巻末資料:『菊華繚乱ブーツトゥー』本文

菊華繚乱ブーツトゥー

 彼女の靴音は菊花に似ていた。

 僕は手折ったばかりの小菊に顔を寄せる。青々しい、しかし高貴をちらつかせる香り。固い蕾のいくつかが頬を撫でる。

 このベランダには多種多様の菊が植えられている。マンションの高層階にあるベランダだから、そう広くはないが、置ける限りの鉢植えを置いている。開花を待つ色とりどりの蕾たち。僕は懇切丁寧にこれらの世話をする。

 なぜなら彼女から離れていられる貴重な時間だから。

 目の前に広がる秋空。戯れに赤い花弁に齧りつく。舌の上を走る苦味に呼ばれる回想。

 彼女は美しかった。

 付き合い始めたのは三年前。二人とも短大生だったとき。

 ブーツのよく似合う女性だった。この季節はヒールの高いロングブーツをホットパンツの下で履きこなし、背筋を伸ばし体軸をぶらさず凛と歩いていた。こん、こん、道を叩くヒールの音が、花のように開いては散り、咲いては消えていた。

「僕、ブーツが好きなんだ」

 そう素直に告げて以来、彼女は様々なブーツを履いてくれた。

 もう少し寒くなるとタイツにスウェードのロングブーツを。もう少し暑い季節には素肌にブーティーやグラディエーターのブーツを。彼女は履いていた。そのどれもが、柔らかな脚の線に引き立てられ、たまらなく美しかった。

 しかし、彼女はもう。


 僕は菊を抱え、部屋の中に戻る。クリスタルガラスの花瓶に菊をいける。午後一時の光がガラスに反射し、真下から菊を彩る。その花弁を指先でもてあそぶ。

 そう、一番美しかったあの頃の彼女は普通の短大生だった。芸術になど縁のない。接客バイトで稼いだお金を、ちまちま服やブーツに使うだけの。

 僕は短く溜め息し、菊から手を離した。頭を仕事に切り替える。

 廊下を渡り、彼女の部屋をノック。

「どうぞ」

 憮然とした声が応える。僕はドアを横にスライドした。

 彼女がパソコンで作業していた。液晶にタブレットにペンを走らせている。左でキーを叩く強さから機嫌の悪さが見て取れる。最近の彼女がご機嫌なことなど、まず無いのだけれど。

 プリンタからは空気の音と共に紙が吐き出されている。靴の図を、ブーツのデザインを様々描いた紙が。

 モニターを眺めながら彼女は舌打ちする。

「『うちの工場じゃこの布でこのコサージュは縫えない』なんて企業努力が足りないのよ。ミシンくらい最新機種を置いておけって」

 僕は排紙トレイから落ちたデザイン画を拾い上げる。合成皮革とレースの大きなコサージュ。

「仕方ないよ。相手のレベルに合わせてデザインするのも仕事だろう?」

 彼女はフンとだけ言い、別なレイヤーの加工をはじめた。

 僕はデザイン画たちを抱え上げ、クライアントごと分類し、クリアファイルに入れた。

 現在の彼女は靴のデザイナーだ。得意分野はブーツ。しかもかなりの売れっ子で、仕事が絶えない。このマンションの家賃と生活費は彼女の稼ぎだけで賄われている。

「それじゃあ、そろそろ打合わせ行ってくるよ」

 彼女からはいってらっしゃいの一言もない。

 縫製工場やメーカーとの打ち合わせには僕が行く。なぜなら彼女はもう。

 鞄にクリアファイルを詰める僕の脇で、彼女が棚の資料に手を伸ばす。そのままでは届かず、ストッパーを外す。

 車椅子のストッパーを。

 車輪を転がし、机の下から出てきた脚は、両足首から下が無い。



 丸ノ内線が怠惰に揺れている。

 僕はその座席で携帯を、スーパーのチラシアプリを見ていた。

 彼女はデザイン業に専念している。家事や打合せのような、力仕事と渉外は僕がする。

 皮肉なことだ。芸術に縁のなかった彼女がブーツデザイナー、デザイン学科に居た僕が彼女のマネージャーをしているなんて。

 彼女がどうして靴の絵を描き始めたかはわからない。唐突だった。しかし彼女にはデザインの才能が、僕には営業の才能があったのだろう。充分すぎるほど収入は潤沢だ。だんだん大きな会社やブランドの注文も増えてきて、彼女は一流への階段を駆け上がっている。もう動かない脚で。


