から水しぶきが上がる音と山口の苦悶の声が聞こえてきた。


 咄嗟に振り向くと目に入ってきたのは、男が山口の上に馬乗りになり、殴り付けようと腕を振り上げた瞬間だった。


 男は振り上げた拳を躊躇なく山口の顔面に振り下ろす。


 山口は両手で顔面を庇うが、その隙間を縫うように拳が顎に叩きつけられ、鈍い音と共に彼の頭が震えた。男は間髪入れずに、再び山口を殴り付けようと反対の手を振り上げた。


 刹那、俺の体は反射的に前へ駆け出していた。


 足元の岩を蹴りつけ、馬乗りになった男に一息で接近する。


 男の近くの岩場に左足から着地すると、その勢いを全て右足に込め、男の右顔面へと真横に振り抜いた。


 右足から顔面へ力が伝わる感触と共に、男が岩の突き出た海岸に水しぶきをあげながら転がって、そのまま動かなくなる。


 俺はすぐに、倒れたままの山口に駆け寄り声をかけた。


「おい! 山口大丈夫か!? おい!」


 山口は、俺の声が聞こえてるのか、半開きの目で僅かに反応を示した。


 意識が全く無い訳では無いが、男に押し倒された際に頭を打ったか、殴られた時に脳震盪を起こしたのか、どちらかは分からないが朦朧としている。


 こんな状態で動かすのはあまり好ましくないだろうが、この際仕方がない。


 山口の腕を俺の肩に回してから腰を上げ、裏浜に向けて足早に歩きはじめた。


 あの男の様子は明らかに異常なものだ。黒く霞んだ目に、半開きになった口からは涎を垂れ流しており、明らかに正気を失っている状態だった。


 あいつは一体なんなんだ?


 精神異常者か、それとも薬物中毒者か。


 何故俺達が襲われなければならないのだろう。


 筏の中を見られたから?


 それを今考えても答えは出ないだろう。


 取り敢えず、裏浜へ助けを呼びに行かなくては。


 その時、背後から水の中を走る音と、激しい息遣いが迫ってきたことに気付いた。


 まさか、あれだけ綺麗に顔面を蹴られて、もう動くことができるのか!?


 そう胸中で呟いた瞬間、俺は背中からの衝撃で宙に浮いていた。


 腰に回された男の腕の感触から、背後からタックルされたのだろう。肩に担いでいたはずの山口の腕は、その衝撃で離してしまった。


 その勢いのまま俺と、腰にしがみついた体勢の男は砂浜を転がっていた。


 砂浜に倒れた衝撃で、腰に回された腕は解け、男は俺と同じように砂浜を転がる。


 男は両手を地面に付け、獣のような動きで起き上がり、こちらに向き直った。


 男の黒く霞んだ目は、見ていると魂を吸い込まれそうに感じる。


 その目は、俺に死を予感させた。


 殺される。


 生まれて初めて経験するの命の危機に、俺の体は反射的に男に背を向け、がむしゃらに駆け出した。


 男との位置関係で、裏浜とは逆の方向に走り出したため、誰かに助けを求めるという選択肢は無くなってしまう。


 背後数メートルからは、男の激しい息遣いが聞こえた。


 どうする。


 何か……何か身を守れるものが……。


 その時、視界にオレンジ色の救命筏が映った。


 あれしかない!!