 狭苦しい駅を抜け、これまたビルに押しつぶされそうな銀座の街へ。平日真昼、誰も彼もがきちんとした服を着ている。数年前の僕なら歩いているだけで気圧されてしまっただろう。しかし今の僕のジャケットは、この街の誰と比べても恥ずかしくない。

 約束の喫茶店で担当者はもう待っていた。集合時間十分前なのに、律儀なものだ。

「どうぞよろしくお願いします」

 会うのは初めてではないが丁寧に挨拶を交わす。担当は集合時間だけでなく、スーツもストライプのネクタイも、眼鏡の形までやたら几帳面だ。

 テーブル席につき、彼女の出力したデザイン候補たちを広げる。担当は「おお」と唸り、一枚一枚吟味しはじめた。

 そんな僕らの脇にメロンジュースが置かれる。豊かに泡立つ果汁の上には、菊の花弁が浮いていた。

 彼女の履くブーツはさながら一文字菊。直線と曲線の交錯美だった。踏み出すためにピンと伸ばされるも、軽く曲げられた膝の角度も、その度に表情を変える合皮の皺や照り具合も。全てが花にも勝る芸術だった。

 ストローに口をつける。優しい緑の甘さが広がる。

 その味さえも彼女のブーツを思い出させた。大学の赤土色の石畳を行くも風流。公園の芝を音もなく踏むもあわれ。あの時も、あの時も、あの時も……。

「あの、大丈夫ですか?」

 気付けば担当がこちらを覗き込んでいた。我に返り、平謝りする。

「考え事をしていまして。申し訳ない」

「いえいえ。では、こちらのデザインにある、コサージュの尾のレースについてなのですが。指定された会社よりは、先日お話したベンチャーの方が似た物を安く受けてくれまして……」

「ああ。分かりました。彼女を説得しておきますから、代替候補を絞っておいてください」

 その後も打合せを続けたが、それこそ素材の使い方や縫製課程における極些細なこと。彼女のデザインそのものにはまず文句がつかない。彼女の作品には、鶴の一声とも言うべき気迫がある。文句を、言わせない。

「じゃあこれで行きましょう」

 ふう、と安堵の息を吐き、担当はクリアファイルに資料を戻した。

「いやぁ、あなたが居てくださって助かります。彼女は――なんというか――非常に気高くて扱いづらいですから」

 偏屈で怒りっぽいと顔に書いてある。

 実際彼女がここに居たらまずレースの時点で「せっかく考えたのに、文句があるなら違う人に頼めばいい」と拗ねてしまっていただろう。損なった機嫌を埋めようとスイーツを次々注文し、担当を困らせたことだろう。

「あの彼女と恋人でいられるなんて、人格のできたおかたです」

「買いかぶりすぎですよ」

 だって昔はそんな子じゃなかったのだから。

 僕は静かに苦笑する。

 一緒に居ても邪魔にならない、むしろ心地よい程度に彼女は良い子だった。偏見と言えば偏見だが、派手な外見の割に誠実で、親しいもそうでないも分け隔てなく接した。ロックのライブに行くのが好きで、そこで出来た遠方の友達も沢山居た。週末は色々なコミュニティから遊びに誘われ、平日より忙しそうですらあった。

 あの事故までは。



 彼女が交通事故にあったのは三年前の今頃、菊盛りのころだ。

 おめかしした彼女を駅前で見かけた。あの感じだと、友達とショッピングにでも行くところだったと思う。僕は携帯から顔を上げ、なんとなく彼女を目で追っていた。道路の反対側、声をかける距離でもなかったから、バスを待ちながら彼女が歩くのをただ見ていた。

 その日のブーツは膝上丈。側面に飾り紐が編上げていた。ヒールは控えめで、五センチくらいだったろうか。

 彼女は携帯をいじりながら、青信号の横断歩道に踏み出した。

 トラックが走ってきた。ブレーキを踏む気配もなく、彼女に真っ直ぐ迫っていく。

 静かなものだった。誰一人悲鳴などあげなかった。唖然と道路を、彼女とトラックを見ていた。

 鋼鉄のバンパーが彼女を弾く。彼女はバランスを崩し、訳も分からぬまま体を捩じってその場に倒れた。脚が二連のタイヤに触れ、巻き込まれていく。聞こえたのは彼女の悲鳴だったろうか、急ブレーキの音だったろうか。僕の手から携帯が滑り落ちた。金切音がやみ、彼女がトラックの真下に消えた頃。

 ぼとん。

 二つのブーツが道路に落ちた。脱げただけにも見えただろう。そう思った人も多かっただろう。

 しかし僕には分かってしまった。その爪先ブーツトゥーの形から、中に足首が入っていると。

 気付いた瞬間、全身が痺れた。

 恐怖からくるそれではない。感じたのだ。ガラス器が砕けた瞬間のきらめき。桜吹雪に震える心。握り潰した葡萄から漏れる汁。しみるしみる、血が浸みるように昂揚が僕の心をひたしていく。

 彼女の靴音は菊花に似ていた。彼女は美しかった。それが壊れ、散り、潰れた瞬間を僕は見た。見てしまったのだ!

 僕は熱い深呼吸の後、公衆トイレに駆け込んだ。



 砕けたガラスの片付け。腐りかけた花弁の掃除。べたつく汁の拭き取り。崩壊美には後始末が待っている。

 僕を待っていたのは、絶望に打ちひしがれ偏屈ヒステリックと化した彼女だった。見舞いに行くなり、彼女は僕に枕を投げつけた。

「見ないでよぉ! どうせ醜いと思っているんだろぉ!」

 実際のところ彼女は醜かった。顔は泣き腫らし、すり傷と絆創膏だらけだったし、薄水色の検査着はおそろしく似合わなかった。何より包帯が、血が浸みて紅白になった脚は目も当てられなかった。

 僕はまず医師に、彼女は義足を履けるのか問うた。義足は難しいと言われた。足首から下を失ったのはもちろん、神経を酷く痛めてしまい、膝すら上手く動かないという。

 別れよう。

 言おうか散々迷った。しかし泣きながら「娘をよろしくお願いします」という彼女の両親を前に、僕は悪人になりそびれた。

 見舞いに行くたび彼女は僕に物を投げつけ、罵声を浴びせた。

「こんな醜い女いらないって、別れたいって思ってるんでしょ?!」

 彼女は様々な言葉で僕を責めた。

「そんなことはないよ」

 その度に僕は微笑んで手を握ってやった。最初は醜くなった彼女を心底憐れんでいた。せめて優しい嘘をついてあげようと思っていた。しかし「そんなことはないよ」を繰り返すうちに同情は摩耗してなくなった。機械的に繰り返す。「そんなことはないよ」「ソンナコトハナイヨ」

 まるで仕事を覚えるように介護を覚えた。仕事みたいなものだ。僕が得ているのは金銭ではなく彼女の親戚や友人から注がれる人格者の称号だった。それのおかげでキャンパスライフは随分なめらかに進んだように思う。

 退院したころ、彼女の両親の援助でバリアフリーの高層アパートを契約した。その後しばらく彼女は引きこもっていた。

 そしていつだか、唐突にブーツを描き始めた。ネットに上げたそれがメーカーの目に留まった。メーカーからの電話に罵声を浴びせる彼女に代わり、打ち合わせへ出向くようになった。就活などできないほどに仕事が増えて。お金が貯まる。どんどん貯まる。月日が進むごと豊かになる。しかし反比例でもするように、暖かさと愛情が薄れていく。

 どうしてまだ傍にいるのだっけ。どうして一緒にいるのだっけ。月日が巡るごと疑問が嵩張っていく。菊の蕾が膨らむように、固く小さなしこりから、大きく開いて思考を埋めるものになる。