 俺は岩の突き出た海岸に飛び出し、岩の上を駆けた。


 背中からは、不安定な足場を物ともしないのか、男が距離を離すことなく追いすがってきている。


 俺は無我夢中で、筏の生地の隙間に体を捩じ込んだ。


 転がるように筏の中に入ると同時に、筏の床に落ちていたホルスターを拾い上げ、その中から銃を引き抜く。


 そのままホルスターは床に投げ捨てて後へ振り向き銃を構えた。


 男は俺と同じように筏の中へ体を突き入れてきたが、下半身が引っかかっており、奇声を上げながら俺に向かって両手を狂ったように振り回し、もがいていた。


「もうやめろ!! マジで撃つぞ!!」


 まさか本当に自分が刑事ドラマのような薄ら寒い台詞を言うことになるとは、今まで夢にも思わなかった。


 だがこの状況でそんなことを考えている余裕はない。


 男は俺の話しを聞く気配はないようで、顔だけをこちらに向けながら滅茶苦茶にもがいている。


 その表情は、人間性をまるで感じさせない、獣のようだった。


 ダメだ、完全に狂ってる。


 俺は右手の人差し指を引き金に当て、慎重に引き絞り、その状態で指を止めてもう一度だけ警告した。


「あと3つ数えたら撃つ。抵抗すんな。……3。」


 怖い。


 先程までの外敵に対する原始的な恐怖とは違う、本物の銃を人間に対して撃ち放つという行為に恐怖を感じる。


 この引き金を引けば、当たりどころによってこの男は死ぬだろう。


 俺が今、殺そうとしている。


 これは正当防衛になるのだろうか。


 そんなことを考えながら、俺は次のカウントを口にしようとした。


 その瞬間、男は両手で床に手を突き、海老のように体を仰け反らせると、引っかかっていた下半身を外から引きずり出した。


 俺はそれを見て反射的に引き金を引く。


 凄まじい轟音と共に銃口から弾丸が弾き出され、その衝撃が俺の両腕から肩に突き抜ける。


 予想以上の衝撃に、大きく銃口が跳ね上がるが、なんとか手放さないよう堪えた。


 薄暗い筏の中を、一瞬閃光が迸り周囲を照らし出す。


 弾丸はうつ伏せの状態になっていた男の腰を穿ち、そのまま貫通したのか、筏の床にも穴を開けたようだった。


 穴から空気が漏れ出し、筏が急激に張りを失い、俺の足元がおぼつかなくなる。


 男は弾丸が命中したことにより一瞬動きを止めたが、すぐに俺に向かって這いずり、追いすがってきた。


 こいつは自分が撃たれたことを分かってないのか!?


 確かに弾丸は男の腰に命中している筈であるが、男の動きは止まらない。


 背中から腹にかけて穴が空けば、普通その場でもんどり打ってもおかしくないはずである。


 驚愕している俺の隙を付いて、男が右手を伸ばして俺の左足を掴む。


 そこで我に返った俺は、更に弾丸を放とうと銃を構えるが、不安定な足場で足を引っ張られその場で尻餅を付いた。


 男は掴んだ俺の足を見ると、大きく口を開けて、ふくらはぎに食らいつこうとした。


 俺は咄嗟に自由な右足で男の顔面を何度も蹴りつける。


 男は口から血を流し始めるが、それを物ともせずに、今度は足を引っ張りあげ、俺に馬乗りになった。


 男は右手を振り上げて、山口の時と同様その拳を俺の顔面に向けて振り下ろした。


 俺は顔を背けて左手で顔を庇うが、拳は俺の額を直撃し、鈍い痛みと共に目の前に火花が飛ぶ。


 間髪入れずに何度も俺の左腕と頭に男の拳が飛んで来る。


 俺はそれに耐えながら、右手で持った銃を男の腹に向け、二度引き金を引いた。


 再び筏の中で鳴り響くが、男の動きは鈍ることがなかった。


 化物か……。


 俺はそう胸中で呟く。俺の上に跨るこの男は、間違いなく化物である。一体どこに銃で腹を三発も撃たれて暴れ続けられる人間がいるのだろう。


 それはもはや人間ではなく、つまりは化物だった。


 男は振り下ろす両の拳を止めて、今度は俺の髪と銃を持つ右手を両手で掴み、血で染まった口を開けて露わになった首筋に迫る。


 俺は左手で男の首を掴んで必死にそれを阻もうとするが、唸り声を上げる男のグロテスクな口が近づいてきた。


 俺は、生まれて初めて死を覚悟した。


 俺はここで殺されるのか。


 頭には、今まで出会った人達の顔が走馬灯のようにフラッシュバックする。


 山口、航、志保、親父……母ちゃん。


 目に涙が浮かび、男の顔が歪んで見えた。


 しに……たく……ない……。


 死の覚悟より、生き残るための意思が勝った瞬間、俺は右手を掴む男の腕を、渾身の力で振りほどいた。


 自由になった右手で持った銃をすぐさま男へと向ける。


 今度は相手の腹ではなく、迫る男の口の中にその銃口を突っ込んだ。


 ……俺は……生きる。


 そして、そのまま引き金を引いた。


 筏の中でこだまする銃声と共に、男の血と脳髄が、花火のように打ち上がった。



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終わりの世界で、始まる世界 キン丸 @kinmaru6

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