 そして今日も僕は買い物袋を両手に、アパートに帰ってくる。

「ただいま」

 おかえりなど聞こえない。いつものことだ。彼女は新作のネタ出しのため、部屋に籠っているのだろう。

 僕は台所へ行き、夕食の支度をはじめる。ササミを茹でながら、野菜を数種洗って皿に盛る。殺風景なそれに、食用菊の花弁をむしって散らしていく。黄色が細かくなる。

 指先から香る菊が回想を呼んできた。

 人気者だった彼女をどうして射止めることができたのか、今でも僕は分からない。僕は決して際立った美形でも金持ちでもなかった。ひとえに僕の必死が伝わっただけなのかもとは思う。あまりに美しかったから欲しくて欲しくて、僕は全身全霊で彼女を求めた。人の才能、外見、社会的立場、そういうものに偏見を持たない彼女だから、純粋に僕の情熱を評価してくれたのかもしれない。

 付き合い始めてからというもの、僕は美しい彼女をいろいろな所へ連れて行った。波打つ湖の畔や森の遊歩道。古風な石畳の道、大都会の歩道。そのブーツが様々な素材を叩くのが効きたくて、その色艶が映えるのを見たくて、それはそれは一生懸命に連れまわした。そして僕は写真を撮った。一度に必ず二枚。一枚は彼女にやるための、顔まで映ったしょうもないショット。そしてもう一枚は、ブーツにしっかりピントを合わせた拡大写真。それらは今も僕のパソコンのフォルダにしっかりしまってある。何重にもバックアップを取り、ロックをかけ、見られぬようそして失われぬよう。何度も何度も開いては眺めている。茨城の千波湖で撮れた写真は特に良く、何度も使った。水遊びで少し濡れた合皮。そこに張り付いた砂粒の配置が再現しようもなく妖艶で。その写真に限らず、彼女のブーツは特に爪先が美しかった。進むために軽く地を蹴るしなやか。高い踵と共に地に立つ鮮やか。だから僕は、僕は。

「ごはんまだ?」

 思わず菊を落しそうになった。

 振り向くと彼女が居た。車椅子の肘掛で頬杖をつき、不機嫌そうに僕を見上げている。

 僕は笑顔を作る。

「もうすぐだよ。冷蔵庫から胡麻ドレッシングを出してくれるかな」

 彼女は面倒くさそうに車椅子を転がし、冷蔵庫を開けた。

 キッチンタイマーがササミの茹で上がりを告げる。僕はサラダの盛り付けをはじめた。

 サラダだけの食卓。向かいの彼女は散らした菊にも配置に凝ったササミにも何も言わず、上からドレッシングをだぼだぼかけた。

 僕もそっとドレッシングを垂らす。

「打ち合わせで少し疲れたな。ビールを飲んでもいいかい?」

「は? 私だって疲れてるけど」

 僕はビールを諦めた。

 サラダだけの簡素な食卓。本当なら僕は夕食を多めに取りたい。学生時代のように、揚げ物を食べたり酒を飲んだりしたい。でも彼女は太るからと脂っこい夕食を嫌う。僕だけ違うものを食べることだって許さない。

 テーブルの隅に花瓶の菊。僕はサラダを食べ進めながら、今日の打ち合わせについて報告する。彼女は相槌も打たず聞く。いつもに増して機嫌が悪い。相当疲れているようだ。

 サラダが半分くらい減ったころ。コップの水を取ろうとした彼女が、肘でサラダの皿をひっくり返した。

 けたたましく床に落ちる皿。飛び散る野菜とササミ。僕は椅子から立つ。

「おっと。大丈夫だよ、拭くから」

 だんと鈍い音がした。目を遣る。

 彼女は拳で机を殴っていた。

「……。ああああ! もう!」

 彼女は金切声をあげ、フォークを壁に投げつけた。まだ綺麗な壁紙に胡麻ドレッシングが飛び散る。床にも傷がついた。

 僕は苛立ちと困惑を隠し、穏やかな笑みを繕う。

「そんなキーキー怒らなくても、サラダくらい僕のを分けてあげるのに」

「サラダがどうこうじゃあないのよ」

 彼女はマグを掴み、机に叩きつけた。

「自分で拾えないから怒ってるのよ!」

 意味がよく分からなかった。

 彼女は何かわぁわぁと口走り、そして泣き出してしまった。机の上を薙ぎ払う。花瓶が倒れる。菊が落ちる。マグが床で割れた。ここに住み始めた時に買った、揃いのマグが。

 僕はティッシュを持って屈み、車椅子の車輪に付いたキャベツとドレッシングを拭い取る。その間じゅうずっと考えていたが、結局彼女の言いたいことは分からなかった。



 怒り泣きする彼女をベッドに連れ、なんとか寝かしつけた。僕はしかめ面の寝顔を見下ろし、しばらく呆然と疲れていた。

 何となく部屋を見回す。

 さっきまで動いていたアロマディフューザー、ラベンダーの残り香を散らしている。彼女の好きなロックバンドのポスターが不敵な笑みを浮かべていた。カラーボックスの上でぬいぐるみが薄く埃をかぶっている。月光を反射するアクセサリートレイ。

 ふと車椅子用卓の上に本を見付けた。彼女はほとんど本を読まないはずだ。それ以上に、机の本はなんだか不自然に見える。タイトルも書いていないのに、やたら凝った装丁だ。

 近付き、手に取ってみる。上から見ると前半のページだけ波打っていた。

 開いてみると、彼女の手書き文字が現れた。本の形をした日記帳だったのだ。

 吸い寄せられるように斜め読みしていく。

 綴られているのは自己嫌悪だった。女らしくお洒落や家事ができない。お洒落ができない。恥ずかしくて美容室やアクセサリーショップに行けない。そんな自分が嫌いだ。そんな自分を、彼も嫌いになってしまいそうで不安だ、と。

『最近デザインがうまくいかない』

 今夕づけの日記は、酷く乱れた文字だ。

『ブーツが大好きな彼のために、素敵なブーツを作り続けないと。デザインがいまいちだと彼の表情で分かる。彼の気を惹かないと。もう自分がブーツを履くのはできな』

 尻切れとんぼの語尾。ここで僕が帰ってきたのだろうか。

 日記を閉じ、元どおり机に戻す。

 僕は静かに寝室を出た。キッチンに戻り、冷蔵庫から缶ビールを取る。ぱきゃんと開いた栓。ひとりの部屋に泡の音がやたら大きく聞こえている。

 少し焦っていた。ずれてはいるものの、僕の興味が離れつつあること、悟られてしまっている。僕がブーツしか見ていないこと、察している。

「はぁ」

 わざわざ大きく息をつく。泡と苦味で乾いた口を洗う。

 いっそこのまま破局まで転がり落ちるのも良いかもしれない。彼女はもうブーツを履けないのだから。




 翌朝すこし寝坊すると、業務用アドレスにメールが来ていた。彼女がデザインしたブーツのコマーシャルを撮影するから見に来ないか、とのことだった。土壇場のお誘いで申し訳ないと今日午後クランクインの旨が綴られている。

「メールを見たかい?」

 彼女は勝手に起きてシリアルを食べていた。朝食の準備が遅れたことに文句を言うつもりだったのだろう。上機嫌な僕を見て拍子抜けの顔をした。

「メール? どれ?」

「コマーシャル撮影の話だよ。行こう」

「……」

 彼女はもの言いたげに僕を見上げている。僕は自分のシリアルボウルを出しながら言う。

「行きたくないなら僕ひとりで見てくるよ」

「……じゃあ、行く」

 食器棚に手が届かなかったのだろう。よく見ると彼女は僕のマグカップにシリアルを入れていた。

 行楽気分に水を差されたくなくて、僕はメガネを外した。ぼやけ曇る部屋。彼女の手元も、非難の視線も、何も見えない感じない。


 彼女の着替えを手伝った後、僕も服を選び始めた。見に行くだけならくだけた格好でもいいだろうか。

 彼女は念入りに化粧を済ませ、アクセサリーを選び、そしてずっと鏡を見ていた。僕が髭や眉の始末を終えてなお、ずっと鏡の前に居た。

「それじゃ、そろそろ出ようか」

 車椅子の彼女を押していくのだ。早めに出るに越したことはない。彼女はうんとも言わず玄関の方へ転がって行った。

 彼女を見送った僕は、物置の扉を開ける。薄暗い中で窮屈に押し込まれたブーツ、ブーツ、ブーツ。

 伸ばしかけた手が、カビの臭いにハッとした。思わず彼女に今日のブーツを選んでやろうとしていた。

 彼女は相変わらず黙ったまま玄関の段差をガタンと降りる。

 僕は音を立てぬよう物置を閉める。よく考えれば彼女、久しぶりの外出ではなかろうか。オフショルダーに晒された肩が緊張に強張って見えた。


 押そうとする僕の手を振り払い、彼女は自力で車椅子を漕いでいった。

 都会の駅は狭い。傾斜がある。腕が疲れるだろうに、彼女は意地でも僕の手を借りなかった。

 人にぶつかったり進路を阻まれるたび、彼女は舌打ちした。舌打つ彼女を睨み返す人に、僕はいちいち小声で謝罪していく。長い髪が電車の起こす風になびき、サラリーマンのカフスボタンに絡まった。僕は慌てて駆け寄り、鋏で彼女の毛先を切った。

 駅を渡るたび乗り換えるたび、彼女の舌打ちは少なくなり、やがて聞こえなくなった。


「ああ、どうもお世話になっております」

 建物につくなり顔見知り、秋の新作シリーズのプロジェクトリーダーが僕らを関係者口に通してくれた。ようやく滑らかになった道を滑走していく彼女の車輪。僕はその隣でプロジェクトリーダーと談笑しながらスタジオに入る。

「今年の新作は粒ぞろいですよ。各種ファッション誌との噛み合いもばっちりです」

「そうですか。お手伝いできて何よりです」

「いやいや。これからもよろしくお願いしますよ」

 重たげな金属の扉をくぐり、束ねられたコードを跨ぐ。

「適当にカメラの死角にいてください。それでは指示があるので」

「お忙しいところありがとうございます」

 そう言い頭を下げたとき彼女の表情が目に入った。もう疲れていた。コードの束を乗り越えられず溜め息を吐いていた。

 彼女の車椅子を持ち上げてやったあと、改めて顔を上げる。最初は忙しく走り回るスタッフを眺めていた。

 ふと馥郁たる香に気付き、僕はセットを見る。

 舞台には色とりどりの菊が敷き詰められていた。黄を基調に、大小様々、品種多々。長い花弁も短い花序も、首元で切られた菊たちが隙間なく並び花道を作っている。思わず呟く。

「生花で作ったのか。豪華だ」

 やがて咲くような靴音がした。息を飲み、振り向く。

 皆違うブーツを履いたモデルたちがスタジオに入ってきた。

「では始めまーす。押してるのでサクッとお願いしまーす」

 メガホンが叫ぶ。張りつめる空気。合図と共に流れ出す、爽やかな音楽。

 花道でモデルたちが踊り出す。

 数秒も要らなかった。僕は脚と足とブーツの織りなすタップに心から魅入っていた。菊花の中で床を叩く音の繚乱。かすかな汗の匂いと花の香りが折り重なる。混ざる。色と艶の洪水が僕の中を掻き乱す――。

 ときめきを感じていた。何年振りだろう。心臓がぎゅうと痛い。だがそれも心地よい。ただこの時間がいつまでも続けばいいと思っていた。目耳も肌も気持ちいい。五感が悦んでいる。これが、これが僕の焦がれる菊花繚乱だ。会いたかった、会いたかった。視界で舞い踊るブーツの爪先が僕の理性を蹴り殺す。開けた口からよだれが迸りそうになり、僕はごくりと喉を鳴らす。

 モデルらがダンスを終え、ブーツを脱ぎ、それらが花道に整然と並べられたとき、僕の興奮は最高潮に達した。響くシャッター音、フラッシュが動悸を助長する。

「う」

 小さな呻きが聞こえた。僕は我に返り、彼女を見下ろす。

 彼女は、口を押えて泣いていた。

 彼女が何を見たのか察し、僕はシャツを引っ張りさげた。下腹を隠そうとするが、丈が微妙に足りない。つうと汗が頬を流れた。慌てて拭う。

 きっと彼女は気付いただろう。色々なことに、気付いただろう。




 アパートに帰り、風呂に入るまで彼女は寡黙だった。僕はいつも通り彼女の入浴を手伝いながら、どうすれば良いか分からずやはり黙ったままでいた。時間と泡ばかりが床を流れていく。

 彼女の全身を洗い終え、湯船に浸してやる。そのとき、彼女はこう言った。

「ごめんね。綺麗なブーツ履けなくて」

 手術の縫目が幾本も這う下肢。そこから目を逸らし、僕は優しく微笑んだ。

「そんなことはないさ。きみはブーツを履かなくても綺麗なんだから」

 優しさを感じてもらえるよう、精一杯で微笑んだ。

 彼女も微笑んでいた。晴れやかな顔だった。いつか湖畔に連れて行き、水をかけあい思いっ切りはしゃいだ後に似ている。この清明は泣いてすっきりしたからだろうか。それとも、漠然とした不安の形を捕え、やっと僕に謝れたからだろうか。

 湖の光を映すブーツが見えた気がした。

 湯船の底で手を離す。

「疲れただろうから、ゆっくり温まって。上がるときに呼んで」

「うん。そうだ、今度ブーツ買って」

「……、なぜだい?」

「資料に欲しいの。さっき撮影してた、ピンクのリボンがネックに巻いてあるやつ」

「あ、ああ、なるほど。じゃあネットで注文しておくよ」

 よかった。びっくりした。我ながら何が「よかった」のか分からないけれど。

 僕は浴室を出、捲っていた袖をおろした。二度深呼吸する。何秒か目を閉じる。彼女は長風呂だから、きっと三十分くらいは出てこない。

 その間にと、物置へ向かう。

 物置の扉を静かに開け放つ。雑然と並んだブーツ。埃をかぶった思い出たちを、ぐるりと見渡す。

 僕はレザーのロングブーツをひとつ取り出した。

 湿った手で丁寧に埃を払う。手に沿う滑らかな稜線。深々と黒。尖った爪先の鋭角。僕はそれを指先で楽しんだ後、シャツを脱いだ。床に落ちるシャツを構わず、ブーツを胸元に抱き寄せる。ぎうと鳴る革。肌を擦る張り。熱い吐息が喉から漏れる。感触と今日の余韻が全身を満たしていく。

 ブーツにしか心がときめかないのは本心だ。ただ同様に、かつてあれ程まで美しかった彼女を、その記憶を愛しく思うのも本当だ。さっき気付いた。それに彼女は僕が好きだからつらくあたるのだ。不安をぶつけるのだ。それはあまりに理不尽だけれど理解もできることで、慣れればきっと可愛らしく思えるだろう。彼女の気持ちをほぐし、笑顔を引き出せるようになれば、さっきのように過去のブーツトゥーが思い出され、僕の心は洗われていくに違いない。

 彼女はもはやブーツを履けずブーツではない。でも一緒に居ればいつでも仕事としてブーツの存在を感じられるし、広いベランダでいくらでも菊と思い出を育てられる。何なら資料と称しブーツをコレクションしはじめてもいい。彼女への想いを、愛を増やすようにひとつずつ。この物置がいっぱいになるころには彼女と重ねた月日だってかけがえない物となっているはずだ。

 ほんの少しだけ艶を取り戻した靴先に僕はそっと口づける。ブーツを抱いたまま片手でベルトの金具を外す。

 ブーツトゥーの記憶。菊花繚乱の忘れ形見。そう、かつての彼女ブーツの面影を、ずっと守り続けていこう。

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